悪人礼賛 —— 中野好夫エッセイ集[#「中野好夫エッセイ集」はゴシック体] —— 安野光雅 編 [#表紙(表紙.jpg、横192×縦192)] 目 次  1[#「1」はゴシック体] 悪人礼賛   悪人礼賛——一九四九・一〇   私の信条——一九五一・五   大学教授始末記——一九五三・四   至上の願い——一九五四・七   忘却の効用——一九五四・七   丸もうけの余生——一九五四・八   俗流人生論——一九五五・五   チャタレー判決笑話——一九五六・一二   恋愛について——一九五六・一二   多すぎる自己没入型——一九五七・三   私の健康法——一九五七・三   酒のたしなみ——一九五七・三   死について——一九五七・三   私の遺書——一九五七・三   匿名懺悔——一九五七・一一   美しい老齢——一九六四・二   漫談・前島熊さんのキツネ哲学——一九七三・六   妄言当死——一九七四・八   死について——一九七六・五—六 2[#「2」はゴシック体] 自由主義者の哄笑   歴史に学ぶ——一九四六・三   われわれの民主主義——一九四六・一〇   若い人々のために——一九四六・一〇   八・一五以後の知識人——一九四七・三   ジャーナリズム——一九五〇・八   文学者の政治的発言——一九五一・一   言葉の魔術——一九五一・五   自由主義者の哄笑——一九五一・一二   現代の危機と終末観——一九五二・二   自由のための闘い——一九五二・三   平和論の憂鬱——一九五二・三   もはや�戦後�ではない——一九五六・二   自衛隊に関する試行的提案——一九六〇・一二   羽仁五郎さんにうかがう——一九六四・二   マーク・トウェインの戦争批判——一九六八・九   アポロとコロンブス——一九六九・七   〈解説〉尻馬に乗って……安野光雅 [#改ページ]   1[#「1」はゴシック体] 悪人礼賛 [#改ページ]   悪人礼賛——一九四九・一〇  由来ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との二つにつきる。  考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。という意味は、悪人というのは概して聡明な人間に決っているし、それに悪というもの自体に、なるほど現象的には無限の変化を示しているかもしらぬが、本質的には自らにして基本的グラマーとでもいうべきものがあるからである。悪は決して無法でない。そこでまずぼくの方で、彼らの悪のグラマーを一応心得てさえいれば、決して彼らは無軌道に、下手な剣術使いのような手では打ってこない。むしろ多くの場合、彼らは彼らのグラマーが相手によっても心得られていると気づけば、その相手に対しては仕掛けをしないのが常のようである。  それにひきかえ、善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。  かりにぼくがある不当の迷惑を蒙ったと仮定する。開き直って詰問すると、彼らはさも待っていましたとでもいわんばかりに、切々、咄々《とつとつ》としてその善意を語り、純情を披瀝する。驚いたことに、途端にぼくは、結果であるところの不当な被害を、黙々として忍ばなければならぬばかりか、おまけに底知れぬ彼らの善意に対し、逆にぼくは深く一揖《いちゆう》して、深甚な感謝をさえ示さなければならぬという、まことに奇怪な義務を負っていることを発見する。驚くべき錦の御旗なのだ。もしそれ純情にいたっては、世には人間四十を過ぎ、五十を越え、なおかつその小児の如き純情を売り物にしているという、不思議な人物さえ現にいるのだ。だが、四十を越えた純情などというのは、ぼくにはほとんど精神的奇形《モーロン》としか思えないのである。  それにしても世上、なんと善意、純情の売り物の夥しいことか。ひそかに思うに、ぼくはオセロとともに天国にあるのは、その退屈さ加減を想像しただけでもたまらぬが、それに反してイアゴーとともにある地獄の日々は、それこそ最も新鮮な、尽きることを知らぬ知的エンジョイメントの連続なのではあるまいか。  善意から起る近所迷惑の最も悪い点は一にその無法さにある。無法文《ノー・グラマー》にある。警戒の手が利かぬのだ。悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付合いやすい、後くされのない人たちばかりなのだ。ところが、善人のゲームにはルールがない。どこから飛んでくるかわからぬ一撃を、絶えずぼくは恟々《きようきよう》としておそれていなければならぬのである。  その意味からいえば、ぼくは聡明な悪人こそは地の塩であり、世の宝であるとさえ信じている。狡知とか、奸知とか、権謀とか、術数とかは、およそ世の道学的価値観念からしては評判の悪いものであるが、むしろぼくはこれらマキアベリズムの名とともに連想される一切の観念は、それによって欺かれる愚かな善人さえいなくなれば、すべてこれ得難い美徳だとさえ思っているのだが、どうだろうか。  友情というものがある。一応常識では、人間相互の深い尊敬によってのみ成立し、永続するもののように説かれているが、年来ぼくは深い疑いをもっている。むしろ正直なところ真の友情とは、相互間の正しい軽蔑の上においてこそ、はじめて永続性をもつものではないのだろうか。 「世にも美しい相互間の崇敬によって結ばれた」といわれるニーチェとワーグナーの友情が、僅々数年にしてはやくも無残な破綻を見たということも、ぼくにはむしろ最初からの当然結果だとさえ思えるのだ。伯牙に対する鍾子期の伝説的友情が、前者の人間全体に対するそれではなく、単に琴における伯牙の技に対する知音としてだけで伝えられているのは幸いである。伯牙という奴は馬鹿であるが、あの琴の技だけはなんとしても絶品だという、もしそうした根拠の上にあの友情が成立していたのであれば、ぼくなどむしろほとんど考えられる限りの理想的な友情だったのではないかとの思いがする。  友情とは、相手の人間に対する九分の侮蔑と、その侮蔑をもってしてすら、なおかつ磨消し切れぬ残る一分に対するどうにもならぬ畏敬と、この両者の配合の上に成立する時においてこそ、最も永続性の可能があるのではあるまいか。十分に対するベタ惚れ的盲目友情こそ、まことにもって禍なるかな、である。  金はいらぬ、名誉はいらぬ、自分はただ無欲でしてと、こんな大それた言葉を軽々しく口にできる人間ほど、ぼくをしてアクビを催させる存在はない。  それに反して、金が好きで、女が好きで、名誉心が強くて、利得になることならなんでもする、という人たちほど、ぼくは付合いやすい人間を知らぬのだ。第一、サバサバしていて気持がよい。安心して付き合える。金が好きでも、ぼくに金さえなければ取られる心配はないし、女が好きでも、ぼくが男である限り迷惑を蒙るおそれはない。名誉心が強ければ、どこかよそでそれを掴んでくれればよいのだし、利得になることならどんなことでもするといっても、ぼくに利権さえなければ一切は風馬牛である。これならば常に淡々として、君子の交りができるからである。  金がいらぬという男は怖ろしい。名誉がいらぬという男も怖ろしい。無私、無欲、滅私奉公などという人間にいたっては、ぼくは逸早くおぞ気をふるって、厳重な警戒を怠らぬようにしてきている。いいかえれば、この種の人間は何をしでかすかわからぬからである。しかも情ないことに、そうした警戒をしておいて、後になってよかったと思うことはあっても、後悔したなどということは一度もない。  近来のぼくは偽善者として悪名高いそうである。だが、もしさいわいにしてそれが真実ならば、ぼくは非常に嬉しいと思っている。ぼく年来の念願だった偽善修業も、ようやく齢知命に近づいて、ほぼそこまで到達しえたかと思うと、いささかもって嬉しいのである。  景岳橋本左内でないが、ぼくもまた十五にして稚心を去ることを念願とした。そしてさらに二十代以来は、いかにして偽善者となり、いかにして悪人となるかに、苦心修業に努めて来たからである。それにもかかわらず、ぼく自身では今日なお時に、無意識に、ぼくの純情や善意がぼくを裏切り、思わぬぶざまな道化踊りを演じるのを、修業の未熟と密《ひそ》かに深く恥じるところだっただけに、この定評、いささかぼくを満足させてくれるのだ。  もっとも、これはなにもぼくだけが一人悪人となり、偽善者たることを念願するのではない。ぼくはむしろ世上一人でも多くの聡明なる悪人、偽善者の増加することを、どれだけ希求しているかしれぬのである。理想をいえば、もしこの世界に一人として善意の善人はいなくなり、一人の純情の成人小児もいなくなれば、人生はどんなに楽しいものであろうか、考えるだけでも胸のときめきを覚えるのだ。その時こそは誰一人、不当、不法なルール外の迷惑を蒙るものはなく、すべて整然たるルールをまもるフェアプレーのみの行われる世界となるだろうからである。  されば世のすべての悪人と偽善者との上に祝福あれ! [#改ページ]   私の信条——一九五一・五  神について  現在、無宗教というのが一番正しい。対話する神、祈りの言葉をもって呼びかけうる神の存在を信じることができないからである。アインシュタインは、「人間の欲望や目的の空しさと、それに反して、自然並びに思想の世界の中に顕現された驚くべき秩序と荘厳さとを感じる」心をもって、「宇宙宗教」と呼び、教会も、神学も、人間の擬像によって考えられた神ももたぬこの信仰をもって、近代科学と少しも矛盾しない、むしろそれを正しく刺激する最も進歩した宗教だと主張しているが(メReligion and Scienceモ——The World As I See It 所収)、こうした心情をもなお宗教の名をもって呼んでいいものかどうか、私には疑わしい。  家が両親ともクリスチャン(日基派)だった関係で、私自身も最初小児洗礼を受け、中学時代、信仰の告白もし、旧制高校時代まで一面では矛盾に苦しみながらも、一応熱心な信仰をもっていたといっても、必ずしも涜神でないと思うが、三年生の時、意識的にはっきりと教会と絶った。その後東京で高倉徳太郎氏の、むしろ人格に惹かれて二、三年間氏の教会に出た時期があるが、しかしその時にもすでに祈りの言葉はついに私の口を出なかった。最大の躓きは、今から考えても、はっきりカルヴィニズムのあの予定説にあったように思う。そして現在はただどうしても払拭し切れぬ罪の意識だけを遺して(棄教後の私の言動は、私の中のこの罪の意識をいかにして克服するか、そのための一種自棄的反動であったといってもよい。しかし結果はついに成功しなかった)ほとんど完全にキリスト教的志向は失われてしまった。  一切既成宗教の神人同形同性説 Anthropomorphism は、正直にいって私にはナンセンスとしか思えない。たとえば近代物理や天文学や確認している宇宙の中にあって、地球の存在の如きは一点の微塵にしかすぎぬものであろうし、その地球上に、たまたま偶然中の偶然ともいうべき生命存在の諸条件が整って発生したとしか思えぬ人間が、彼ら自身の醜悪の救済だけを独善的に大きく取り上げ、またつくり上げた神の観念など、私にはフィクション以上には考えられぬ。かりに神が実在するとして、その神がもし人間だけをその選ばれたものとして、既成宗教のいうごとき問題にしているとすれば、神はなんというおそるべき無駄をするものであろうか。中学上級生の頃、私は脛にとまった蚊を一匹、何気なしにピシリと打ち殺した。その直後、私はハッとして神への疑念が湧いたことを今もってはっきりおぼえている。おそらくキリスト教へのかすかな疑いの起った最初であったように思う。  生命について  私は、私の肉体的生命の終焉時が、そのまま同時に精神の終焉ででもあることを心から願う。天国であれ、地獄であれ、そのほかいかなる形の存在であれ、死後の生存の如きは私は考えるだけでもやり切れない。もう沢山だといいたい。よくアンケートなどで求められる、今一度もしこの人生を生き直すことが許されたらなどという想像は、私にほとんど戦慄に近い恐怖を与える。考えてみたこともない。  個人の生命そのものの意義を過大評価することは、私は近代人間の抱く最大の迷妄ではないかと思っている。永遠の生命ということは、もしありとしても、生殖細胞の形によってなされる永続性以外には、私には考えられぬ。漠然とながら私には、なにか人類全体の群落的性格というようなことが考えられる。多細胞生物にあって、その個々の構成細胞は老朽とともに刻々に死に絶えているわけだが、しかし決してそれは個体そのものの死を意味しない。また同様に、造礁珊瑚にあって、個々の珊瑚虫の死は決してそのまま珊瑚の死を意味しない。ところで同じ類推が、人類という種全体の目に見えぬ polypidom についても成り立つのではないか。そして一人の人間の死は、決して生命軽視の意味でではなく、むしろ人類という polypidom の発展、生長という意義の中で、単に一個の珊瑚虫の死に比せられていいのではあるまいか。過去数千年にわたる人類文明の発展の跡を考えてみても、個体そのものの死は、せいぜいそんな風な程度に評価されて然るべきではないのか。誤解があっては困るが、これは私たちに絶望を与えるものでなく、むしろ逆に限りない希望と力づけになるものだと私は思うのだが、どうであろうか。  良心について  神を信ぜぬ私にとっては、したがって私自身の良心の外に、客観的に存在する公教的な道徳基準を信じることのできぬのは、残念ながら已むをえない。いわば一歩退いて、個人の良心という不確定な基準に拠るほかないのである。  良心という、ある意味では把えどころのない実体が、果してどのような要因によって成立するものか、私自身にも明らかでない。おそらく各人それぞれの生来的にもつ遺伝因子と、後天的に獲得する教育と、環境の影響として生じる無数の因子が微妙に結合晶化して、それぞれ各人の良心という直覚的道徳基準をつくり上げるのではあるまいか。私自身についていえば、私なりの遺伝因子の上に、貧乏士族の儒教道徳と、プロテスタンティズムの倫理と、馬鹿正直で失敗した小官吏の子であるという事情と、またその結果として、物はこちらから積極的に獲得に出るのでなければ、誰も先方から与えてくれるものでないという経験から学んだ後天的処世知、そのほか私自身にも気のつかぬ諸因子が、無限の複雑さで絡み合ってできたものが、私の良心であるに相違ない。  その意味で、良心という実体が「万人により」という公教的、客観的な基準たる根拠はもたず、多分に主観的要素を含むこと、いいかえればヴォルテールがあの「哲学辞典」で、ガマの世界では美人とは目玉が飛出し、大口を開き、肌にイボイボのある牝ガマであると諷した美的判断にも似た主観的要因を、多分に含むものであることは、率直にいって良心の弱点として認めねばなるまい。  したがって、すべてのエンドウ豆が、そしてすべての人間の頭が、その限りない個性差にもかかわらず、なお全体的に見て大きな普遍性をもっているように、良心においてもまたその否定し難い個人差にもかかわらず、なお人類的良心といった最大公約数的性格の存するであろうこと、それだけがせめてもの恃《たの》みではあるが、それにしても私は、私の良心の無謬性を他人にまで押しつける勇気はとうていない。私が寛容の徳をもって、人間のもつべき最高徳目の一つであるとする考えを捨てきれぬのは、主としてこの理由による。神を信じることのできぬ私、まして常に何らかの政治目的をもちながら、ただ美しい仮面下で主張される理想の如きは、とうてい信じえぬ私にとり、いわば私の良心が最後の死守拠点であることは已むをえないのである。そのかわり、私自身の良心への私の服従を尊重してもらいたいごとく、私もまた他人の良心判断を、たとえその結果の見解においては私と判断を異にしようとも、心から謙虚に尊重したいと思う。  未来の人類社会について  私は社会主義社会の実現を信じ、またある意味ではその到来の必然さをさえ信じている。単に歴史的段階として成立した資本主義社会が、永遠的な、また最高至上の社会形態であるなどとは、とうてい信じられぬ。それどころか、現在の人類社会がすでに所有している生産能力の下においてさえ、むしろそれはきわめて矛盾にみちた拙劣に運転する機械だと思っている。やがてそれは当然歴史的生命に終止点を打たれねばならぬ社会機構であろう。ある時期にわたり社会主義的政策を加味した修正主義が、その過渡的機能を果すことは想像されるが、そうした修正主義の必要、要請というそれ自体が、とりもなおさず資本主義そのものの運命を予兆しているといってよい。  といって、私はマルクスのいわゆる「各人の能力に応じて各人から、各人の必要に応じて各人へ」という高次共産主義社会の出現は、現在のところ信じない。人間の原罪的エゴイズムを信じないわけにいかぬからである。封建社会を崩壊させ、資本主義社会を実現させたものが、私利私欲の追求者としての人間であったように、社会主義社会を実現させるものもまた、私は同じ私利私欲追求のエゴイズムであるような気がする。ただそれは昇華されたエゴイズム、いいかえれば人間の新しい知恵が、ときには各人の徹底的私益追求に多少自制を加えることこそ、かえって実は私利の増進を促すような段階に到達したと知ったとき、はじめてそれは合理的解決として十分実現されるだろうと信ずるのだ。  だが、未来世界に関するはるかにもっと大きな憂慮はほかにある。果して人類は現代の危機を賢明に切抜けるだけの生きる知恵を獲得しうるのだろうかという一事である。十九世紀以来の物質文明の進歩は、それに適応すべき人類の生きる知恵を完全に背後に取り残した。という意味は、物質文明の進歩は人類社会の真の幸福を増進させることよりも、はるかに多く人間殺戮の道具として使用されてきた観がある。しばしば世界の指導者的人物でさえもが、十九世紀的な観念様式をもって、二十世紀の要具を悪用している疑いが深い。驚くべきこの跛行状態の将来には、人間文明そのものの破滅がありうるだけである。  地殻の歴史はかつて何千万年、何億年間にわたり無数の生物の生滅を物語っている。しかしこれまで幾多大変異の歴史は、そのたびに常に次代の新しい生物を、より高い文化水準をもって繁栄させるべく、巨大なエネルギーを蓄積してきた。ところが、近年の人類文明は、地上の、地下の、海中の、空中の、あらゆる可能エネルギー源を、いまや驚くべき速度とおそるべき貪欲さとをもって蚕食しつくそうとしているのだ。もしこの怖るべき文明が、すべて人類幸福の増進のためでなく、人類破壊のために利用されるとしたならば、近い将来の世界はもはや社会主義世界の実現どころか、人類絶滅後のこの地球と呼ぶ惑星は、わずかにただ原生生物と下等小生物だけをのこすだけで、いわば無限宇宙の深淵をただ黙々と回転しつづける一土塊であるという、そんな日さえ到来するのではなかろうか。果して人類は生きのこるのであろうか?  人間あるいは私自身について  ルソー以来のいわゆる近代主義的自己告白症は、私のもっとも不快とするものである。たしかティボーデであったか、ルソーの「告白」を書くかわりに、ヴォルテールはかの「カンディード」を書いたと評していた。この十八世紀人間の良識は、私のもっとも心惹かれるものである。内に燃える情念の強さに対して、これを押し鎮めるさらに強い冷かな理性に対し、私は五分の自己嫌悪と、そして五分の自信とを感じている。  私のうちの情熱、情欲、情念、そうした私の理性を縛って奴隷とするものに対し、私は半ばの感謝と半ばの迷惑を感じている。たとえば性欲にしてみてもだが、私はほぼ食欲に対すると同じ考えを抱いている。私は旺盛な食欲を愛するが、食べ終った食物のことを、そういつまでも考えつづけようとは思わぬ。D・H・ロレンスの性欲論は、精神偏重の文明に対するもっとも効果的な、そしてまた真摯をきわめた反定立として、一応その前に足を止めはするが、さりとてその前に立ち帽子を取る気などはほとんどない。モームのある短篇に、商女とのある交渉が終ると、すぐそのまま床中でスピノザの「エチカ」を読みついでいる男の話が出るが、ほぼこれは私の同感を得るにちかいであろうか。 [#改ページ]   大学教授始末記——一九五三・四  正直にいうと、あまり気の進まない文章である。今にして考えると、大学をやめることについて、私はだいぶ計算違いをしていたようだ。高が「迎合教授」の一人がいなくなるというだけの、いわば全く私だけのプライヴェート問題ですむつもりでいたのがいけなかった。もっとも、それでもかなり用心深く、近親、知友にも黙っていたのだが、やはり事の直前になって嗅ぎつけられ、思わぬ形で報道されてしまったために、まことに見っともない始末になってしまった。したがって、この問題については、あまり私から喋りたくないのだが、なにぶん以上のような事情で、その後取沙汰されている理由は、必ずしも私がやめることにした理由の全部ではない。あれだけでも困る以上に、さらにそれが二重三重に孫引され出すと、とんでもない拡大解釈まで加わり、それでは現在まだその職に残っておられる多数日本中の大学教授諸氏にまで多大の迷惑をかけているというようなこともあろうし、また見方によれば、他の一般国民諸氏を馬鹿にしたような言辞と取れる気遣いもないではない。そんな理由もあり、いっそこの際、与えられた機会を利用して、はっきり責任のもてるところを述べて置くことも、あながち無意味ではないという風に考えが変った。つまり、以下が私の教授会席上で退官承認を求めた、ほぼそのままの要旨と承知願いたい。  私が自分だけで停年五十歳ということを考え出したのは、もう五、六年の昔になる。理由は公私さまざまであり、それらが集って、まあ五十歳という、私にとってはほぼ適当かと思える時期を決定させたので、したがって、やめさせられたのでもなければ、喧嘩別れでもない。私の場合はこれという派手な芝居じみた決定的理由などなにもない。ところで、今からそれらいくつかの公私理由を述べるつもりだが、もしそれによって、多少でも大学という、比較的世間離れのした世界の実情報告にでもなれば、あるいはこんな私的雑文にも、いくらかは意味のあることになるかもしれぬ。  公私いくつかの理由といったが、世間的には大学教授では飯が食えぬのでやめたということになっている。だから、やはりその問題から入るのが順序だろうが、大学教授で食えない[#「大学教授で食えない」に傍点]ことは、たしかな事実である。もっとも、この言い方には、多少事情を説明しないと、誤解の惧れもあれば、思い上りという危険もある。すでに幾度かしゃべらされたように、私自身も最近はベースが上り、手取り三万五、六千円がところはもらっていた。大学教授としては、おそらく上の下か中の上どころだろうか。抽象的にいえば、これで食えぬというのは僭上であり、なんとしてでも食わねばいけないと思っている。国民大多数の人々のことを思えば、これで食えぬというのは通用しない。だが、それには条件が二つある。第一には、食うとはただ生命の玉の緒をつないで行くというだけのことなのか。また第二には、私たちの与えられるもののすべてを、広い意味でのいわゆる生計費だけに当てることが出来れば、という条件である。  第一の条件については、簡単に切り上げよう。日本人には、他人の生活をできるだけ引き下げることに快感を感じるという悪い癖があるが、私は日本人はもっと人間らしい生活への権利を主張してよい。少くともできるだけ多くの人間が、せめて最低限の人間らしい生活のできるような社会への要求を強く主張してよいと思っている。私は聖人でないから、清貧を憎む。汚富は困るが、清富は立派な美徳だと信じている。  ところで、次は第二の条件だが、ここでまことに奇妙な大学教授という特殊事情(?)が入って来るのだ。あまり世間は気づかぬことだが、おそらく世界中で日本の学者くらい莫大な書物を私蔵しているものはいないのではなかろうか。いわゆる書物好きは別として、ここに奇妙な事情がある。つまり、もし日本の大学や研究所に、もっと十分な研究費、図書費さえ与えられていれば、おそらく私たちの買う本の過半は買わずにすむのである。  私のいた英米文学科の研究室でいえば、昨年になってやっと科の図書費が年十一万円になった。これで洋書がいくら買えるか、少し経験のある人ならすぐわかろう。日本の最高学府などというが、内容は実にお寒い限りなのだ。いつかもアメリカの若い大学生上りが参観に来て、あとで基本的な蔵書がないと評していたそうだが、基本もヘッタクレもないのである。では、書物がないからという理由で、私たち日焼けした古ノートでの講義をさえしていればすむのか。良心的な学者ならとうてい堪えられぬことだろうし、そうでなくとも講義への評価は、そんな事情とはお構いなしに、学生からすら容赦ない批判を受ける。仕方がない、みんな身銭を切って買い込むのだ。人間、読みたい本だけを買うのなら知れている。ところが、私たちには、情ないが、買って置かねばならぬ書物というものが実に次々と出るのだ。私だけでも大学の図書費の三倍くらいは、自腹でその方に使っている。むかし読んだ「悪文を売って良書を購う」との馬琴の言葉が、身にしみて忘れられぬのだが、私の知る助教授級の人たちなど、勉強するものほど、五万円、十万円と本屋に借金を背負っている。どうして払うのだろうかと、他人事ながら見ていて痛々しくなる。  はっきり言明していいが、もし現在の大学教授職にあり、勉強もし、良心的にその義務を果している人間で、厳密にいって俸給だけで食っている人が一人でもいたらお目にかかってもよい。私などはむしろ比較的後くされも腐れ縁もなくてすむジャーナリズムで大いに稼いだが、そうでもなければ、なんらかもっとさもしい見えぬ形で身を削っていたに相違ないのだ。わが国有数の国立大学長をした人で(この学者は私などと違い、それこそ学者的潔癖と清貧とに終始した人だが)、その子弟の教育は育英会奨学資金に仰いでいるという学者が現にいるということ、果して世間は知っているのだろうか。厳に学者の本分を守れば、当然こうするよりほかにない。世界中でおそらく日本だけの現象だろうと思うのだが、どうだろうか。  金銭ついでにもう一つは、私などは悪教授だったから、それでもなんとか食って来たが、かりに停年までいたとして、あとはいったいどうなるのだ。三十年ばかりもいたあとで停年でやめれば、なんでも今は恩給と、それに七、八十万円ばかりの一時金にはなるという。これがどんなものであるかはしばらく問わぬとして、誰が六十歳までの健康に絶対自信ありといえるのか。私などもそうだが、すでに五十に近づいて、私などとうてい大隈侯や御木本真珠王のような馬鹿自信はない。この文章を書くのに、念のため私自身の退職金を聞いてみたら、二十四年公務員をして二十三万円ばかりだという。私の場合は健康だからいいが、ぼっくり病気で死んでもやはりそれなのである。なにもかもいってしまえば、私の場合など五歳から現在大学生まで五人の子供がいて(無分別は恐れ入るが)、いったいどうなるというのだ。この話を聞いて、改めて早くやめてよかったとつくづく思っているわけ。何十年か教育一途に身を捧げた老教授が、昔の弟子たちに家を贈られたり、遺児教育資金を集めてもらったり、そうした美談は私のもっとも憎むもの。決死隊美談や壮烈功名談を生む戦闘は結局最も拙劣な作戦の証拠だとは、故名参謀秋山真之の至言だが、ほとんどすべての場合、社会美談は悪い社会の症状でしかないのである。  理想をいえば、大学の学者などは大学の学問に一生奉仕するのが、最善の途だと私も思うし、その意味ではそもそも停年などおかしいのだ。だが、現実の今の状態では、学問奉仕の美名にごまかされ、国家の文化アクセサリーを勤めさせられるなど、もうこれ以上絶対に真平である。  金の話が出すぎたが(私という人間が下根でさもしいのだから仕方がない)、次には私自身大学教授としての適格性という問題もある。  詳しくは書かぬが、私が大学教授になるなどとは、私も予想しなかったし、周囲の人々も毛頭予想しなかったはず。いう意味は、最初から私は大学教授になれるような勉強の仕方をしなかった。不勉強だとは申さぬが、それは好きなもの、というよりは、なんらかの意味でいかに生きるかという私自身の関心に切実な題目だけを、全くわが儘勝手に勉強した。そんなわけで生活的には十年近くも中学校や女学校をうろついたあとで、突然昭和十年の秋、斎藤勇教授の推薦で大学へ来ることになった。当時友人の一人が酷評したように、私の大学入りは撞球でいえば全くのフロックだった。(ついでながら斎藤教授という方は、私個人としての恩師であるばかりでなく、学校成績のあまり優秀でないものでも、伸びる素質のあるものを実によく伸ばして下さった傑れた教育者だと思っている。それでいて少しも先生の学風を私たちに強要されることはなかった。小説家の阿部知二君などもその一人だし、今私たちの方で傑れた仕事をしている連中は、ほとんどそうした先生のお蔭で伸びた連中ばかりである。)  だが、やはり大学へ来て見ると困った。日本の大学というのは、自信のある専門分野ばかりをやっていられるほど内容充実したところではない。大学院学生、助手、講師、助教授という定石コースを辿ったようなアカデミー的学問は私には全くない。といって、専門以外はできぬなどという我儘は許されぬ以上、にわか勉強でなんでも、とにかくお茶を濁すよりほかはないのである。なんともはやお寒い限りだった。  とりわけ戦後になると、学生間のアメリカ文学熱が急に高まった。希望の盛んなものをなんとか満足させてやらぬわけにはいかぬし、といって、そんな講座要請をしたところで、新設されるはずもない。仕方がないから、これも私が三年ばかりひどい間に合せ講義をしたわけだが、大学にも私の蔵書にもその方の書物はガラガラだし、にわかに知人の専門家から借りるやら、身銭で買い込むやら、学生も気の毒だったが、私の心もたまらなく重かった。全くやり切れぬ思いだった。(このアメリカ文学までやらねばならなかったことについて、私がアメリカ文学はつまらんという評価を下していたとか、ひどいのになると、なにか占領軍からの強制でもあったかのようにカンぐって書いた雑文書きもいたが、強要などむろんなかった。それどころか、おそらく東京大学に関する限り、占領下にアメリカ軍当局から学問内容についての干渉がましいことなど、ついに一度としてなかったはず。その点はかつての日本の軍部などと違い、実に立派であったことを書き添えておく。)  そんなわけで、他人や学生からの評は知らず、大学在任中、私の心はたえず実に重かった。なにもかも知ったような顔をしなければならぬのが、いっそう苦しかった。それでも若いうちは、本当には解りもしない外国文学のことを、まるでさも解ったような顔をする山気も虚栄心もあったが、近年は外国のことがだんだんわからなくなるばかりである。そんなわけで、最初退官の意志を申し出たのは、もう数年前、主任教授の斎藤教授の退官時だった。もっとも、その時は同教授だけに申し出たので、一も二もなく止められるし、私自身もそれではあとに残す無責任さをも考えて思い直した。が、その後ほぼ五十歳を停年と考え、ひそかにあとの用意をしていたわけ。  すでに二、三度ばかりも書いたことだが、私は学生から大学院、大学院から助手、次いで講師、助教授といったような定石通りの大学教授養成コース、いいかえれば大学という狭い温室の中だけで、外の世界には一切出ないような育成法を、決してよいものだと思っていない。大学教授なるものが多分に虚名でありながら、とにかく妙な世間的評価だけは受けている現在にあって、若い学徒が研究室内教授中心だけの学問生活を送り、そのまま広い世間との他流試合の味も知らずに後継者になることなど、きわめて呑気だとさえ考えている。もっともいけないのは、嘘か真実か、とにかく世間が教授に対して払う尊敬(?)の幾分かが、目に見えた区別もできぬばかりに、自然助手にすぎぬ若い学徒諸君にまでつい及ぶのである。これがいけない。そこは人間の弱さで、それら若い人々がなにかさもそれを自分自身から出る発光のように思い込んでしまうのだ。やがてこれが、あのなんとも鼻持ちならぬ、いわゆる教授気質をつくってしまうのである。  その意味で私は、田舎教師はおろか、雑誌の原稿集めや広告取りまでして、裸の自分だけで立ち向わねば、いつ馬鹿にされるかもわからぬような数年間の経験をもったことを、大学に行っても決してマイナスだとは思わなかった。だが、いかんせん学問の方は、大学教授的に、といって悪ければアカデミックな意味で非常に欠陥があることを、私自身がもっともよく知っていた。大学は決してジャーナリズム的学問の場所ではないのだ。そこに私は私自身の不適格性をはっきり見た。みずから不適格者と信じるものが、退く時機を考えるのは当然であり、なんの不思議もない。  ただ大学教授をやめるという純私人としての進退が、なぜこう世間的に酒の肴になるのか、私にも正直にいって実に意外だった。はっきりいえば大学教授などという身分を、日本人はもっと簡単に考えた方がいいのではなかろうか。その点外国ではもっと簡単に行っているように思える。不適格性でやめるのも一つだが、もっとほかに長い人間の一生の間、学問的興味が自然に、そして内的に移って行くということもあるはずでないか。最初大学を出た時の学問分野が、そのままその人の学者的一生を決定してしまうとなれば、それは当人としても、日本の学問としても、非常に不幸なことではないかと思う。別に名を出していう必要はあるまいが、中年以後その人の興味が日本の芸術に移り、現にその方で次々と業績を出しながら、大学の方は停年まで依然として勉強もしない外国文学教授だったなどという実例もあるが、自他ともに困りものである。こういう点は大学教授というものを、もっと簡単に考えて、不適格と思えばやめたり、また適格者になれば他の専門分野で大学にもどったり、もっと自然にいけばよいと思うのだが、日本の場合はなんともセクショナリズムがひどく、とてもそうはいかぬのが日本の学界の大きな不幸だと思う。  最後に今一つ、そしておそらくもっとも決定的な理由だったと思うのは、日本のように教育というものが極度の侮蔑、軽視の中にある国にあっては、二十年も宮仕えすれば、たいていイヤになってやめたくなるということである。現に私のやめることが決って以来、四十歳以上の知人でお目出とうをいってくれなかったものはまずない。退官決定の教授会の散会後、その足で直ちに祝盃をあげてくれた数人の同僚教授さえいたくらい。いろいろと事情もあり、みんながみんな退官というわけにもいくまいが、おそらく国立諸学校の教師諸君にして、この国の教育に対し強烈な不満を持っていない人間は、一人としていまいというのが私の観測だが、誤っているだろうか。  金銭、待遇の問題だなどと早合点されては困る。むろん待遇のこともあろう。だが、もっと重大なのは精神的プライドの問題である。どうせわれわれ教師、教育者となったからには、最初から重役諸君のようなゼイタクができる身分になろうなどとは思ってもいない。精神的プライドさえあれば、たとえ物質的には恵まれること薄くとも、彼等はいい気持で(と他人からは見えよう)働くのだ。それが教育というものの楽しさである。ところが、事実はどうか。この国では教育というものが、いかにひどい蔑視の中にあるか。口先きだけの教育尊重声明をいっているのではない。事実を私は言っているのだ。なにも私は、学者でなければ文部大臣には不適任だなどと窮屈なことはいわぬが、それにしても年来、いかにお粗末な人物が平気で文相の椅子に坐ることか、この一事だけに見てもわかる。  殊にいけないのは戦後の教育政策だった。終戦の詔勅にはじまり、敗戦以後のどの政府もだが、よくまあ尤もらしい文化国家、教育国家再建とやらの方針を、手放しで放言ばかりして来たものである。いずれはチャラッポコだろうと思っていたその疑い深い私ですらが、考えてみればやはり人が好いのであろう、またしても一ぱい食わされた。たとえば教育制度改正の折など私は再三度書いた。理想的にさえ行えれば、その教育目的の方向において、新教育制度が旧制度のそれに優ること万々だが(それは今もって信じている。その意味で多少の押しつけ気味はあったかもしれぬが、物自体悪いものの押しつけだとは思わない)、ただ戦後日本の財政経済という困難な場の中で、果して立派な実施ができるだろうかと。だが、当時の政府声明、談話類をいま見てもわかるはずだが、敗戦新日本の再建は、迂回生産だが、教育のほかになしと、口を開けばくどいほどくりかえした。それがもし本当なら、困難だが不可能ではないと私も思った。しかも理論的には、事実よき市民教育以外に正しい日本の再建はないのだから、私もついつい女郎の起請文を真に受けたのだ。だが、その後のていたらくはいうまでもない。状勢の変化という便利な口上までが「女郎のまこと」に似ているが、六三制の実施現状がなによりの証拠であろう。  一般論は珍しくないから、もっと具体的にいえば、たとえば今度の国立大学新大学院の設置である。専門的なことは省いていえば、まず今度の新大学院とは旧制のルースなそれとは異なり、まず新しい大学にも近い規模のものが、さらに今一つずつ新しく加わるものと考えてもらってよい。ところが、全国十二だか十三だかの国立大学院ができるというのに、おそらく本当とは思えぬだろうが、来年度予算には人件費一文、施設費一文、計上されていないのである。(ただ全国で学生一人当り四千円、それで千人分という学生福祉費とやら称するものが、当てられているにすぎぬのだ。)だから、東大にしてみても、施設一つの増築もできなければ、講座一つ新設できるわけでない。施設は割り込み同居だし、教授陣、事務陣は、いずれも厳密にやれば、すべて倍近い労働強化になる。(だから、実際にはゴマカシ実施が行われるのは当り前であろう。)  こんな馬鹿げた話があるものだろうか。向井蔵相の言葉ではないが、なんでも予算よこせ、よこせしか考えぬのが、おかしいことは決っている。だが、大学院新設のことは、教育制度改革の時からすでにわかっていた話のはず。予算が出ぬから折角の新規事業も取止めというのならまだ話はわかるが、これは予算は出さぬが実施はせよとの命令(?)なのだ。驚いた話である。金なしに教育機関ができるなどというキテレツな話はあるはずのものでない。だからこそ私大などでは、いずれも巨額の寄附金を無理算段して建物をつくったり、新しく教授陣を迎えたりしている。そうでもしなければ、政府任命による大学院設置委員会(?)だかの認可が出ぬのだから無理もない。だが、考えてみると実に妙な話で私大には大きな要求を発しながら、国公大にはたとえ実質低下(当然そうなると思う)が目に見えても、ドンドン認可するとでもいうのだろうか。私大などむしろこの矛盾をついて、少しは尻くらい捲って見せてもよさそうに思うのだが、今の私大には明治時代の野党精神など薬にしたくもない。ただ唯々《いい》として官の鼻息をうかがっているだけであり、せいぜいが占領軍に向ってうっぷんを洩らしたくらいが関の山だった。そこでまた国立大学院についてだが、こんな奇妙なことが行われるのも、大学教授には団結もなにもない。蔭ではブツブツ不平を洩しながらも、結局はズルズル押されて行くよりほかないところに問題がある。非常に喜んで大学院開設を迎えている国立大学教授が一人でもいたら、私の発言、その人に対しては非常な非礼を犯したことになる。お詫びをする。もっとも、能なし教授に限り、なんとか大学院教授の名前にありつきたいと狂奔している虚栄の醜態も知ってはいるが、これはもはや問題外。たいていこんなことだろうとは予想していただけに、果してそうだとわかったとき、五十歳停年説を一年早めて四十九歳退官という私の決心は最後的に決った。もうこれ以上大学教授という美名の下に馬鹿を見るのはたくさんである。近年流行の言葉でいえば、情ないが最低限度のレジスタンスかもしれぬが、そんな話はどうでもよいとして、実際国家がもっと真剣に教育ということを考えるのでなければ、おそろしいことになると思う。  小さいのまで数えれば、理由はまだまだいろいろとある。ひどく感傷じみて恐縮だが、太平洋戦争の終ってから、だいたい私は自分の生命を余生だと思っていた。私の健康からいえば当然兵役に取られるべきものを、その徴兵適齢期は兵隊のそう要らぬ軍縮時代、そしてまた日支事変後は、わずか二、三年そこそこ生れが早かったばかりに、きわどいところで終始軍籍を免れて来た。私などより三、四年齢下、また私自身の教えた惜しい青年たちも、何人かはついに帰らぬ魂になってしまったのに、たまたま上述のような偶然の時間という幸運だけが、まことに勿体ない安全な場所に私を残しておいてくれた。その意味での余生である。余生だと思えば、せめては他人への気兼ねなどなしに、もっと自由に考え、もっと自由に物をいって生きてみたい。それには公務員といえば、圧迫はなくとも窮屈はある。それに私の言説行動が、かりにも他人に迷惑を及ぼしては相済まぬ。もっと純粋に自由な立場で物がいえるためにも、やはりこの際はやめておきたかった。これ以上将来に関することは、あまり大きな口を利くと、政党の公約みたいで、恥をかくからやめにする。  だいたい以上いって来たような理由が、特にどれ一つというのではなく、おのずから一つに集約され、一つの意志になったというのが、もっとも正直な私の退官理由であろう。  流布された大学教授では食えぬ説に対しては、食えなくともやめられぬものも沢山いるのだとの反駁があった。痛いところである。だが、ほかで食える見込みができたからやめたというのが、現象的にはたしかにそうだが、動機的にはむしろやめられるよう、意識的になんとかやめても食えるよう設計したというのが正しい。ついでのことに説明させてもらう。  昭和七年のことである。私はある女学校、女子師範の英語教師をしていた。むろんジャーナリズムなどにはなにも書かなかったが、そのちょうど満洲事変の翌年、そろそろ排英米熱の勃興期で、とうとう女学校の英語科廃止論までが飛び出した。私の学校の校長も、便乗か強要か、ついに女子師範の英語授業廃止を決めた。当然英語教師ははみ出しである。私は校長に呼ばれ、失職は気の毒だから、国語でも教え給えというのだった。私という人間は他人から金銭的世話になることと、憐れみをかけられることとが、腹を切るより苦痛である。よっぽど中っ腹で辞表を叩きつけてやろうかとも考えたが、考えて見ると家には家内と子供も二人いる。やめればどうなる。(当時はおそらく就職難時代の絶頂だった。)現実屋の私は煮え返る胸を抑えて一年国語を教えて暮した。  なにも国語を教えることが屈辱だとは思わぬし、また無能の国語教師だったとも思わぬ。だが、憐れみをかけられたことだけは堪らなかった。(下らんという人もいるかもしれぬが、これは理窟以上のものだから、諒承を願うより仕方がない。)そして胆に銘じて獲《え》た教訓はこうだったのだ。この酷薄無慙な社会と、その国家の下では、私が単に忠実に義務を果す人間だというだけではなんにもならぬ。私は顧みて忠実な、いや、それ以上の英語教師だったつもり。決して腰掛けなどのつもりでやっていたわけでないにもかかわらず、私自身に原因する理由からではなく、国家の方針命令という全く外からの理由一つで、私の首などいつどうなるかわかったものでない。それに対して私たち教師はなんの抵抗力も持っていないのだ。(こんなことは、おそらく労働者や下級勤労者諸君なら、私などよりもはるかに以上にその不合理を経験し、痛感していることだろうが。)私の場合はやっと憐れみによって首だけは助かったわけだが、はっきり私にもわかったことは、人間その職場以外でもつぶしが利かなければ、いつどんな精神的屈辱を甘受しなければならぬかしれたものでない、という一事だった。  私がジャーナリズムなどに書き出したのは、その後三十歳を過ぎてからである。以後本職以外の仕事をすることが、とかく白眼視されるこの国の社会にあって、私はそれを決して恥としなかった。むしろそれによっていつ首になっても困らぬだけの用意を整えておくことこそ、精神の自由を私たちに保証してくれる唯一の途であることを知ったからだった。おかげでその後、どの職場にあっても、卑屈なことだけはしなくてすんだ。いけなければ首を切れという肚で、自由に物をいい、自由に振舞うことができたのだ。なんと人はいおうと、私はジャーナリズムに感謝しなければならぬ。  ことにこの両三年来は、五十歳停年を決意するとともに、なんとか大学教授の俸給なしでやって行けぬものかどうか、密《ひそ》かに試験をしていたといってもよい。一部の人たちには苦々しく思えるだろうことはわかっていたが、むろん別に意にも留めなかった。だが、それでもなお徹底した現実主義者である私は、ぜひ必要な二、三の人たちだけには、一年前に決心を打ち明けて諒承を求めたが、あとは家内をも含めて絶対秘密にしておいた。辞表を叩きつけ、前後の見境いもなく飛び出すなどという派手な浪曼的行動は、死んでもできぬ私としては、もし途中で拙いと見れば、その二、三人たちだけに撤回を表明すれば、なに食わぬ顔で居残れるという、そうしたさもしいことまで考えていたからだった。だが、幸か不幸か、その後一年、別に心境の変る理由も起らなかった上に、どうやらやめても食えるだけの見込はついたようだから、吉田首相の好きな、いわば渠成りて水到るとでもいったような、きわめて自然な気持で止したにすぎぬ。およそみみっちい話なのである。  最後の最後に、なにか私が外部からの圧迫か、そうでなくとも大学内に居づらくなり、それでやめたかのような臆測も飛んでいるらしいが、いずれもそんなことは絶対にない。第一、私のような穏健中正な考え方の持主が圧迫されるというのも、おかしな話だし、幸いにまだこの国にも、それくらいの自由は存することを云っておきたい。文学部同僚諸氏にいたっては、在任中実によくしてもらった。もう一度教授をするなら文学部へ帰りたい。私と意見を異にする同僚諸君までが、切に翻意をすすめて下さった純粋の厚意には感謝の言葉もない。ただ一つ、私の願うことは政府諸公よ、国民諸君よ、全国の大学教授諸氏が、もっと誇りと自信とをもって教育の任に当りうるような条件を作っていただきたいことである。物質上の問題もさることながら、問題は果して国家がどこまで真剣に教育を考えているか、教育をもって政治の道具や方便とするのではなく、真に純粋にどう真剣に考えているのか、そのことを言葉ではなく、それこそ行動をもって示してもらいたいのだ。それさえあれば、私の退官など問題でない。ただ迎合教授が一人いなくなったという、ただそれだけのことにしかすぎぬのだ。 [#改ページ]   至上の願い——一九五四・七  このごろ心霊現象と呼ばれるものへの興味が、またひとしきり流行のようである。たいてい十五年か二十年おきに、オコリ熱のようにきまって起る風潮だから、別に珍しくもなんともないが、少くとも私には皆目わからない興味である。  第一に、行われる実験というのが、まことに他愛ないものに決っている。たとえば暗い部屋の中でメガフォンが空中へ舞い上ったり、アコーディオンがひとりでに鳴り出したり、封じた包みの中の文句を透視したり等々と、演出目録《レパトリー》は判で押したように決っているから面白い。それが霊媒に憑依した霊のはたらきだというのだが、およそこの種のはたらきしか現さない霊などに、私はてんではじめから興味が湧かぬのだから仕方がない。これを一種のトリック、手品だと食ってかかる暴露論者もいれば、またそのまま心霊実在の論証とする唯心派もいるわけだが、私自身としていえば、要するにそんなことはどちらだってよい風馬牛である。むろんトリックならそれまでだが、かりに実在するとしたところで、あまりにも私には縁のない存在にすぎぬ。  私自身の願いといえば、できることなら肉体をもった私のこの世での生命が終るとき、霊魂もいっしょに消滅してくれるならどんなにうれしいことか、心からそれを願っている。死後の生存などというものは、なくて幸福、あってくれては、ただもう大迷惑というに尽きる。地獄も天国も、どちらも私には興味がない。要するに生命などというものは、今のこの世だけでたくさんであり、一つだけでもありすぎる。  ときたま頭の悪い、気まぐれなジャーナリストたちから、もう一度この人生を生き直すことが許されたら、どう生きるか、などという迷アンケートを送りつけられることがある。が、正直にいって、もう一度この人生を生きるなどという想像は、ほとんど戦慄に近い恐怖を私におぼえさせる。一度として考えてみたこともない。  といって、むろん私には死後の生存を否定する絶対の証拠があるわけでない。多分は私の考える通り、肉体細胞の死の瞬間に私の精神もまたいっさい無にかえり、ひどくサバサバした話になるのだろうと、ひそかに高はくくっているが、さればとて私の願いがそのまま実現するとも限らぬ。もし万一私の霊などが死後にまで生き残って、地獄だか天国だかしらぬが、また同じ後悔と汚辱に充ちた一生をウロウロくりかえさなければならぬのだとすれば、それはもう居ても立ってもいられぬほどのやりきれなさだけだ。  世間にはずいぶん散文的らしく思える人たちまで、幽霊?を見たり、死の知らせを受けたり、いろいろと神秘現象を経験する人もいるらしい。だが、幸か不幸か、私にはたえて一度もそうした経験がない。せめて夢枕くらいには立ってほしい人の面影まで、てんで現れないのだから情けない。周知のように、聴覚の方では音痴というのがあり、視覚の方では色盲というのがある。多分私は神秘感覚について、生れながらの幽痴であり、幽盲なのであろう。私は私の幽痴と幽盲とに感謝する。(「私の消極哲学」より) [#改ページ]   忘却の効用——一九五四・七  私という人間はたえて日記をつけたこともなければ、備忘の手帳をもつという習慣すらない。一見不便のようにも思えるが、長くやっていると、案外そうでもないのだ。だから、たいてい正月になると、方々からメモ用の小手帳がおくられてくるが、一冊のこらず真白のままに残っており、結局重宝するのは、付録に添えられている住所録や、いろんな図表類だけということになる。  ありようは、すべて自然に忘れるようなことは、できるだけ無理をせず忘れるままに任せておくからである。ところで、面白いことは、そうすることによって、身辺雑事の適正な整理、選択という、思わぬ効果がえられるのである。妙なもので、忘れてならぬ約束事などというのは、案外努力なしにもおぼえているものであり、他方逆に忘れても憶えていても、どうでもよいような事柄は、いささかの抵抗もなく、ごく自然に忘れてしまうから重宝なものである。じっさいこの頃、とくに戦後のように、いたずらになくもがなの会合や集りが、めったやたらに殖えて来ては、どこかで忘れる工夫でもしなければ、やっていけるものでないし、第一健康にも悪い。といって、一々もっともな理由を自分に言い聞かせた上で選択を行うのでは、それだけでも結構ちょっとした精神的重荷になる。その点、自然の忘却にまかせておくのは、あたかも流水に身をまかせるようなもので、随所に主たるの心境に遊んでおられ、しかも本能的、直感的に適正な選択が行われているのだから、まことに一石二鳥というところだ。  話はちがうが、いろんな癖というのか、性格というのか、それが読書人にはある。たとえばある種の人は、読んだ本は一冊残らず、別に要約ようのものをノートしておかねば、気のすまぬという型である。かと思うと、感銘の深かった個所などは、忘れず青や赤でアンダラインするのはまだしもとして、一々ていねいに表紙裏や扉などに、要旨とページ数を書き留めておくという丹念な人もある。  ところが、これも私の悪い癖で、子供のときから、ほとんどまずそうした殊勝な努力を払ったことがない。いわば読みっ放しの忘れっ放題、憶えることは憶えるままに、忘れることは忘れるままに、落花流水、これまたすべて自然にまかせて来た。学者として私が失敗だった原因には、たしかにこの悪癖も一つあったろうと思えるが、そのかわり、それでもなお読んで忘れぬ事柄というのは、きっとなにかその時その場合、私自身関心の問題と切実につながりのあるものであり、その意味では読んだものが単なる知識だけでなく、なにらかの形で身に着く楽しみがあったように思う。  二十歳台の中ごろ、私は軽い胸の病気を患い、その恢復期に自得した健康法が二つある。一つは、あとになって、あのときああ言っておけばよかったとの悔いを決して残さぬこと、いま一つは、自然に忘れるものを不自然に阻まぬこと。手帳を持たぬ習慣も、ほぼこの健康法から出ていると考えてもらってよい。(「私の消極哲学」より) [#改ページ]   丸もうけの余生——一九五四・八  五十而知天命——気がついてみると、無学なぼくにはよくわからなくなった。例によって座右の俗書(ぼくのだから、いずれ俗書にきまっているが)を開いてみると、天命とは天の使命という意で、自己に下された使命をいう。五十而知天命とは、五十にして道徳がその身に具《そな》われることを知り、ついにこれ天まさに我をして道を天下に明らかにし、生民のために太平を開かしめんがために、我に道徳を与えたるなりとて、自己に与えられた天の使命を自覚されたことである、というような意味のひどくまわりくどい説明がある。なお五十以後の孔子自身の言行がこれを証してあまりあるとも、これまた丁寧な註記までついているが、なるほど考えてみると、どうやら孔子の身辺には五十歳頃から仕官への誘いの手が動きはじめており、とうとうその結果、魯に仕えたのが五十二歳前後ということであり、その後数年間はたしかに政治家として情熱をかたむけている。さらに革新の行われぬのに失望して魯を去ったあとも、十三年間のいわゆる放浪生活を通じ、彼の素志は一に政治理想の達成にあったらしいことはたしかなようだ。するとやはり上記のコメントは一応当をえているといっていいようである。  だが、そうなると、お恥しいがぼくなどはまことに困ったことになる。知命どころの騒ぎではない。第一、道徳その身に具わるなどというのは、およそ遠い話であり、したがって、当然また道を天下に開くなどという大それた気持もさらさらない。  そもそも孔子様は五十にしてはじめて仕えたというのだが、ぼくの場合などは、五十にしてもうたくさん、懲り懲りだといった気持で、宮仕えをやめさせてもらった方である。もっとも、孔子様の青年時代、壮年時代は、一時亡命生活という時期もあったようだが、さりとて別に生活のためにアクセクしなければならなかったというような形迹《けいせき》はない。むしろおおむね悠々として見聞を深め、道を求めて、将来の大をなすための修養に努めておられればよろしかったようである。学校を出ると、その翌日から就職試験とやら申すものに、なんだかわけもわからず無闇と振り落され、仕方なしに細々と田舎落ちしなければならなかったぼく、しかもその後も情ないが、時には心にもない嘘もつかなければ首のつながりも危いといった世間、そしてまた己れ一身が生きるためには、美しい道徳の名の下に結局は他人を押し除《の》けたり、また奪ったりしなければやっていけぬ世間だということを、いやというほど学ばせられてきたぼくなどにとっては、いやはや徳を身に具える修養どころか、小学校以来教え込まれてきたすべてもろもろの嘘っぱち道徳を、いかにして払い落そうかということだけに苦心努力してきたようなものであった。これでは天命など知れようはずがない。  もっとも、きわめて消極的な意味でならば、——いう意味は、道を天下に行うなどといった大それた気負いではないということだが、そのぼくとてもここ数年来は多少とも天命を知るといったような心境もまんざらないわけではない。  一つには今のぼくは、個性の生命そのものの意味を、実際以上に過大評価することを、近代人の迷妄ではないかと考えている。きわめて微妙な、そして誤解を受けやすい言い方なので、野暮くさくはなるが、多少その説明をしておきたい。ぼくはかつての全体主義が主張したような意味でこれを言っているのではない。ああした種類の生命軽視論をぼくはダカツのように憎む。だが、ひるがえって人類の発展そのものの大意志に照して考えるならば、個々の生命の生死は、ときに過大視されるような評価の対象では決してない。人類全体の前進意志というのは、いわば一種の群落《ポリピドム》的性格をもったものであり、その中にあって個々の生命の生死は、ほぼ一つの細胞の生死にもひとしいのではあるまいか。たとえぼくは、きみは、そして彼は、彼女は、死んでも、永遠の生命は人類の意志そのものの中で実現されてゆく。全体主義の主張した生命軽視と、人類そのものの前進意志に即しての個々的生命の過大評価に対する懐疑とでは、要するに超個体的な意志をもって前向きと見るか、後向きと見るかによって、重大な相違が生じると思う。  いまちょうどこの雑文を書いているとき、ぼくはかの暗い谷間の日、ナチによって死刑になった六十五人のドイツ市民最後の手紙というのの翻訳を読んでいたのだが、彼等は決して学者やインテリばかりではない。小商人もいれば、労働者もいる。大工もいれば、看護婦もいるという、あらゆる市民の集りであり、彼等はすべてナチに対する不屈の抵抗ゆえに、死の前に立たされたのである。しかも彼等はいうのだ、「世界が新しく生れ変ろうとしている時、偉大なる事業が完成されようとしている時には、個々人の運命などは影の薄い問題になってしまうのです」と。  また「自分の生死によって、一つの人類の使命を果しているのだ、ということを確信して死ぬものは幸福です」とも。そしてさらに彼等の一人は、「僕は死をおそれたことなどありません。そしていまも気にしてはおりません。立派に死んでゆくために、何も大そうな哲学がいるわけではありません」とさえいうのだ。  それから今一つは、ぼくは敗戦後のぼくの生命を、ほぼいわば余生という風に考えていることである。別に世をはかなんだり、老成ぶった意味で言っているのでは毛頭ない。こうした自家の心境を述べることは、ぼくのもっとも好まぬところであるのだが、強いて言えば幸いにして敗戦を生き残ったぼくの余生は、それこそ文字通り丸もうけだと信じているのである。幸いにしてぼくは青年期以来ほぼ健康にめぐまれてきた。  したがって、ぼくの徴兵適齢期が、もしあの短かかった軍縮時代という一時期に属さなかったならば、ぼくは当然兵役に引っぱられていたことであろう。それが当時は壮丁がむしろ余るほどだったために、大学生だったぼくは、ほとんど無理に故障を見出すようにまでしてくれて、現役であることを免かれた。以後、中国事変、太平洋戦争となり、同年輩の友人、知人たちでも既教育者たちはたいてい応召を受け、あるものは戦死、戦病死をとげたものもいる。またちょうどぼくたち前後の年齢のものだけが、幸運にも多く兵役の手を免かれたことにもなる。現にわずか数年年下のものからは、何度かにわたる兵役義務延長の措置で、どんどん召集されて行くものも出た。そうした中で、ぼくなどは何度か背中に白刃の閃きを聴くようなきわどさで、その度に免かれて来たのだ。  しかも他方ぼくの教えた多くの若い人たちは、ぼくらにはどうしようもない強力な力でもって、学窓から、また職場から、ほとんど根こそぎ持って行かれ、今生きていてくれれば、どんなにか頼もしいと思われる好青年たちも、その何割かはついに永久に帰らなかった。むろんぼくには生命の安売などするつもりは微塵もないから、生き延びた幸運に感謝することはいうまでもないが、といって、それらある意味ではぼくらの身代りに往って帰らなかった人たちのことを思うと、自分だけのこの生命の全さは必ずしも心の平安を与えてくれるものではない。そうしたことを思えば、敗戦後の生き延びたぼくの生命を、やはり一種の余生、全く丸もうけの生命と考えざるをえないのである。  では、その余生をどう使うか。かりにもしぼくが清廉の高士だったならば、おそらく丸もうけの余生とあるからには、これを一切利他、献身のために捧げるところであろう。だが、あいにくぼくのように我慾さかんな人間には、とうていそんな見事な行動はできぬし、またしてみせるというほど柄にもない夢もない。ありようは、依然として慾念さかんにして、しかもそれを歎じている、ごく平凡な規格版の人間にしかすぎないのだ。  だが、そんなぼくとしても、ただ一つ最低限の消極さながら、この丸もうけともいうべき余生、せめてはこう使いたいと思うほどの念願はある。それは(と、ぼくはこうした事柄を胸をはり、見得を切っていうのが、たまらなくテレクサクて困るのだが)、たとえどんなことがあろうと、ふたたびまたあの暗い日のように、若い人たちの生命をいわれなき死に追いやってはならぬ。二度とくりかえしのないよう、そしてそうした危機にふたたびくりかえされることを阻むために、これを使えれば使いたい、ということである。  もっと具体的にいえば、事は当然戦争の問題や平和の問題につながるのだが、もはやこの問題は言葉の上だけで大見得を切り、それですむ話では決してない。結局は行動によってなにをするかが問題なのだから、これ以上多くの言葉を費すことはやめにする。が、しかしただ一つだけ言っておいてもよいと思うのは、ぼくは生来の臆病者で、正直にいって死が怖かった。戦争前から戦争中にかけ、今日考えてぼくの行動がまことにだらしなく恥ずべきものだった最大の理由には、やはりなんといっても死への恐怖という臆病さがあったからだと省みて思う。それを思うと、今ではもう丸もうけの余生だと思えば、以前ほどは死を怖がらなくてすむのではないか。といって、こうした問題はなまじ大口など叩いておくと恥をかくのでこわいが、まあ今度こそは、覚悟とまではいかなくとも、そうそう不態《ぶざま》な恰好で生命の危険におびえることは、まずないのではなかろうか。それさえなければ、なんとか節を曲げたりすることもないのではないか。さらさら天に誓ってなどと大きなことは言わぬが、絶対戦争否定の途、ヴォルテールのいわゆる「たとえ自身、絞られようとも、死刑執行人になるな」とのあの信条も、なんとか一貫できるのではなかろうか。  なんとも情ない消極さだが、まずはこんなところが、せいぜいぼくの知命というところだろうか。 [#改ページ]   俗流人生論——一九五五・五  人生論というような課題について書けという。かつてある出版関係の人間から、こんな話を聞いたことがある。なんでも日本では、わが人生観とか、××の生き方とかといった表題をつけると、不思議と売行きがいいのだそうである。なんといっても若い人が読者につくからだろうが、そういえば人生論めいた随想風の書物が、ベストセラーになっている例は、しばしばお目にかかるようである。私自身もたしかに若いころは、他人様の書いた人生論みたいな文章を、ある程度は興味をもって読んだ憶えがある。やはり魂の形成期の常として、たとえば藁でもつかむような気持なのでもあろうか、他人の経て来た人生経験の中に、なにか自分の心の支柱にでもなれかしと思うようなものを求めていたのかもしれぬ。しかし今ではもうだいたいそれらはすべて若気のさせた廻り道だったような気がしている。また事実誰のどの人生観からも、特に私自身の人生指針みたいなものを与えられたような憶えは全くないし、その証拠には、そうした文章の題名、内容までほとんど今では忘れてしまっている。鴎外の言い方ではないが、一応それらの前にたたずみ敬意を表したものはあるかもしれぬが、さればとて恭《うやうや》しく脱帽してまでその足跡にしたがう気になったものもないからであろう。  そこでだいたい今の私の気持からいえば、総じて人生論、人生観といった種類の文章は、読者の側が、その書かれた文章の背後に、筆者の考え方や人間をいろいろと勝手に想像して、ニヤリとするにはたいへん恰好な材料かもしれないが、さて読者——とくに若い——のために、果してどんな積極的意味をもつかという点になると、はなはだしく私は懐疑的である。一言でいえば、つまらんということである。  さて、そこで私自身みすみすそのつまらんものを書かされるというのは、なんとしてもこれは気が進まぬ。辞を低うして御遠慮申し上げた次第だが、するとまた敵は戦法をかえ、それならばそのつまらん所以を書けというのだ。  もともと私は、すでに偽善者という世に定評があるほど、裸になるのがきらいである。自分は自分を裸にしてお目にかける、いまだかつてこれは何人も試みなかった前人未踏の途である、と傲語したルソー流の行き方は、どうも私の趣味でない。自分自身でさえいやでいやでたまらぬ自分を、ことさらなにも他人様の前でまで麗々しく開陳する必要は毫もないと思っている。ハムレットのセリフではないが、「これでも僕など、かなりまっとうな人間のつもりだが、それでもいっそ母が生んでくれなかったらよかったと思うほど、数々の罪悪を背負いこんでいる。傲慢で、復讐心が強くて、野心深くて、そのほか、まだどんな罪を犯すかもしれぬ人間」を、なにを好んでわざわざ開《あ》け展《ひろ》げて見せる必要がある。私自身にとっても無益な余計事であれば、他人様にとっても飛んだ傍迷惑というもの、自他ともに百害あっても一利ない。  ——というまあ次第だが、そんなわけで、以下はむしろ人生論無用の俗説を書くつもりだが、百万遍もこれは私だけの独り言にすぎぬ。どのような意味でも、これによって他人の考え方や感じ方に影響めいたものを与えるつもりなど、さらさらない、念のために。  ときどき奇妙なアンケート風のものが舞い込むことがある。もう一度はじめからこの人生を生き直すことが許されたら、あなたはどんな生き方、どんな生活を選びますか、といった種類の迷問である。よほど頭の悪い編集者が、よほどプランにつまった揚句の思いつきだろうとは思うが、それにしてもおそるべき愚案もあったものと、つくづく感心する。むろん答えるはずもないが、私にしてみれば、正直にいって、この人生を生きるなどというのは、この一度きりでもうたくさん、うんざりである。もう一度生かされるなどというのは、想像するだけでも戦慄が背筋を走る。したがって、むろんどんな風に生き直すか、そんなことは夢にも考えてみたことないのだ。  ここ十何年か来、私の心からの願いは、もし許されるならば、この世での私の肉体的生命が終るのと一緒に、霊魂などというものも(かりになにかそうしたものが、肉体的存在とは別に独立して存在すると仮定してもだ)、七里ケッパイ跡形もなく消え失せてくれるものなら、どんなにかうれしいか、どんなにか有難いかということである。死後の生存などというものが、かりにもしあるとすれば、ただもうそれは大迷惑というしかない。地獄にせよ、天国にせよ、どちらもともに私には興味がない。  もっとも、私自身にはっきり死後の生存を否定できるほど、絶対確実な根拠があるわけではむろんない。まあ多分は私の考えている通り、私自身を形つくっている肉体細胞の死の瞬間に、私の霊魂、精神、意識——そのほか名前はどうでもよい——もまた一切無に帰し、あとはひどくサバサバした話になることだろうと、ひそかに高はくくっているが、さればとて心からのこの願いを、そう簡単に問屋が卸して下さるとばかりはかぎらぬ。だが、そうなるとまた、これは今からひどい頭痛の種になる。地獄だか天国だかしらぬが、万一もし私の霊魂などが死後にまで生きつづけ、またしても同じ悔いと汚辱の生活をウロチョロくりかえさねばならぬのかと思うと、これはもう居ても立ってもいられぬやりきれなさである。  例の死後の審判とやらがやはりあるというなら、それはまあ迷惑だが、一応甘んじて受ける覚悟だけはある。だが、その判決もまた行先が地獄ならまだしもとして、もし万一にも天国送りということにでもなればどうしよう。そういえば三、四カ月ほど前のある冬の午後のこと、私はローマのサン・ピエトロ寺院、例のシスチーナ礼拝堂のミケランジェロ描くところの「最後の審判」の前に立ち、小半時もたたずんでいた。おそるべき力にまで高められた美というか、積乱雲のごとくミケランジェロの内部に鬱積されていたものの形象化として、かねてからの予想通り、私は雷霆《らいてい》にでも打たれたもののように立ちすくんだが、描かれた堕地獄の人間群像そのものの形相にいたっては、正直にいって恐怖を感じるよりも、むしろ人間想像力のおそるべき無駄と愚劣さとに呆れ返った。  だが、地獄はまだしもよいのである。天国にでもなったらどうするか。ダンテの傑作「神曲」にしてからだが、あの「地獄篇」の精彩に比べ、「天堂篇」の退屈さはまことにもってどうしようもない。幸か不幸か、天国の至福に再会を期すベアトリーチェの幻も持ち合さぬ私にとっては、なおさらである。  そうした私に人生観や人生論への興味がトンと湧かぬのは致し方ない。  話は変るが、もう一つ迷惑な注文に、ときどき私の過去について語れ、書け、というのがある。私の学生生活について語れ、私の恋愛経験について書け、等々といったのがそれである。ひそかに察するに、それら過去の経験に照らし、私自身の青年観、恋愛論をでも引き出そうというのが魂胆らしいが、これもまたひどく迷惑である。  いつかも書いたことだが、私は生まれていまだかつて日記というものをつけたことがない。手紙もできるだけは書かぬことにしている。原因の一つは生来私の怠惰癖にあることむろんだが、いま一つには、ことさら努力して書かぬことにしていることも事実である。正直にいうと、世の人多くが日記、感想の類を書き残す気持が私にはよくわからぬ。自分の過去をときどき追想してみて、ひそかに楽しみたいというのでもあろうか。それともこの世に生きた形迹《けいせき》を、なにらかの形で死後の人々にまで残したいという虚栄心なのだろうか。いずれにしてもわからぬ。  これもまた私の心からの願いだが、かりにもし私の形迹の一瞬一瞬が、過去という時の中に織り込まれるのと同時に、あたかもあの水面の波紋と同じように、それこそ跡形もなく消えてしまうのであれば、どんなにかうれしいか、どんなにか有難いだろうか。そして最後には私のこの一生の幕が下ろされてしまったとき、まるでそれは私という存在など、かつて一度として存在しなかったかのように、きれいさっぱりと一切の記憶の中から消えてしまってくれるものならという、それが私の至高善《スンムム・ボーヌム》である。  それを思うと、日記にもせよ、手紙にもせよ、自ら好んで己れの形骸みたいなものを、わざわざ死後にまで残すような気持には、とうていなれぬ。現に私の知っていた友人に、どんなかりそめの手紙一通までも、ちゃんと写しをとって手許に残しておくのがいたが、その心理の謎はほとほと私をして途方に暮れさせるに十分であった。  死んだあと、私の書いたものなどが、たとえどんな形にもせよ、纏められて出るなどという自惚は毛頭ないが、たとえ血縁、家族、友人、知己間においてすら、それらが曝しものになっている光景など、これまた想像するだけでもゾッとする。私自身の書いたり、しゃべったりしたものだけではない。家人、友人をも含め、他人様からの追憶、思い出話の類にしてからが、正直にいってしまえば、ただもう有難迷惑というほかにない。褒貶ともにそうなのだ。生きている間は、まだしも税金みたいなものとして我慢もするが、せめて死んでしまった瞬間からは、「あとはすべて静寂」というのが最上に望ましい。  そういえば近ごろ、私はだんだん葬式に出るのが心進まなくなった。情として、義理として、やむをえぬときですら、できるだけちょっと顔を出し、あとは拝礼だけですばやく引き上げるようにしている。いずれにしてもそんなときに出る故人への追憶談が、私には妙にいたたまれぬように感じさせるのだ。むろん自己をもって他を推すのは失礼だから、幽明境を異にした故人当人が果してどう感じているのだろうか、もとよりそこまでの忖度《そんたく》はできぬが、ただそうした場合、なぜか私にはふと私自身が目の前の棺に横たわっている、そしてそれらの言葉を受けているような錯覚までして来るのである。ところで、そうなると、もういけない。一刻も早くその場を立ち去りたいような気になるのである。  私一人かと思ったが、どうやらそうでもないらしい。さきごろたまたまアメリカの有名な経済学者で、例の「有閑階級の理論」などの名著をのこしたソーステン・ヴェブレンの遺書というのが紹介されている文章を読んだ。それによると、彼は死後その遺骸は灰にして大海、ないしは大河の水に撒き散らすこと、墓石、碑板、肖像の類は一切つくることを禁ずること、さらにどんな形にもせよ追悼文、追憶文、伝記類の編著、また私的書簡の発表刊行は、かたくこれを拒絶する等々のことを、実にこまごまと指示しているのである。  私は、それ以上彼の詳伝を知らず、したがって、こうした遺書をつくった彼の心事まで、別に立ち入ってたしかめたわけではないが、およそのことは想像もつくし、心からの同感を禁じえぬ。それにもう一つ、彼のために心から気の毒にたえぬのは、せっかく前もってこれだけの配慮をつくし、死後のことまで指示しておいたにもかかわらず、結果はほとんど一項として彼の意志はまもられなかったという一事である。墓石、肖像類はもちろんのこと、私的な書簡さえ死後になって公刊されているらしい。灰を撒くという、私にとってはまことにこの上もない名案と思えるはからいすらも、おそらくまず実現してもらえそうにないのかと思うと、実際ちょっと泣きたくなるくらいである。  私の場合にしても、たとえかりにヴェブレンのヒソミにならい、どのように詳細な遺書をのこしておいたところで、いずれどうせ空しい業と諦めているから、せいぜいまず形だけの葬い、そしてあとなにか石塊の一つくらい建てるのまでは、まあ我慢するとして、私のことが人の口の端に上ったり、文字の形で書かれたりするのは、私の呼吸と鼓動とがとまった瞬間から、できることならピタリとなくなるようにしてもらいたい。それから死後のいろいろな営み、これも一切無用である。どうせ墓の下にも、位牌?の中にも、私のいるはずなど絶対にない。第一、宇宙のすみずみどこを探したところで、私という存在などはもはやどこにもないに決っているからである。 (ついでにいえば、書いたものはホンヤクだけは、できることなら死後も出してもらうか。多少はあとの家計の助けにもなろうし、第一有難いことに、私自身のパーソナルなものとはなんの関係もないからである。そのほかはすべて灰、一切なかったとも同然になってくれれば、これほど願わしいことはないのである。)  それでもこのごろ妙に怖いことは、人間五十を越してみると、ときにひどくわが過去について書きたいような、困った誘惑を感じることである。だから、いやになるのだが、なんとも恐ろしいことだと思っている。そうしたことの空しさを痛感するだけに、若いときにはそれでも抑制が利いたのだが、近ごろはどうも弛むおそれがある。老気[#「老気」に傍点]のあやまちとでもいうことか、ついわれにもなくそうした駄文を書き散らし、あとでひどく後悔をすることが多いが、これからこそ抑制に努めねばならぬと、このところ大いにフンドシを締め直しているつもり。  ところで、ここまで書いてくると、どうやらまたしても足を踏み外したらしい。総じて人生論なるものがいかにバカバカしいか。まして私のような人間が人生論、人生観などを説くなど、意味もなければ興味もない。ところで、ここまで書いてきて気がついたのだが、それはこの駄文自体が、誤ってなにか私の人生観ででもあるかのようにとられるおそれ大いにありということである。なにかちょっと循環論法めいて、さてはわれにもなくワナに落ちたきらいもある。が、決してそういう意味ではない。いうなれば、どこまでもこれは私の今の願いの一つ。かりにも他人様に向って説くなどという、そんな人生観[#「人生観」に傍点]でもなければ、人生論[#「人生論」に傍点]でもない。せめて最後に願わしいことは、もし不幸にしてこの一文に目を通される方があるとすれば、願えるものなら読み終った瞬間、ケロリと忘れてもらいたい。あたかも読みなどしなかったかのように、諸君の記憶から抹殺し去っていただきたいのだ。この上もないそれが私のよろこびである。 [#改ページ]   チャタレー判決笑話——一九五六・一二  チャタレー問題が、まことに驚いた形で片づいた。法治国の市民である以上、もはや最高裁の判決といえば、一応したがうよりほかあるまいが、判決の当否はしばらく二の次ぎとしても、第二審以後ついに最後まで口頭弁論の要求を拒否しつづけたやり方こそ、もっと問題がある。絶対の物的証拠があるという事件ならしらず、ほとんどすべてが主観的判断に依存しているようなこの種事件に対して、今度のようなやり方はいちじるしくお白洲的なものを感じさせる。  あの訳本の出し方や売り方に、大いに問題があったことは私も認める。結果論として言うのではない。が、それよりも訳者の伊藤君まで有罪にしたのは面白い。訳書といえば、原書の英語を日本語にしただけだから、チャタレーをワイセツ文書としてその訳者を処罰したことは、結局作者D・H・ロレンスを地下から引っ張り起こして来て、罰金十万円を科したも同然であろう。これはもう前代未聞の珍事件であり、そのうちあるいはイギリス文学史にも載るかもしれない。  もちろん検察当局が指摘し、高裁、最高裁でも採り上げた十幾つだかの個所だけを、ワイセツ感で読めばワイセツになることは事実であろう。実はそうした読み方をすること自体がおかしいのだが、それはまあ仕方がないとしていえば、ある意味で害を与えたということも一応言えよう。  だが、それには問題の個所すらが与えた大きな社会的効用も考えてもらいたい。つまりチャタレーは道楽者の書物ではない。道楽者には、あんな本はチャンチャラおかしいのである。あれは大真面目な、真面目すぎるほどの作家の作品なのだ。それにしても何十年ただ機械のように、ときには不快感さえ抱きながら性行為をつづけていた無知で貞節な淑女が現に相当数いるということのほうが、馬鹿げた話ではないか。それらの人たちに、チャタレーは立派に正常な性の歓びと意義とを教えるはずだ。あれは断じて不自然な性的倒錯の書ではない。  ところで最後に伊藤君自身だが、彼が十万円出して服するか、それとも一日何程かの日割計算にして何十日だかの拘禁を受けるか、その後まだ会っていないから知らない。だが、私だけの感想でいえば、十万円を納めるのはどうも金で片づけたような気がして後味わるい。こんなことは伊藤君には気の毒で、アジったり、煽動したりすべき筋合のものでないから、大きな声では言えぬが、ここは一つ下獄のほうをとってもらえないものであろうか。  かりに私が伊藤君の場合だったら、これは問題なくそうする。女房、知人がなんと言おうとそうする。金で片づけるのは、どうも一応判決を承認した和姦じみていやだ。下獄なら、暴力にやられるのと同じだから、まず大男から強姦にあったようなもので、罪は浅い。そこで伊藤君の下獄を、むかし、社会主義者たちがよくやったように、祝入獄とか、名誉ある下獄を歓送するとかいった工合で、大いに旗でも立てて刑務所の前まで見送ったらどんなものであろうか。法治国の秩序と力とには従うが、理性としてはあくまで不承服という、これが最後の、しかも一つの有効な意志表示だと思うのだ。  もっともこれはあくまで仮定である。なにしろ下獄の当人は私でなく、他人の伊藤君のことだから、伊藤君としてもいろいろ家庭の事情もあろう。私自身娑婆でヌクヌクとしていて、伊藤君だけに下獄をすすめると言われては一言もないから、純真な青年たちに火焔ビン煽動をやった日共幹部のようなことを言うつもりはない。しかしどうもこのまま泣寝入りするのは残念なような気持がのこる。(「ぼらのへそ」より) [#改ページ]   恋愛について——一九五六・一二    (一)  かつてある劇作家志望の青年がいた。芝居修業のために舞台裏に出入りしているうちに、これも若い女優の卵の美少女と知り合った。そして熱烈な恋をした。が、青年は貧しかった。彼の収入では女を御馳走に呼ぶことも、美しい贈りものをすることもできなかった。彼はひどく悲しかった。  そこで彼は決心した。恋には一番に金が要る。とにかく金をつくることだ。そして彼ははたらいた。もちろん本業の芝居では碌に金の入るメドもなかったが、なんでも金になることなら、多少の屈辱は忍んででも金を貯めた。彼女とともにできるであろう楽しい旅行の夢を、彼女が心から喜んでくれるであろう贈りもののことを——そうした数々の空想だけでも、彼の苦しい日々の思いをなぐさめるに十分であった。  そして二年間、彼が夢にまで描いていただけの金はほぼできた。だが、驚いたことに、かんじんのその金ができたときには、彼女に対する彼の気持は妙に索然としたものになっていることに気がついたのだ。こんなはずはなかったと、彼は幾度か首を左右に振ってみた。だが、こればかりは彼としてもどうしようもなかった。こんな気持で二年間の辛苦の金を、彼女のために使ってしまうことはなんとしても心残りがして仕方がなかったのである。  彼は思い切ってひとりスペインへの旅に出てみた。太陽と葡萄と闘牛と小唄の国スペインは、少年の日からのあこがれの的だった。  彼はセビリアに腰をおちつけた。グァダルキビルの河畔をそぞろ歩き、白い沈黙の街をさまよい、そして碧い眼と華やかな微笑をもった美しい女たちとも幾度かかりそめの恋をした。青春の盛りに、それはまさに至上の幸福であった。かつての若い女優との恋などは、いまになってはどう考えてみてもわけのわからない、なにか遠いむかしの他人事の思い出としか思えなかった。そして彼は国へ帰ると、すばらしいスペイン旅行記を書いた。しかもそれは、はからずも彼の出世作になった。  ——というような話を、私はずっと前に誰かの短篇小説かなにかで読んだように思う。読んだときには、なにかひどく意地わるい残忍な作者のように思ったが、今にして考えると、恋愛というものの秘密の帳《とばり》をかかげて見せてくれたように思えて、ときどき記憶の底からよみがえってくる。  むかしフランスのある聡明な公爵が言った言葉がある。二人の恋人同士の間にあって、多くの場合は愛しているのは一方だけであって、他の一方はただ愛されてやっているにすぎないのだと。いやな言葉である。不愉快な知恵である。だが、これもまた悲しい真実なのではあるまいか。  私は恋愛というものについて、その相互性というものをあまり信じない。恋愛というものが、すべて相互的なものばかりであるとすれば、人の世はむしろひどく索然としたものになるのではあるまいか。二人がともに相愛し、二人がともに心ゆくまで愛され合っているというような場合、たとえばあの聖書に、太陽さえその日脚を停めて動かなかったというような恋愛の瞬間は、私にはなにか妙に不吉な予兆をさえ思わせる。  そもそも恋愛の与える蠱惑的な魅力とは、それが精巧な幾何学模様の透彫りでも見るような整然としたものであることよりも、むしろかぎりなく皮肉で意地悪い、たとえば晴れた夏の日の陽炎でも追うような、そのじれったい捕え難さにこそあるものではなかろうか。    (二)  もう五、六年も前だったか、歴とした旧閑院宮家出の華頂華子さんとやらが、夫を棄てて男の許に走ったとかで世間を騒がせたが、今度はまたしても同じ閑院家の夫人直子さんが、それも五十近い身で若い男の懐にでも飛込んだらしい。目下家出して行方不明でゴタついているという。私など別に詳しく調べるほうでもないし、聞いてもたいてい忘れるほうだから、よくは知らぬが、旧皇族、華族など洗い上げれば、この種事件はむしろザラにあるのではなかろうか。が、いずれにしてもこの道においては、われわれ下々も上ツ方も、大したちがいのなさそうなところが、愛敬があってよろしい。  子供の読み物で名高いスウィフトの「ガリヴァー旅行記」の第三篇「空飛ぶ国」の件《くだ》りを読むと、面白い話がある。かつてこの国の首相夫人に、たいへんな美人がいた。子どもこそ数人あったが、容色はみじんも衰えていない。家は王国第一の金持で豪華比類ない邸宅に住んでいた。夫の首相というのも立派な紳士で、おまけに夫人を心から愛していた。どう見てもまず結構ずくめの生活である。  ところが、あるとき夫人は下界へ旅行に出ると、そのまま数カ月杳として行方をくらましてしまった。宮廷ではたいへんな騒ぎで、とうとう国王からの特別捜索令まで出て探し求めたところが、やっと見つかったところは、妙なアイマイ屋の料理屋であったという。身なりなどもすっかりボロボロで、なんでもある下男風情、しかも不具の男に、すっかり入れ揚げてしまった結果だということであった。ひどく粗暴な男で、毎日彼女を打つ、蹴るしない日はないという有様だが、それでもどういうものか彼女は、われにもあらず引きずられている。  が、他方首相のほうは、相変らず神様のような寛大さで、もう考えられるかぎりの愛情と、そして既往は一切咎めぬという条件までつけて、やっと天上に引き戻した。が、まもなく彼女は、またしても家を抜け出した。今度はありったけの宝石を持ち出して、例の情人の許へ走ったまではわかっているが、その後は杳として消息を絶ってしまったという。  おかげでこの国ではすっかり懲りて、細君や娘たちは、絶対「空飛ぶ島」に閉じ込めておくことにしている。よくせきの理由でもあって、国王の特別勅許が出なければ、下界へは降りられないのだと、作者スウィフトは御丁寧なオチまでチャンとつけている。  いや、私は女の不可解な気紛ればかり挙げたようで、女性諸君にはまことに失礼をしたが、御安心乞う、逆もまたほぼ真であるからである。  私は年来、恋愛の秘密を描いたものとしては、フランスの作家プレヴォーつくる「マノン・レスコー」をもって聖典だと信じている。主人公の青年デ・グリューは、良家の出で、秀才で、純情で——と、まアどうみても模範的な青年だが、それがひとたびマノンという娘を見染めると、あらゆる背信、あらゆる悪徳を犯し出す。親をだます、恩人を欺く、親友を裏切る。そして最後は、かつての荒涼たるアメリカの曠野まで女を追いかけてゆき、そこでも幸福に敗れて、女の屍を空しく荒野に埋めるまで、完全にいわゆる破滅型である。しかもマノンというこの女、浮気で、嘘吐きで、自堕落で、どうヒイキ目に見ても娼婦型の典型である。  駿馬、痴漢をのせて走ったり、好漢、駑馬に引きずられてモタつくのがどうもこの道、神様の摂理であるらしい。誤解があってはいけない。だからこそ面白いと、私は言っているのだ。(「ぼらのへそ」より) [#改ページ]   多すぎる自己没入型——一九五七・三  つい十間ばかり前を歩いていた男が外套のはしを車にひっかけられて、ころりと地面に転がった。  私のそばを通っていた二人づれの娘さんが、アッとも、キャッともつかぬ声をあげて、一瞬手で顔を蔽った。が、そのときであった。通りの向う側に立っていた一人の男が、しごくひょうきんに、これはまた、ヘッ! ころびやァがった。というような言葉をかすかに発するのを私は聞いた。  どうも日本では、他人の危険を目の前にして、やはり、キャッとか、アレッのほうが、はるかに評判がいいようである。他人の危険をそのまま己れの危険と感じ、胸のとどろきが直ちに同情の叫びとなり、ジェスチュアとなってあらわれるからであろう。それに反して、ヘッ! ころびやァがったのほうは、どうも点数が落ちる。心が冷たいといわれる。非情と批評される。だが、果たして簡単にそんなものなのであろうか。私は妙に、ヘッ! ころびやァがった、に心惹かれるのである。  もちろん、腕一つのばせば、助け起こしてもやれる目の前の出来事だとか、目に見えて瀕死の重傷でも負ったというならば論外だが、いずれは十間も遠いさきの、どう焦ったところで手の貸しようもないこうした小椿事、果たしてころびやァがったが冷たくて、アレッ! と顔を蔽うだけが温かい心なのだろうか。ヘッ! ころびやァがったは、いわば出来事と見る人との間の心の距離感の余裕から生れる。アレッ! は、いってみれば対象への自己没入である。日本人の欠点として、よくユーモアの不足ということがいわれる。いう意味は、日本人にはあまりにも自己没入型が多すぎるということなのではなかろうか。自己没入からはユーモアは生じない。  アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズは、たしか心の型を二大別して、「硬い心(タフ・マインド)」と「軟い心(テンダー・マインド)」とに分けていたように思う。「軟い心」は自己没入型である。主観的で、感傷的、センチメンタルで、悲観的だとたしか規定していたように思う。それに対して「硬い心」は、客観的で、理性的で、楽観的である。ヘッ! ころびやァがったにもなるゆえん。  国民性的に見ても「軟い心」のせいか、すべて悲壮である。勝っても泣き、負けても泣く。雨と涙の感傷的歌謡曲ばかりやたらに流行《はや》る。ヒットするメロディーは、由来まず短調にきまっている。いまの言葉でいえば、さしずめウェットなのだ。  がそうした湿りがちな気質の中で、私は川柳文学というものの「硬い心」を珍重したい。  伊丹の俳人鬼貫は「行水のすてどころなし虫の声」と、日本流ウェットを発揮している。だが、川柳子はもじっていう。「鬼貫は夜中タライを持ちまわり」と。そうだ、いかに秋の虫の音をいとおしむからといって、まさか夜通しタライを持ちまわっていたわけでもあるまい。捨てどころはあったにちがいないのである。そのいわば感傷的誇張が、川柳子のカンにピンと来たものにちがいない。 「起きてみつ寝てみつかやの広さかな」は、いうまでもなく加賀の千代女の句として伝わるものである。が、これまた川柳子はいう、「お千代さんかや[#「かや」に傍点]が広けりゃ入ろうか」と。註解までもあるまい。  ギリシャの古詩人ホメロスに「オデュッセイア」と題する長篇叙事詩がある。主人公の武将オデュッセウスは、凱旋の帰途、海上に難船し、おまけに部下数名を怪物の餌食にされ、やっと海岸に漂いつく。そこで作者ホメロスは歌う。彼等はたらふく食った。そして満腹を感じたとき、はじめて不幸な仲間たちの運命を悲しんで泣いた、と。空腹も忘れて悲しんだ、などとは書いていないのである。(「ぼらのへそ」より) [#改ページ]   私の健康法——一九五七・三  ここ二十数年、幸いにして健康にめぐまれている。有難いことだと思う。嘘いつわりのない話、別にそう長命を望むわけではないが、同じくは生きている間は健康でありたい。薬三昧でウジウジしているのはいやである。  といって、もともと叩いても死なぬ頑健であったわけではない。病身ではないが、よく病気はした。高等学校から大学へかけて、両三度は入院したことがある。一度などは、重態の電報を打たれて、はるばる両親がかけつけてきたこともある。ところが、大学を出た年、肋膜と肺浸潤とをやって二年足らずブラブラしてから、かえって病い抜けでもした恰好である。その後は風邪程度はとにかくとして、あとは戦争中に肺炎を一度と、二度ほど単純な黄疸をやったくらいがすべてである。  が、この健康もちろん肉体的条件はあると思うが、一つにはここ十数年間、採ってもって自戒にしている精神的健康法も、あずかって力があるのではないかとひそかに思っている。  問題の自戒とはこうだ、癪にさわったこと、肚に据えかねることは、そのときその場をはずさずに、相手が誰であろうと、パリパリと言ってしまうこと、そしてあとには何一つモヤモヤの内攻をのこさないことである。おかげで、この二十年ほどは、あのときああ言ってやればよかったにと、あとになって夜の目も合わぬほど口惜しい思いをしたことはたえてない。もともと妙想は深夜に浮かぶものだから、私は夜中決してよく眠るほうではないが、但し上述のような口惜しさでの不眠はたえてない。  同じく自戒のもう一つは、居合さない人間についての、いわゆるここだけの話というのを絶対にしないことである。本人がそばにいて言えないことは、蔭でもやはり言わないこと。話はすべて当人が前にいて言えることだけにかぎるのである。もっともこのほうの自戒は、正直にいって、必ずしも厳密にはまもられていない。だが、それはせいぜい座興の冗談くらいにかぎるもので、かりに当人を傷つけるようなことは、絶対に蔭口しないことを自戒にしている。いわゆるここだけの話は、とかく心の重荷になりたがるからである。  それに最後にもう一つ付け加えるならば、数年前、私は思い切って大金を投じ、便所を水洗の西洋流坐式便器に改造した。これもまた健康増進に非常によかったように思う。いう意味は、いささか話が下がかるが、由来日本便所の致命的欠点は、あのたまらない臭気と寒さにある。  臭気はいまさらいうまでもないが、案外気のつかぬのは寒さである。寒中など、下から吹き上げてくるあの臭い冷気を思うと、つい便所通いが億劫になるが、それが知らず知らずに便秘を誘っていたように思う。改造のおかげで、今では便所に通うこと、まさに帰するが如しとでもいうか、悠々と雑誌でも持ち込んで坐っていれば、ほとんど時の移るのも忘れるくらい楽しさがある。少しも苦にならないのだ。おまけに悪臭さえなければ、どちらの風が吹こうが、家中便所の存在をさえ忘れてしまう。有難い話ではないか。  話はいささか妙なところまで落ちてしまったが、別に特別な薬や健康法を用いるでもない私の健康術、ざっといえばまず上の通りである。精神のほうは、誰でも簡単に思い立てばできるはず。ところで物質的なほうは、現在多少金がかかるので、ゼイタクだとのお叱りもあろうが、ありていに言えば、それほどのことではない。医者の費用だと思えば安いほうであろう。(「ぼらのへそ」より) [#改ページ]   酒のたしなみ——一九五七・三  いにしえの清少納言ならば、さしずめ「すさましきものは」と書き出すところだろうが、なんとも興ざめ、我慢のならないのは、酔いの力をかりて平素の鬱憤ばらしをする人間である。  私はなにも酒中の趣きを解さぬ人間ではないつもりだし、さらさらもって賢《さか》しらぶりに酒など飲まぬほどの木石居士でもない。率直にいえば酒は好きなほうである。が、それにしても悪酔いの議論ほどいやなものはない。  面白いものである。酒の入らぬときはおよそ気が弱くて、ろくに人前では物も言えないおとなしい人間にかぎって、酒が入って一定量をこえると、ガラリとまるで掌をかえしたように、一瞬間で人間が変ってしまう。さあ、それからはからみつく、悪態をつく、なにを言っているかよくわからない議論が、めぐれど果てなきたまき[#「たまき」に傍点]の如くに、はてしなくつづくのである。  私の知人の中にも、幾人かそうした型の酒飲みがいる。飲めばかならず、誰かひとり当り散らす相手がいなければ、酒の味が出ぬらしい。はたに居合せたものこそ災難、別に誰彼の差別はないのである。わかってしまうと、敗けるよりほか法はない。  もっとも当人の立場になって考えてみると、多少その気持はわからぬでもない。つまり、平生おとなしいというのは、言いたいことも言えないという気弱さがあること。また妙に如才ないサービスをつとめなければならない立場にあるということらしい。これは当然悪く内攻する。どうやらそれが、突如として酒の力をかりて爆発するということになるのである。気持はわかるが、やはりとんだ飛ばっちりを食う身になってみると、胸糞のわるいことおびただしい。  ところで、私自身の酒はということになると、これはまたまことにだらしがない。酔えば(酔っているのだろう、やはり)ただもうゲラゲラ、アハハ、アハハで、まことにもって他愛がない。どだい酒でもなければ言えないような、腹ふくるるものがてんでないからである。  ここ二十何年か、私は健康法としてやっていることが一つある。それはグッときたり、癪に障ったりしたことは相手が誰であろうと、とにかくそのときその場ですべて吐き出してしまうことにしている。畜生、あのときああ言ってやればよかったなどと、あとになって、夜の目も口惜しくて眠れないなどというのは、結局健康に一番わるいからである。  おかげで鬱憤などというものは少しもない。そろそろ夕方になって、酒を飲み出すころなどは、悪くいえばすっかり藻抜けの空になっているといってもよい。これではどうも、からもうにもからむよしがないのである。まことにお人好し然となってしまうのもやむをえない。  とにかく酒の上で議論を吹っかけるやつ、威張りちらすやつ、恩ばかり知らない人間に売りたがるやつ——これらはすべて大きらいである。たまたまぶつかっても、本気で怒る気にもなれぬ。ただ心からの軽蔑をもって聞き流しているだけだ。「賢しらをすと酒飲まぬ人」も「猿に似る」かもしれぬが、飲んで悪酔いする人もまた豚に似ていようか。  酒の席についていえば楽しいのは、ただそこはかとない世間話、バカ話——終ったあとには、吹き抜けた風のようになにものこらぬのがよろしい。もちろん相手が二、三人、若くて、美しい女の人なら、なおさら楽しいことはいうまでもない。(「ぼらのへそ」より) [#改ページ]   死について——一九五七・三  暮から正月にかけて、多少とも知り合いの人たちが、ずいぶんと亡くなった。三輪寿壮さんや伊藤好道氏の死までさかのぼるまでもなく、文学の人では会津八一氏が亡くなった、尾上柴舟さんが亡くなった。(柴舟さんとは、三年間同僚で、机を向い合せて坐ったことがある。)あまり人は知らないが、阿部六郎君も吉田甲子太郎君も死んだ。野球のスタルヒン君まで自家用車をぶつけて、あっけなく死んだ。なんだかひどく人が死ぬように思える。  もっとも統計的には、とくに取り立てて多いわけではないのかもしれない。だが、当然とは言いながら、私たちの年輩になると、自然どうしても身辺に指折りかぞえて亡き数に入った人たちを憶う日が多くなる。私などでも、現在別にどこといって健康の悪い自覚は感じないが、それでもたとえばあの美しく澄みわたる秋空を仰いだ日など、はたして来年もう一度同じこの秋空をながめることができるかしらと、鳥影のように、ふとそんな思いが頭を掠めることがある。  が、それはそれとして正直に言って、今の私は、死んで行った人にほとんど弔辞を述べる気にならない。むしろ、ああ、いいことをしやがったな、さぞサバサバしてることだろうと、羨しいような気持が先に立つ。さすがに通夜の席や告別式上で、人の気も知らぬげにニコニコしているわけにもいかないから、そこは一応世間体に合せて神妙そうな顔はしているが、やはり真実心の底にあるものは、欽羨《きんせん》に近い感情である。  先年急に亡くなったが、私に数歳年長の従兄があった。一高から京大の哲学科を出て、ずっと教師を勤めていたが、一生独身、それもこれだけは絶対まちがいなしの不犯であったろう。若いときから禅に凝っていたが、晩年教師の勤務中以外は、完全に京都妙心寺の僧堂にこもり、一生居士では終始したが、事実はほとんど本職の禅僧以上の修行三昧であった。  ところで、なぜ突然こんな従兄の話を持ち出して来たかといえば、実は私がまだ大学出たてのころ、胸を悪くしての静養中、三カ月ばかりこの従兄の家に置いてもらったことがある。その折のいつであったか、従兄がふとなにげなく、ほんのなにかの機《はず》みに洩らした一言に、「僕はね、もし両親が結婚してくれなかったらよかったと、ほんとに思います」というのがあった。もう三十年も前のことになるのだが、私には妙にこの言葉が頭にこびりついて残っている。親類中でも長い間頭痛の種になっていた不娶不犯のその根拠が、チラリと垣間見られたように思えたからである。  通常古代ギリシャ人は、明朗で楽天的であったように思うのが常識になっているが、実は非常なペシミストで、むしろ人間として最大の幸福は、はじめからついに生れないこと、その次ぎの幸福は、生れた以上は一日でもはやく死ぬことだ、という無常観を深く信じていたという。  私などは、三十年前ドキリと感じて聞いた従兄の戒めも他愛なく破ってしまったし、将来死が近づいたときにも、凡夫の性さぞかし悟り切れぬ醜い執着ぶりを示すことだろうとビクビクしている。が、これだけは今から言っておくが、死に臨んでのジタバタは、決して私の理性ではない。肉体の衰えとともに、理性そのものの正しい機能がすでに失われ、のこるはただ動物として私のもがきにすぎないのだと取ってもらいたい。要するに、もし弔辞の必要があるとすれば、経済問題をも含めて遺族のためのものだけであって、それ以外にはどうみても死は悲しいことではないようだ。(「ぼらのへそ」より) [#改ページ]   私の遺書——一九五七・三  ほんとうの私の遺書は、遺書というものをなんにも書かないですませたいことである。遺書について一番悲しいことは、書いた本人の意志は、それがある程度習俗の考え方に合致するものでないかぎり、まず絶対に守ってもらえないものと決っているからである。  たとえば次のような遺書の場合、果してどんな取扱いをしてもらえるだろう——死んだら肉体を灰にして、のこらず海なり、野原なりに撒き散らしてしまうこと、墓石、祭壇はもとより、一切の記念めく造営物は絶対につくらないこと。写真、肖像、その他書いたものも一枚のこらず焼却すること。いわば夜空にふッと燃えて、そのまま闇の中に消えてしまう流れ星のように、死んだあとは存在そのものすらかつてなかったもののように吹き消してもらいたい——と遺言しておくとしたら、果してその通り行なってもらえるものであろうか。  つまり、おそらく絶対に遺志は尊重してもらえまいと思うから、面倒くさくて書かないだけのこと、もし現実この通りにしてもらえるものだったら、どんなに晴れ晴れと楽しいことであろう。  生きている人間が、死後忘れられてしまうことを淋しがる気持は、一応気持としてはわからぬでもない。が、所詮ははかない迷妄にすぎぬ。肉体をほかにして、死後なお魂みたいなものが、なにらかの存在としてのこるなどと考えるのは、まずおそらく人間の希望的観測がつくり出した迷妄にすぎないと、ほぼ確信にちかいものをもっている。してみると、死後憶えられていようが、忘れられていようが、当の本人にとってはなんの痛痒も感じない。いや、痛痒もなにもない、感じることそれ自体がてんでないのだから仕方がない。結局はあとに残った人間の気休めなので、それはそれとして知的遊戯の一つとしてならわかるが、少なくとも私の場合について言えば、妻子肉親の近きからすべての友人知人を含めて、余計なことはおやめになっていただきたいと、今からでも願っておく。  私は、私自身について他人からどう思われているかということに関して、一切言い開き、弁明はしないつもりだ。どうとも勝手にお取りなさいということである。というのは、黙って私自身に対する他人の評価を聞いていると、思わずニヤニヤと笑いたくなるほど面白いからである。それにしても人というものは、なぜこう善きにつけ、悪しきにつけ、一方に偏して人間を判断するものであろう。  思わぬときに思わぬ人から、まるで顔から火の出るような褒め言葉をもらって、なんとも穴にでも入りたいようなことがある。全然当っていないのである。よほど飛んでもない、と訂正しようかとも思うが、どうせ思い込んだが百年目というものだから、いずれそのうちには失望してガッカリなさるときもあろうかと、そのまま苦笑していることにする。  かと思うと、またひどく私を悪人、偽善者めいて評価して下さる方もある。これもあんまり当ってはいない。私にそれほど大悪人や大偽善者になれるほどの複雑な奸智や度胸があるとはとうてい思えない。ありようは、人が思うほどの善人でもなく、といって人の言うほどの悪人でもない。  言ってみれば、私は人生とは生きているもの全体のためにあるべきもの、個人個人は、長くて八十年あまり、この世をさまざまにうごめいて、やがてフッと跡形もなく消えてゆくだけのもの、また私自身はもともと禁欲的であるのよりも、自然に与えられた生を楽しんでいいものと思っている。といってその楽しみは私だけでなく、できるだけたくさんの人々とわけ合いたいというだけだ。(「ぼらのへそ」より) [#改ページ]   匿名懺悔——一九五七・一一  何年目かごとに性懲りもなく決って蒸し返される論議だが、つい先頃もまたひとしきり匿名批評是非論で賑わっていた。私の名も両三度引合いに出されていたようだが、おかげで私自身すっかり書いたことを忘れてしまっていた、ある種の匿名批評という奴は、いってみれば満員電車の中でひそかに放屁をスカしておいて、知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいる奴だというような言葉も、はからずも思い出させてもらった。  ある種(ある種[#「ある種」に傍点]のである)の匿名批評に関して私が上述のように考えていることは、今もって変りない。だが、そうした論議のやりとりの一つで、だからおそらく匿名批評をやったことのないのは、中野好夫のほか誰彼の二、三人だろうというような一節まであったのは、もし褒めたのなら買い被りだし、貶《けな》したのなら心外であり、いずれにしてもいささかもって迷惑であった。  もちろん現在、私は匿名までして悪口を言いたい意志は毛頭ない。したがってここ数年一つとしてやっていないことは事実、これだけははっきり言える。(もっとも「週刊朝日」の書評欄を書いているが、これは一種妙な半匿名ともいうべきもので、批評同人の連名は毎号公表してあるが、ただ一つ一つはわからない建前になっている。これはどうも編集部の建前だというから仕方がないので、私自身は署名つきでも書くことは一向変りないつもりだ。なんなら悪評はすべて私と思っていただいても少しも差支えはない。)  話はそれたが、そんなわけで現在こそやっていないが、かつては何度かやったことはある。たとえば戦後臼井吉見君が綜合雑誌「展望」の編集をやっていたころ、しばらく時評欄を受持っていたこともあるし、また現在の朝日新聞「きのうきょう」欄が発足したとき、第一回の担当者の一人だったこともある。(因《ちなみ》に、あの欄は第一回だけは匿名で、第二回目から署名入りになったはずだ。)  が、私は私自身の書く匿名文章について、一つのまあ基準のようなものを私なりにつくっていたつもりだ。それは褒貶いずれにせよ、とりわけ貶の場合は、特定の人物評はやらないこと、つまり、匿名文章はもっと一般的問題にかぎるということであった。一般問題についての匿名批評は、もともと私は反対どころか、ある意味でむしろ理想的なものではないかとさえ思っている。問題を批評、批判するに当って、筆者の名前を消すことが、書く人の側にも読む人の側にも私的、個人的感情のまつわりをなくすことに役立つのだったら、これはきわめて望ましいことだと信じるからである。  ところが、同じ匿名といっても人物評となると話はだいぶちがう。面と向かって、ないしは署名入りでは言えないことを、匿名に隠れて無責任に流すのは、どう考えても卑劣である。少なくとも私にはできない。ところが事実は、この種の匿名批評がひどく横行していること、とりわけ本人の目の前では負け犬のように尻尾を巻いているくせに、一たび匿名にかくれていると女の腐ったような奥女中的誹謗を盛んに流している相当札つきの人物が現にいることなどが、ときどき匿名批評撲滅論を起こしたり、私自身の放屁スカし論になったりするのであろう。  匿名で人をやっつけてよろこんでいるらしい人間の心理は、私にはどうもよくわからない。あるいはやっつけておいて、傷ついた相手が報復しようにも対象が見つからず、トチメンボーを振ってイライラしているのを、ひそかに人知れず眺めているのが楽しいというのかもしれぬが、とんと私にはわからない趣味である。私などはむしろ反対で、堂々と署名して悪口を言ってやると、相手としてははっきり目標はわかりながら、しかもどうにもできないで地ダンダ踏んで口惜しがる、そのほうがよほど痛快で愉快なように思うのだがどうだろう。  そういえば上にも書いた「展望」の匿名時評をやっていたとき、論述の行きがかり上、なんとしてもさる高名な老先輩B氏に対する攻撃にわたらざるをえなくなった。書いてしまってみると、やはりどうも後味は悪い。仕方がないから、ええい、糞! とばかり、最後にこの項中野好夫とそれだけ断わり書をしておいた。  きれいごとでいえば、責任の所在を明らかにしておくとともに、相手方にも反駁の道を開いておいたのだ、というような言訳になるのかしれぬが、正直に言って、ありようはそうでなかった。やはり相手も敵がわからなくてはお困りだろうし、私としてもせっかくの悪口を、相手がただキョロキョロしているのではつまらない、楽しみが減るという、多分に嗜虐的興味がはたらいていたことは間違いないように思う。このごろはとみに人柄円熟して俗化したように思うが、われながら野良犬にも似たとげとげしい生れつき、まことにもってお恥かしい次第である。 [#改ページ]   美しい老齢——一九六四・二  このところ、日本人の寿命がいよいよ延び、老人たちがますます元気になるというのも、たしかにめでたいといえばめでたいにちがいないが、見方をかえると、どうもいささか考えものというところもあるように思える。  ここで私は、人口論などというむずかしい議論をもちだすつもりはもうとうない。が、いわゆる人口構成の年齢構造というやつが、戦前までの若多老少というピラミッド型から、次第に壮老齢層増大のツリガネ型にかわり、そう遠くない将来には、頭でっかちのツボ型に移行していくだろうということは、すでにじゅうぶん予想されるという。  老人たちの元気さ、それはそれとして、もちろん結構である。だが、そのことからして、社会各方面における指導者的ポストというか、最高責任に任ずる舞台が、相変わらずいつまでも老人たちによって占められていくということは、今日のように急激に動く世界の中で、当然たえず現状を破りながら創造的に前進しなければならないはずの社会にとって、果たしてその得失はどんなものなのであろうか。  老年者の長は、いうまでもなく蓄積された経験の知恵にある。この知恵の貴重さをいうのは、もとよりよいが、その半面、その短はややもすれば経験のあたえる教訓の安全さによりかかって、未知の領域への冒険心を失い、とかく現状維持、守旧の弊に傾きやすいことにある。経験乏しく、思慮足らず、ときに事をやぶるにいたる青壮年の失と、他方、経験の得はあるが、その過信ということによって、ややもすれば現状維持の停滞にアグラをかきやすい失と、冷静に比較計量するならば、果たして考課表はどう出るものだろうか。  かつて宮本又次博士の著「大阪商人」を読んで、感銘深く記憶にのこっている挿話がある。明治末に住友の総理事であった某氏であるが、引き止められながら早く身を退いて、少壮の後継者に道を譲ったといわれるが、その理由は、はっきり、青壮の冒険的積極性からくる危険よりも、老齢守旧の停滞性からする弊害のほうがはるかに大きいから、というのであったという。まことに掬《きく》すべき出所進退ぶりであるといわねばならぬ。  それで思うのは、いかに老人たちが元気であるとはいえ、なんといっても肉体のほうは青壮年には及ばないはず。早い話が、一走りでもさせてみればすぐわかるし、生理的検査でもやってみれば、なおさら簡単に分明する話であろう。ところが、困ったことに、精神のほうにはあいにくそういった客観的測定の方法がない。話がむずかしくなるのである。  私は思うに、例の精神肉体平行論(サイコ・フィジカル・パラレリズム)ではないが、人間肉体の老化というものは、たとえ完全に並行曲線は描かないにせよ、当然精神の鈍化、硬化を伴うものだと信じている。ただ厄介なのは、いまもいった厳密な測定法がないということだけであり、齢はとっても気は若いなどということが、平気で、ひとり合点で言っていられるのだ。私にいわせれば、どだい己が、己がだの、あんなのはまだ青二才だの、いや、むかしはみんな偉かったなどという、古代ローマ人のいわゆる「昔ぼめ(ラウス・テンポリス・アルティ)」が、二くち目に飛び出してくるところに、すでにみずからは意識しない精神の老化が歴然とあらわれていると見るのだが、どうだろうか。  古いはなしにこんなのがある。むかし、さるところに、ひどいしわん[#「しわん」に傍点]坊の老隠居がいた。裏にはひろい果樹園があり、季節になると美味な木の実がたわわにみのる。ところが、この老人、うまい熟しごろにもぎって味わえばいいのだが、そこがそれ名代のしわ[#「しわ」に傍点]さで、毎朝いささか熟《う》れすぎて、枝から地面に落ちたのだけを、もったいないというので集めては食べる。なにしろ、庭はひろく、生《な》り木は豊富だというので、毎日熟れすぎの実を集めるだけで、食べのこすほどになる。結局、そんなことをして、季節中、せっかくの食べごろの実は一顆《いつか》も味わわず、いささか腐れかけの熟れすぎばかり口にして過ごしたというのである。  なにも社会の各方面すべてがとは申さぬが、どうもこのところ老人国の日本は、人物経済の点において、どうやらこの老隠居に似た節《ふし》がないとはいえなそうである。老人の経験、老人の知恵もいいが、せっかく青壮年者の創造的エネルギーに、じゅうぶん発揮の機会をあたえるでなく、むなしく熟れすぎの才能ばかり枢軸にすえて、この激動する世界の中に処そうとしているきらいがあるのではあるまいか。さりとは不経済な話である。  さて、そんなことを、このごろ特に感じるのは、ほかでもない。たとえば改憲の問題とか、防衛の問題とか、大きくいっては今後十年、二十年にわたる民族的運命を決定するような問題を、かんじんその未来の当面責任主体であるべき現在の青壮年層はほとんど抜きにして、失礼ではあるが、もう十年もたてば、金輪際この世にいないことだけは国鉄時刻表よりも正確である、多少誇張していえば、もはや少なくともツメ先くらいはしっかり棺桶の中に突っ込んでいるはずの老人ばかりが寄り集まって論議している苦々しさである。もちろん過去の経験にもとづく参考意見ぐらいを出すのは自由だし、人情だし、言うことはない。だが、まるで彼らに決定権でもあるかのように、老醜にもちかい性急な発言ぶりは、まことに苦々しいというほかない。第一、彼らに、十年後、二十年後の発言責任をとりうるとでもいうのであろうか。  もちろん、かくいえばとて、私は老人たちに早く死ねなどという無茶をいっているのではない。健康な老齢をじゅうぶんに楽しむのは大いに結構であろうし、老人は老人としてじゅうぶん意義のある仕事、社会への働きかけをする権利はあるはずだ。だが、ただ私のいいたいのはそういつまでも舞台のまん中で主役然として立ちはだかっているのではなく、もっとかげの役としてせっかく経験の知恵を遺産としてのこしてもらいたい。少なくとも次の世代の場所ふさぎだけはしてほしくないのである。  そうでなくとも、いまや世界はたとえば国際政治だけをとってみても、想像以上の早さで世代の交代を急いでいるように見える。もう二、三年もすれば、イギリスもドイツも指導者層の若返りは必至であろう。さらに十年もたてば、ドゴールも蒋介石も、失礼だが、もはやこの世の舞台にいまいことは、まず太鼓判を押していえる。故ケネディ大統領の魅力は、そのあげた実績もさることながら、なんといっても彼の若さがもった新鮮なフロンティア精神的なそれであったのではなかろうか。  とにかく、あの若僧、青二才がだとか、若いから危険だとかいうことだけは言ってもらいたくない。それを口にしたくなったときは、まさに精神老化現象のはじまりだと心得てもらいたい。手に負えぬ幕末の乱暴者どもが、維新になって、ちゃんと責任ある地位をあたえられれば、むしろある面、保守的すぎるほどの指導者に豹変しているばかりか、批判はともあれ、とにかく当年至難な国際情勢の中をしのぎ抜いてきているのである。創造、進取の壮齢においてむなしく志をのべる機会をあたえられず、ようやく守成、退嬰《たいえい》の時期になって、やっと指導者の位置をあたえられるなどという、はなしの老隠居に見る拙策だけはとってもらいたくないのである。  私は素人、門外漢で、くわしい事情は承知しないが、たとえば財界、産業界などにあって、戦後とにかく刮目《かつもく》すべき経営を行なって進出したのは、当時にあっては、むしろ無名に近かった新人諸氏ではなかったろうか。比較的私などにも近い学界にあっても、これまた戦後一躍めざましい業績を示したのは、たとえば理論物理学にしても、すべて老人による重圧のない青年学者たちのグループではなかったか。問題はこの次の時代、当年の青壮者新人たちが、いかにしてその創造性を次代に継承するかということである。ふたたび、いつまでも若い気で大きな隘路《あいろ》になってもらっては困りものである。  結局は、どうも老人隠退説になったようである。ところが、この老人否定の発言ほど、世の反発を買うものはないらしい。これは必ずしも筆者最近の感想ではないので、数年前もあるところに、ほぼ同じ論旨のことを書いたことがあるが、果たしてこれほど激越な反撃を食らったことはなかった。すべてが、もちろん老人たちからである。まず隗《かい》より始めよなどはやさしいほうで、もっとひどいのは、貴様のようなヤツは早く死ね、というのまであった。  私もようやく還暦を過ぎた。いまさら還暦などをもち出しては、お笑い草になるのが落ちかもしれぬが、とにかく私としては、目下そろそろ、まず隗より始めるつもりで、せめて若い人たちの場所ふさぎにだけはなりたくない覚悟である。  英語に、美しく老いる grow beautifully old といういい方がある。年来、私の大好きな言葉であるが、願わくば私自身も、そろそろ美しい老年を迎えたいものだと思っている。死ぬまで奮闘力行して、最後の一日まで完全燃焼の充実した一生であったなどとほめられるのも、まんざら悪くないかもしれぬが、また逆に、死ぬときは誰にも知られず、忘れられ、どこかの片すみでポツンと消えたなどというのも、案外しゃれた一生ではあるまいか。 [#改ページ]   漫談・前島熊さんのキツネ哲学——一九七三・六  大正九年九月、わたしが京都の旧制第三高等学校というのに入って、まもないころであった。ときどきあの吉田界隈——現在も京大や、同じくその教養学部のあるあたりである——で見かける異様な風体の人物がいた。背丈は五尺四、五寸そこそこ、年齢には似合わぬ出っ張り加減の腹を、妙に突き出し気味に闊歩しているほかには、別にこれといった容貌魁偉などという趣きは一向にない。どちらかといえば、ズングリむっくり型の平凡な青年といってもよかったかもしれぬ。が、ただその和服というのが、いつ水を通したかわからぬような薄汚さのうえに、そいつをまた危うくヘソでも出そうなほどに前はだけに着ているのである。襞もなにも消えたヨレヨレのあんどんばかま、紙屑拾いでもかぶりそうなお釜帽、太い白鼻緒の朴歯の足駄——いや、その程度のことくらいならば、当時の書生風俗として、必ずしも驚くほど珍しいわけではなかったのだが、ただいつも決って腰に矢立《やたて》を一本ぶちこんでいるのである。矢立などといっても、いまの若い人たちはもう知るまいが、金属性の墨壺のつづきがそのまま毛筆入れの柄になっていて、早くいえばむかしの万年筆である。いくら大正の昔だからといっても、さすがに腰に矢立というのは珍しくて、それだけにまずこれが妙に気になった。ところで、この風来坊先生が、なんぞ知らん、京大法学部の学生であり、その名も前島熊吉なる人物とわかったのは、たしかそれからそう間もなくであったように思う。  というのは、大正も後半期に入ったこの一時期というのは、京大、とりわけそれも文学部だったが、東都は旧一高の卒業生諸君が、かなりの数、ことさら都落ちして京大に集まっていたころであった。直接にはやはり西田哲学の影響というのが大きかったのであろうが、それらの中には、後に名を成した故人の三木清や、現在も健在の谷川徹三氏や林達夫氏などもいた。四国の中学からポッと出のわたしなどは、当時からすでに秀才の名の高かったこれらの先輩を、ひそかに遠くから仰ぎ見た記憶がある。ところが、これら一高西下勢の中に、三、四ある偶然の事情からわたし自身も親しくしてもらっていた人があり、それらの先輩から、ついいつとなく前島熊吉関係の知識もえるようになったのであった。  ただし、その前島さんが文学部学生ではなく、法学部のそれだったことは、すでに前述もしたが、ただ思っても愉快なのは、たしかわたしは、彼が前島姓であることを知るより前に、まず「北白川の易見《えきみ》さん」として教えられたのを、はっきり記憶しているからだ。いずれ下宿が北白川あたりにでもあったからなのだろうが、それはまた彼の傾倒というのが、肝心の法学勉強よりも、もっぱら易学だの骨相学だのといったものにあったことを証明しているはずである。北白川あたりへ行って、易見さんとさえいえば、前島などで探すよりは、はるかに簡単にわかるからと、冗談だか本気だかわからない笑いと一緒に教えられた。  そういえば、やはり同じころ、こんな一つの記憶もある。いまもあるかどうか知らぬが、熊野神社の市電停留所から北へ、京大の方に向って歩くと、旧三高(現在の教養学部)のカンパスにかかる手前の右角に、京大学生会館というのがあった。一階はたしか食堂や小集会室でもあったように思うが、二階はちょっとしたホールになり、よく京大教授や知名文化人などの講演会があった。ところが、ある日通りかかって見ると、「骨相学上より見たる花田学生監」という立看板が出ており、その下にはっきり講演者前島熊吉とあった。花田学生監というのは、比露志《ひろし》という筆名の方でむしろひろく知られていた歌人花田大五郎のことであり、その後たしか大阪商大の教授なども勤めたはずだが、当時はたしかに京大学生監をしていた。してみると、前島先生、花田学生監に面接を求めて、さっそくその蘊蓄をこの一場の講演にして、場所もあろうにお膝下の学生会館でぶち上げたものであろうか。もちろん、わたし自身は講演を聞いたわけでないので、内容についてはなんにも知らぬが、ただこの立看板に一瞬ギョッとした憶えだけがある。  易見さんといえば、こんな話を聞かされて大笑いしたこともある。いずれ間接の伝承だから、真偽のほどまでは保証せぬが、とにかく話というのはこうであった。どうやら前島講師、北白川の易見さんというだけでは満足できなかったらしく、ある時とうとう大道|占卜《せんぼく》屋台店を、四条大橋だか五条大橋だか、とにかく鴨川べりの橋際に開店したというのである。しかもその開業の夜であった。待つ間ほどなく、身形《みなり》もきれいな、どう見ても相当なお店《たな》の御内儀《ごないぎ》風情とおぼしい上客が現われた。聞けば、家内である失せものがあったが、心当りはどの辺であろうかとの依頼である。前島卜者、いずれ算木筮竹などをひねくりまわしての揚句だろうが、いや、その犯人はきっと家内にいるはず、との卦を出してしまったらしいのである。喜んだ美人はいそいそと帰っていった。ところが、その夜もいよいよ店仕舞いという刻限であったが、見るからにお店《たな》者と見える若い男が一人、血相をかえてやって来た。あとの話は簡単である。このドヘンボクのインチキ八卦見とばかり、商売道具もろとも、鴨の河原に放り出されてしまったというのである。さすがの前島易者も、これには這々のていたらくで、折角の開業も、初夜がそのまま店仕舞いになったという話、腹を抱えての笑いといっしょに聞かされた思い出がある。  ところで、以上はすべて間接伝聞の話ばかりだが、そんなわけで、前島さんの存在そのものは、いつのまにか忘れえぬ印象の一つになっていた。ただし、もとより言葉など交したことは一度としてなかった。  ところがである。それから数年、はからずもわたしはふたたび前島さんと顔を合せることになった。いや、顔を合せるどころか、こんどはたびたび高説をさえ拝聴させられる羽目になってしまったのである。たしか大正十四年の春だったかと思う。わたしは東大文学部の三年生になっていた。そこで新学年の聴講課目の一つに、塩谷温教授の「西廂記」講読というのを採ることにした。英文科の学生が「西廂記」などと、いささか不審に思われる向きもあるかもしれぬから断っておくが、もともとわたしの学生生活というのには、多分に逍遙的《ペリパテテイク》なものがあった。予習などは要らず、ただ国訳漢文大成本をさえ持参して黙って聞いていればよい。試験は簡単なペーパーですむというのだから、およそこれほど楽なことはない。さっそく取ることにしたのだった。ところが、さて新学年もはじまり、ぼんやり教室へ出てみると、なんと忘れもせぬ前島さんがそこにいるではないか。風采は依然として変らぬが、ただ矢立だけは小さなインキ瓶とペンとに近代化していた。  なにぶん関東大震災後もほどないころだったので、教室は例の三四郎池に近い、ほんの簡単なバラック建であった。いずれ「西廂記」などといった講義、聴講者は十人もいたであろうか。そんなわけで、講義の前後などには自然誰からともなく雑談を交すようになった。前島さんは意外に気軽に誰とも快く話すようであった。そして必ず一度はお手を拝見ということになる。もちろん、わたしも犠牲者の一人だったことはいうまでもない。  ところで、前島さんの聴講ぶりというのが、またふるっていた。席は決って教壇直下の最前席、教科書など果して持参していたのであろうか。講義がはじまると、いまもいった最前席で、たいていは頬杖などついて、じっとただ教授の面相だけをつくづく眺め入っているのである。なにを考えているのか、ときどきフフンと傍若無人の笑い声まで洩らす始末。ただそれっきりなのである。もちろん、筆記などとっていた姿は見かけたこともない。結局、いちばん面白かったのは、前にもいった時間前後の雑談時である。お互いはじめて顔を合せる未知の聴講者たちの間で、まず必ずといってもよいほど出る最初の話題は、あなた、今年は幾単位くらい取りますか? といった、まずは毒にも薬にもならぬ質問であった。このときもたしか、まもなく誰からともなく出たのだと思う。たいていはまず九つか十、多くて十二、三というのが大勢であった。(三年間で十八単位とればよかったのである。)ところが、突然前熊さんが割り込んできた。うむ、わしは、そう、三十くらいはとるかな、と。そのころの東大には選科制度というのがあり、傍系専門学校からの出身者も入れていたのだが、それらの中には長年中学教師や会社員などを勤めた揚句、改めて発心、この選科に入学してきたというのが相当にいた。みんな正直朴訥そのものみたいな人たちばかりだった。それらの人たちがまず、前島さんの二十五から三十というのに呆気にとられたのである。そんなこと、どうしてできます? という当然の反問が出た。が、そのとき前島さん、少しも騒がず、いや、なに、大学教授の講義なんてのは、どうせ二、三週間も聴きゃ大体はわかる。そこでそれは止めて別の教室に移る。こんな調子でさえやりゃ、一年に三十くらいは朝飯前だとの御託宣なのである。驚いたのは正直朴訥先生たちであった。完全に煙に巻かれた。また事実、前島さんはその通り実行していたようである。その後一時、市河三喜教授の英語学講義などというのにも顔を出しているのを見かけたが、聴講ぶりは例の通り。そしてまもなく姿を消してしまったところを見ると、やはり二、三週間で英語学の大勢くらいは会得し終ったのであろうか。(それとも市河教授の骨相鑑定が終ったのであろうか。)  ところで、わたしが直接前島さんのキツネ哲学なるものを聞かされたのも、やはりこうした講義前後の雑談時であった。大要はこうである。つまり、彼の説によると、人間というのは一人一人、必ずめいめいのキツネが一匹ずつついている。しかも、そのキツネというのには、おのずから上中下三段の品等があり、なにも世俗的にえらい人物だからといって、必ずしも上のキツネがついているとは限らぬ。むしろ、大臣高官にして下のキツネというのもいれば、逆にまた市井一介のルンペンにして上のキツネのついている人間もいるという。だいたい大学教授などというのは、下のキツネが通例で、せいぜいよくて中のキツネだというのである。  ところで、困ったことに前島さん自身のキツネは、残念ながら上のキツネだというのだ。しかもこれらのキツネ、上級のそれは、決して下級のキツネのいうことなど、甘んじて聞くことには承服せぬらしいのだ。したがって、前島さんの言葉をかりれば、いくら彼自身は中ギツネ、下ギツネ教授たちの講義を傾聴しようと思っても、いかんせん、彼の内なるキツネの方がなんとしても承知せぬ。したがって、心ならずも次々と新しい講義を探して歩くより仕方ないのだというわけ。責任はキツネにあるので、わしの責任ではない、というのである。これが大真面目なのだから、例の正直朴訥先生などは完全に毒気を抜かれた形で、そのときの彼らの表情は、半世紀後のいまでも、思い出すとはっきり瞼に浮ぶ。  さて、以上がだいたい前熊さんのキツネ哲学の大要なのだが、なぜまたいまごろになって、こんなくだらん話を書き出したものか、おそらく大いに不審の向きもあろうかと思うので、一言注釈を加えておく。  もちろん、わたしの場合、別に傾倒して拝聴したわけではない。ほんの座興で、お互いアハハと大笑してのお仕舞いといっただけの話だったのだが、実は近ごろ思い出してみると、前熊さんのキツネ哲学、どうして人間社会の真実を衝いて、大いに思い当る点も少くないような気がしだしたのである。とりわけ、政界、財界などの大物といえども、必ずしも上のキツネにあらず、逆に一介のルンペン必ずしも下のキツネとは限らぬというあたりなど、案外人生の真実を言いえているようにも思えるのだ。  なんでも古い物の本によれば、大むかし突厥国とやらのあたりのどこかに、覚穎《かくえい》汗国とやら名乗る小国があったという。一時は小国にもかかわらず、大いに経済的繁栄を誇ったものらしいが、そこの大(?)宰相というのが、文字通り卑賤に身を起して、才幹手腕ともに稀に見る逸材だったということである。なんでも土建屋的——さすがに土建屋などという名称は当時まだなかったようだが、とにかく概してそんなような身分から身を起こし、日本でいえば、さしずめ豊太閤並の立身出世をとげたというのである。ところが、その風貌だが、いまも発掘物のタペストリーの断片になってのこっているが、それによると、たしかに英傑の相も見えぬではないが、さりとてどうも上のキツネとは思えそうにないのである。まずは中ギツネ止りか、やはり前島熊さんのキツネ哲学も、案外当らなくはないようにも思えるのだ。  ところで、この場合は、真偽のほども定かならぬ伝説的人物の話だが、現代の日本においても、どうやらその証跡はかなり顕著にあらわれているかにも思える。昨今の新聞、週刊誌類は、新日鉄とやら申す超大企業での幹部人事騒ぎで、けっこうジャーナリストたちがウケに入っていた。もとよりこんな問題の関係者などに、一人としてわたしの直接知合いなどいるわけはないが、どうも記事を総合してみると、いまはすべてをぶちまけるなどと息巻いている敗者の方も、片やまた黙して語らず、ひどく鷹揚に構えているらしい勝者の方も、どう見てもまず上のキツネとは受けとれぬ。せいぜいが中ギツネか、うっかりすると下ギツネかもしれぬ様相すら、はっきり見えているようである。  そうかと思えば、反対の例もまたないではない。数カ月前であったか、埼玉県のどこか市役所をブラリと訪ねて来て、いきなり一千万という大金の現ナマを、ヒョイと無造作に寄付してしまったという人物が現れた。むしろ応対に出た市役所員の方で、呆気にとられてしまったらしい。風体から見て、なんとしてもそんな大金など身につける人物とは思えなかったからだという。だが、その男の言い分というのがよかった。なんでもその私有地の山林とかが、国の道路計画かなにかで買い上げられ、さてこそ思わぬそんな大金が舞い込んだのだが、どうせ貧乏人がそんな大金をもっても、どだい使い道がわからぬ。息子たち(?)もなんとかやっているので、いっそ市に寄付するから、市のためにうまく使ってほしい、というようなたしか意向であったように思う。これには役所の方がむしろ二度びっくりだったらしいが、なるほど、当時の新聞写真を見ると、ルンペンとまではいわぬが、たしかに千万単位の大金など懐にする風体とは見えなかった。だが、ヒゲもじゃのその風貌の底には、まさしく心の清らかさの輝きとでもいうか、そうした光りの見えているような気さえした。やはり前島さんのいう、身分境涯は低くとも、上のキツネがついて生れているのであろうか。  そういえば、これも数カ月前だが、身分は終生バタ屋稼業で終始し、荒川だかの彼の河川敷小屋というのは、これこそ雨露も凌げぬほどのあばら[#「あばら」に傍点]屋に住みながら、一身の栄養まで極度に節し、あげて余裕は長野県だか、故郷の町の小図書館建設に送金していたというある哲学老年の晩年を、某テレビが放映しているのを見た。どうやらこの人物なども、上のキツネとしか言いようがない。奇人変人などという既成観念だけで片づく問題ではないはずである。これらはほんの数例である。上下ともにこうした例はいくらでもあろうが、別にそれらを網羅するのが目的でないから、さしあたりはこれでやめるが、どうもこれら事例を考えても、前熊さんのキツネ哲学、どうしてバカにはならぬように思え出した。問題はキツネとしか考えようがない。あえて紹介したゆえんである。(断っておくが、わたし自身は決して上ギツネではない。下のキツネというのはちょっと辛いが、せいぜいがまず中くらいのところであろうか。つまり、わたし自身は、いまでもまだあの諸葛武侯だったか、「臣、成都に於て薄田十三頃、桑三百株有り。子孫の衣食、自ら余り有り。臣死するの日、家に余財ありて、陛下に負かしめざるなり」とある一節に、強く心を惹かれるものであり、あの孔明がまさか上ギツネでなかったとは思えぬが、身勝手にそれを引用するわたしの方は、あるいは中ギツネどころかもしれぬからである。念のために。)  その後の前島さんの消息はまったく知らなかった。特に親しかったというわけでなし、おそらくわたしの方が先に卒業してしまったはずだから、その後の縁は完全に絶えてしまったのである。が、念のために最近の一高出身者名簿を見ると、すでに物故者の中に数えられている。どこでどうして死んだものか。しかし、とにかく文学士になったことだけはたしからしい。  ひどく前島さんを奇人扱いにしてしまったきらいもあるが(事実昭和五年だかの雑誌「雄弁」には、「赤門名物男」として、やはり奇人扱いで紹介されたこともあるのだから、必ずしもわたしだけの責任ではない)、彼には歴とした大著[#「大著」に傍点]も二、三点あるはずである。題して「東西手相学と指紋の研究」、また「体験廿一世紀之科学」等々とある。いずれも昭和初年の出版、四百ページを前後する大著である。そしてそれらには、ちゃんと「易学専攻文学士」と肩書がある。少し前までは、ときに古書目録などで見かけたこともあるが、近ごろはとんと出なくなった。念のために国会図書館を調べてもらったら、後者の方だけは所蔵本にあるそうである。わたし自身も別に精読したわけでないから、別に内容を紹介するつもりはないが、よほど物好きで暇な読者諸君は、前記国会図書館本にでもついて読んでごらんになるのも一興であろうか。歴史上の人物はもとより、故浜口首相、若槻首相等々、やたらと知名人士の鑑定をやっているのだから愉快である。学生にして花田学生監の人相鑑定を敢えてしたド根性は、最後までついに鈍磨しなかったものと見える。  また骨相学の書といえば、当然ながら男女性器と骨相との関連を論じた一章もある。が、愉快なのは性器を指して「甘露器」と呼んでいることであり、果して前島さんの独創語か、それともそうした既成語がすでにあったものか、そこまでは浅学詳かにしないが、「甘露器」とはまことに言い得て妙である。  なお前島さんは立派に京大法学士でもあった。その証拠には、東大文学部再入学までに、何年間かはしらぬが、陸軍法務官という歴とした職にまでついているのである。やめた理由については、なんでもすべて被告を無罪にしてしまったからだという風説が、当時一部に流れていた。わたしは冗談まじりに一度教室で質《ただ》してみたことがあるが、これにはウワッハハッと笑うだけで、真偽のほどまでは答えなかった。  なお念のために、これも旧一高同窓生名簿を当ってみると、同年の同クラスにはフランス哲学者、言語学者の河野與一さんの名前が見えたり、愉快なのは、なんとか女議員との酔っ払いキス事件とやらを起して、蔵相の椅子を棒にふった珍談の持主泉山三六氏がいることである。クラスをかえると、法学の権威我妻栄博士や前首相岸信介などもまた同年であったというから面白い。さしずめ前島さんが上ギツネなら、岸信介などはテキメン下ギツネだったのであろうか。鳥頸烏喙などという古語まですぐと連想されるからである。  くだらん漫談はこれでよす。が、いずれにしても、すべては古きよき時代の、すべてなつかしい話である。 [#改ページ]   妄言当死——一九七四・八  元気だなどとはさらさら[#「さらさら」に傍点]云わぬが、いわばまず気息奄々という形で、気がついてみると、いつのまにか七十の坂を越えていた。不思議なものである。  別に取り立てて健康法をやっているわけではない。ただ閻魔どののお目こぼしか、お迎えがないので、死急ぎもしないというだけの話。十年ほど前に一度、舌に妙なものができ、ガン・センターでコバルト照射を命じられたから、いよいよ雁来紅《がんらいこう》かと覚悟したが、どうやら本物ではなかったらしい。よほど悪運にめぐまれた人間と見える。  強いて何がよかったかといえば、おそらく停年を十一年ほどのこして、宮仕えなどいう窮屈仕事に早々と見切りをつけたことかもしれぬ。国立大教授などというあんな仕事に未練をのこしていたら、とっくにもう死んでしまっていたろうことだけは疑いない。結果論かはしれぬが、無責任男の酔生夢死が、結局は一番の延命法になったようにも思える。まことに相済まぬ話である。  もともとわたしという人間は、およそ無趣味、いわゆる違いのわからぬ[#「違いのわからぬ」に傍点]男である。食いものにしてもその通り。美食趣味もなければ、食通でもない。いうなればあてがい[#「あてがい」に傍点]扶持である。出されたものを、ただ中くらいの楽しみでパクパク平らげるだけの話。ときには何を食べさせられているか、それすら一向に気づかぬ程度である。自家の排泄物にあまり関心のないごとく、口に入るものについても、総じてまず無関心といってよい。女房などはさぞ拍子抜けだろうと、相済まなく思っている。  が、第一わたしはあの食通とやらいうものをあまり信じない。それにしても人間、どうしてああ食いものや着るものなどにこだわるのであろうか。どこの何でなければ食えぬとか、どこのあれでなければ身につけられぬなどという気難しさは、呆れるほどわたしにはない。まことに頼りない男なのである。  世上よくあの男、どうしてあんなものに舌鼓が打てるのかだの、よくあんなものを恥ずかしげもなく身につけているだのという、軽蔑に充ちた評言を聞くことがある。わたしなどその筆頭だから云うわけでないが、これが第一わたしには不可解なのだ。自分さえよければいいではないか。  それで思うのだが、奇妙なことに人間、食いものや服飾のことでは、ひどく他人の評言を気にするが、ことひとたび男女のことになると、まったく別なのだから不思議である。傍目《はため》には駿馬、人三化七をのせて走ったり、柳腰、挽臼《ひきうす》を相牽くかのごときチグハグな光景を見かけることもめずらしくないが、当人同士では結構あばた[#「あばた」に傍点]もえくぼ[#「えくぼ」に傍点]なのだからいうことはない。他人の評言で恋人をかえたなどという話はあまり聞かぬ。それでよいのであり、食いものや服飾だけに、他人の思惑などひどく気にする方が、はるかに不思議なのである。  話がだいぶ脱線した。元にもどす。老来たしかに生活の変わった事実はある。意識して努めたというよりは、体力気力の衰えがおのずからにしてそうさせたのだ。一言でいえば、生活戦線の収縮である。煩しいことは思い切って切り落している。石にかじりついてもやり抜くなどという神妙な執念は、もはや薬にしたくもない。ただ自然にそうなったというにすぎぬ。冠婚葬祭、埒もない集会などは、せいぜい義理を欠くことにしている。盛り場に出て飲み食いすることなども極端に稀になった。若い女性などにしなだれかかられても、そこは老人特有のひがみ[#「ひがみ」に傍点]心がたちまちに動く。もてる[#「もてる」に傍点]はずがないという警戒心が瞬間的に閃くのだ。それに夜更けて帰り途の億劫さということも、当然ながら大きく頭にくる。  この点では、近年のタクシー値上げ、乗車拒否という事態に、心から感謝しなければならぬ。葷酒《くんしゆ》山門ならぬ、わが家に車は厳禁という一事を、年来終生のモットーとしているだけに、いやでも公共の交通機関に頼らざるをえぬ。といって、もう深夜の電車は心が重いし、タクシーもまたどちらが客かわからぬとあれば、おのずから足はわが家へと向かざるをえぬ。おかげで金はのこるし、身体は休まるし、顔世御前の御機嫌はよしとあれば、しぶちん[#「しぶちん」に傍点]老人にはまことに三方一両得である。  このごろはもうあまり腹も立たぬ。むかしのわたしは、あの動物園の猿が島というのを訪ねるのが大好きであった。あの猿たち諸君の所行を見ていると実に楽しいからであり、それがまた大体において人間社会そのままなのだから、なおさらであった。もちろん、ときには汚物などを危うく吐きかけられたりすることもある。だが、それで腹を立てる人間というのは見かけたことがない。みんなゲラゲラ愉快そうに楽しんでいるのだ。あれがもし人間の仕業ならば、当然まずは口喧嘩、まかりまちがえば大騒ぎにでもなろうところだが、そうした気配は一向に見えぬ。おそらく猿の振舞いと考えるから、腹も立たぬのではあるまいか。  つまり、それである。お互い人間同士のなす業だと思えば腹も立とうが、猿の所行だと観じれば、笑ってすますよりほかないのではないか。人間世界にしても同様である。人間の世界と猿の世界と、馬鹿さかげんも下らなさかげんも、そう大してちがいがあるとは思えぬ。人間の仕業と思えば腹も立とうが、猿の世界の出来事と悟れば、とてもムキになる気にはなれぬ。これまた老人向き精神衛生法の一つではあるまいか。  日曜の朝から飯のまずくなるような話ばかり書いたような気もするが、そこはもうみみっちい老人のくり言と、お目こぼしを願いたい。要するに近ごろのわたしは、できるだけ身を丸く縮め、わずかな日だまりに、少しでも冷たい風当りを避けているとでもいうか、まことに情けないていたらく[#「ていたらく」に傍点]である。  もっとも、一つだけ心に重くかかる懸念事がある。いうまでもなく、やがては免れえぬはずの死のことである。死後とはいっても、霊魂の行方などではない。これはもう肉体の消滅とともに、大体霊魂もまた空に帰するものと高を括っているが(とんでもない思いちがいかもしれぬが)、問題は物に帰した肉体の死後処理である。およそ世に葬儀前後の始末ほど、故人の意志の完全に無視し去られる社会慣習もない。それを思うと、心が重いのだ。なんとか配慮だけはしておくつもりだが、所詮は踏みにじられてしまうのがオチではないか。当人の遺志以上の大きな力が、どうしようもなく支配するのだから致し方がない。  要するに、すべてが違いのわからぬ[#「違いのわからぬ」に傍点]男なのである。だから、なんとやら申すコーヒーなどはとても畏れ多くて、まずは敬遠することに決めている。妄言当死。 [#改ページ]   死について——一九七六・五—六  そろそろもうこの訃報欄にのせられてもおかしくない人間が、この欄でとやかく申すのは、なんとしても気がひける。  わたし自身も、たしかに「人間の死に方」などという愚著を物したり、ほかにも類似の雑文類を、埒もなく書き散らしたのは、考えてみると、満六十の坂をこえるかこえぬかのころだった。という意味は、やはりそのころ、もっとも死についての関心が切実だったのだろうか。正直にいって、近ごろは必ずしもそれほどでない。あるいはそれだけ老化の痴呆がすすんだのかもしれぬ。つまりいえば脳の片隅が、すでにもう生木のまま立ち枯れかけている兆候とも考えられぬわけでない。そうした意味での無感動である。  だが、人間、死の訪れがあるというのは、この上もない幸せだと信じている。死ぬにも死ねぬ悲惨さというのは、言語に絶するものらしい。若いころわたしは、スウィフトの「ガリヴァー旅行記」第三篇、ストラルドブラグなる不死人間の生きざまを読んで慄然となった憶えがある。ストラルドブラグとは、不死の幸福はあたえられながら、不老の恵みには浴していない人間のこと。詳しくは拙訳が文庫本にもあるから、それについてもらうよりほかないが、とにかくその老醜、みじめさ、二目《ふため》と見られたものでないらしい。記憶力は完全になく、簡単な文章一つにしても、文頭の記憶が文末を読むときにはすでに消えているというひどさ。それでいて我慾と我執と、しかも食慾とはますます昂じるばかり。それでも死ねないのだ。  これで見ても、人間死のあることは、なんという幸福か。ただ困るのは、程よく死ぬことが極端なまでに困難という一事である。去年の暮の大晦日近くだった。わが家の老|十姉妹《じゆうしまつ》の一羽が、二、三日来、妙に元気がないと思っていると、元日の朝早く、巣の中で眠るように死んでいた。騒がず騒がれず、羨しいかぎりの死にざまに見えた。  それが人間の場合は、本人もこうはいかず、周囲もまたそうはさせてくれぬのである。なんという不幸なことか。  つい昨年だったか、元首相という最高の要人が、「最高の医療」だかを受けて、結局は死んだ。  ところが、皮肉なことに同じその日、ある行路病者が救急車で二十六もの病院をタライまわしにされた揚句、手おくれで死んだ。  最低の社会福祉下で最高の医療など、あまりやってもらいたくない。|※[#小さな○]《コマル》 |※[#小さな○]《コマル》 |○《オオコマル》。       *  一人としてかえってきた旅人のいないあの未知の国——あまりにも有名なハムレットの独白に出る一節だが、たしかに死とはそんなもののように思える。お恥かしいが、生のことすら自信をもってはわからぬわたしに、死後の世界などもとよりわからぬ。未だ生を知らず、況や死をや、である。  いわゆる聖賢や宗教家、哲学者などには、ずいぶんといろいろ死への論及はあるようだが、生のことは知らず、死についてまで果して確信ある発言ができるものなのだろうか。わたしの死生観はきわめて浅薄なので、あまり信用してはいただかぬほうがよいかもしれぬが、あの自殺への誘惑すら、ほとんど無動機でも充分起りうるというのが、ひそかなわたしの忖度である。  ある男がいた。前夜おそくまで友人と歓談し別れたのだが、翌朝早くには自裁して果てていた。親しい友人だったので知っているのだが、もちろん遺書めいたものなど一片もなく、上衣のポケットには、翌日の仕事のメモまで丹念に書きとめられていた。しかも一度は明らかに寝衣に着かえ、寝床に入った証跡までのこっているのだった。  またこんなこともあった。わたしがまだ大学生のころ、わたしも病気でさる病院の大部屋に入っていたのだが、一夜おそくにわかに周囲が騒がしくなった。一人の青年が昇汞《しようこう》をのんで自殺を図り、苦悶のまま担ぎこまれたのだが、たまたまわたしの隣が空ベッドだったので、そこへ収容されることになったのだ。  その晩の苦悶は、とうてい二目とは見ていられなかった。だが、手当の効があったのか一命はとりとめ、三日間ほどは目に見えてよくなった。  そこで不思議なのは、近親をはじめ見舞客が訪れると、誰彼の区別なく、実に心から(と思えた)、お蔭さまで有難うございましたと礼をくりかえすのである。  ところが、そうした三、四日目だったろうか、腎臓を冒されて尿毒症を発したらしく、これも夜中だったが、ほとんど眠るようにコトリと息絶えた。はからずも所期の目的は達したのである。  半世紀後の今日もなお、昨日のことのように鮮烈な印象がのこっている。死とは何か。やはり一応は死を決意したはずの彼が、ひとたび生命は取りとめたかと見えたとき、なぜまたあんなに喜色まで浮べて感謝してまわったのだろう。皮肉とだけでは片づけきれぬ、わたしには謎である。       *  死そのものが、目下必ずしも四六時中の念頭事ではないと、最初に書いた。痩我慢ではないつもりだが、正直にいって、はるかにより切実な煩いは、死の直後をめぐる人間関係にある。人間ひとたび死ねば、故人の意志意向などおおむねまず完全に無視されるものと決っている。死人に口なし、いかに反対抗弁をしようにも、いっさいできないのだから情けない。  たとえば葬儀である。死とは畢竟するに一私事。一私事のために、多忙な人たちの公的時間を奪うなどとは、まことに僭越のかぎりと思うのだが、どうしてこれがそう簡単にはいかぬのだから困る。幸いに記念して下さる篤志の方でもいられるなら、これは随処にあってそうして下されば結構なのだが、やはりどうも一定の場所、時間を指定して、会葬を煩わすよりほかに、よい方法はないものと見える。厄介な話である。  多少誇張していえば、世のいわゆる葬儀なるもの、すべてこれ世間体が中心の虚礼にすぎぬような気がする。人間、盛んな葬儀をよろこぶものもいれば、かえって迷惑と感じるものもいてよいはず。ところが、そうした個人意識差は、すべて死とともに、因襲という俗習の中で均質化されてしまうのだ。  来世の存在を信ずればともかく、そうでもなければ、死とともに、彼がかつてこの世に存在した事実すら、一切あげて忘れられてしまうのを、むしろ至福《スンムム・ボーヌム》として願う人間だって当然いるはず。だが、そうした意志は完全にまず無視される。おかしな話である。もしなんともやむをえぬというのであれば、遺骨(これがのこるから厄介なのだ)だけでもどこかに置いて、勝手に来て勝手に帰ってもらえば結構である。飾りつけ、生前の写真など一切不要。弔辞にいたっては最悪である。もしわたしに死後の霊魂があり、葬儀場の片隅ででも聞いていれば、おそらく吹き出すに相違ない。褒貶ともにである。  わたし自身についていえば、死んだら一日も早く丹波篠山の一家の墓に運んでもらい、幸いまだ余裕もあるようだから、雑居墓室に放りこんでもらえればよい。ほかに新しい墓などつくることは全く無用。辺鄙だけに訪れる人も少なかろう。他人は知らず、わたしだけについていえば、あるものはただ石と壺と灰とだけ。いくら詣ってもらったところで、見えもしなければ、聞けるはずもない。年経てやがて無縁ともなれば、願ってもない幸いというもの。わたしの場合、化けて出る粋狂心など絶対にないから御安心を……。       *  前節で葬儀および墓のことに触れた。実をいえば、できることなら墓などのこさずにすめば楽しいのにと、そう思いながら書いたのである。それで思い出すのは故周恩来の死をめぐってのある報道だった。それによると、故人の遺志とかで、墓はつくらず、遺灰は風にまきちらしてほしいとのことだったという。果してその後どう処理されたか詳らかにしないが、実現できれば、心から羨しいかぎりだと思う。  ただ断わっておくが、わが日本では、たとえ遺言書はあっても、どうやらまず不可能らしい。墓地埋葬等に関する法とやらいう厄介な法律があり、遺族に処罰の覚悟でもないかぎり、折角だが見込みなしとのことである。公衆衛生の見地からすれば、それもわからぬでないが、はてさて不自由な世の中ではある。  さて、読者にも筆者にも、まことに興の乗らぬ随感だったが、これで一応打ち切りにする。そこで最後に、死の問題などおよそお考えにならぬ元気な御老人——とりわけ、俺はまだ若い、百歳までも生きて見せる、などと白痴《たわけ》豪語をされる政財界の御老人方に、ぜひともおすすめしたい一書がある。大トルストイの作「イワン・イリッチの死」がそれである。  イワンはわずか四十五歳で、すでに高裁判事にまで出世している有能官吏である。健康もいいし、世俗的名誉でも何一つ不足するものはない。死のことなど、もちろん念頭にもなかったはず。ところが、そのイワンが突然不明の病に犯され、わずか三カ月足らずの病床生活で死ぬ。その苦痛苦悶をあますところなく描いたのがこの作品である。作者が例の精神革命を経たあとの作品なので、芸術的完成度には問題もあるが、一般社会人に死の問題を考えさせるには、絶好の読みものと信じている。この一作を書くために、作者は少なくとも数年以上の深刻な思索を潜めていたはず。  せいぜい中篇程度の作品だから、これ以上の解説はよすが、おそらくイワンとともに、「わからない! 苦痛、死……何のためなのか!」と深刻な懊悩の幾夜かを過される読者も多いのではなかろうか。  さすが大モラリスト、ミシェル・モンテーニュはうまいことを言っている。「我々の生涯の目的は死である。死の準備は自由の準備である。我々は日常死を瞑想し、死とふだんから馴れ親しむにかぎる」と。ついでにいうが、これをモンテーニュが書いたとき、彼はなんと三十九歳だった。いわゆるヒューズ遺書が十七通も出るなどという異象は、もはや沙汰の限りである。 [#改ページ]   2[#「2」はゴシック体] 自由主義者の哄笑 [#改ページ]   歴史に学ぶ——一九四六・三    1  真珠湾からだけでも四年余り、支那事変にまでさかのぼれば、実に八年以上国の運命を賭けた危局に際し、政戦両面を通じて全国民の輿望を担うような大人材、大人物をという待望の声だけは高かったが、それにもかかわらず、事実はついに一人のこれといった人物も見出しえなかった。このことは今次太平洋戦争最大の悲劇であり、これだけは東西古今の歴史を通じてちょっと比類のない現象であった。苟くも一国民が、しかもとにかく世界有数の軍備を有し、列強の一につらなるはずの一国民が、それこそ死力をつくした数年間の死闘を続けながら、ついに一人として指導的人物が現れなかったというのはほとんど考えられぬ事実である。最初はともかく、中頃以後には必ず現実の激しい闘いの中で鍛えられた新人物の実力が擡頭して、そこにおのずから旧指導者群との交代が行われるという、これがむしろ自然の理でなければならない。例えばあのフランス革命である。おそらく革命初期最大の指導者だったと信じられるミラボーのごときも、最初は決して国民待望の人物でもなんでもなかった。初期の指導者は周知のようにネッケル、ラファイエット、あるいはさらに下ってマルエ・バイイといったむしろ二流の人物でさえあった。しかし革命という激しい渦動は、いつのまにか門閥や旧時代的声望を振い落して、バスチーユ事件後数カ月目には、すでに実力闘争によってこのミラボーを押しも押されぬ指導者に押し上げていた。あるいは十八世紀中葉、イギリスがフランスと世界制覇をめぐって抗争した七年戦争、植民地戦争の例を見よう。開戦当初イギリス軍は陸海ともに敗戦に敗戦をつづけた。国内は賄賂に、買収に、醜悪な政争を続けていた。ある文人貴族は「もはや英国民は一国民を成さず」とまで嗟歎しているのであるが、この沈湎のドン底に登場したのが宰相大ピットであった。これが実に開戦三年目。彼の国民指導はたちまち頽瀾を既墜に回し、翌年からは史家マコーレーによれば「四方より吹く風はことごとくイギリス戦勝の快報を齎らした」という快調振り、そしてついにあのフランスの総退却をもって大英帝国不動の基礎を築いた。文字通り国難が発見した偉材だったのである。  殷鑑はもっと近くにもある。前大戦で首相ロイド・ジョージの登場は同じく戦争三年目の暮であり、フランスのクレマンソー内閣に至っては、さらにその翌年の一九一七年であった。チャーチルも同様、三人とも揃って平和時代ではとうてい首相になどなれそうにない非常時型であることも面白い。当年の敗戦国ドイツですらが、なるほど、真の指導者としては異論もあるが、とにかく戦争末期にはルーデンドルフという事実上の指導者を、開戦当時の一旅団長に見出していたのである。  これらの事例を考えても、ここ一世代のわが政治的人材の貧寒振りはただただ驚くの外はない。しかもその最後には、ついに戦争収束の決定をさえ、その後の真相報告によれば、これはまた文字通り陛下御一人の責任による聖断を煩し奉ったというのであり、さらにその直後の跡始末に至るまで、皇族殿下の御苦労を仰がなければできないに至っては、まことに国民最後の大恥辱であったと私は思う。これは個人も同じことで、国民としてもそれは過誤ということはある。だがしかし、みずからの過誤を自分で処理始末できぬ国民というのは可笑しい。おそらくこういう終戦の仕方は、アングロサクソンにとっては不可解《ミステリアス》であろう。終戦以来ジャーナリズムや、それに追随してか一部文化人の間にさえ、聖断下ったが故に戦争はすんだのだという風に、これを一に比類ない国体の有難さに帰するような論調まである。なるほど国民自身が無能力だとすれば、たしかに国体の有難さに相違ないが、真面目に考えれば、少くとも日本人自身として大きな顔で吹聴できる筋合ではないはずだ。国民としての政治的無能力をまるで天下に告白したも同然だからである。  一、二度前に書いたり話したこともあるが、戦争中ついに私に諒解できなかったことは、指導者出でよ、大号令を待つ、というあの国民の声である。さらにもっと滑稽なのは、国民の準備はできている、今はただ大号令を待つのみ、というあの悲鳴である。それも一般大衆だけならまだしもだが、堂々たる知識層も言った。一流の新聞紙までが臆面もなく三日に一度は書いた。一番情なかったのは帝大新聞の投書欄にさえ何度か同趣意の見解を散見した。これもアングロサクソンには全くもって不可解《ミステリアス》の一つであろう。彼らは指導など御免だ、号令を廃してくれとは言うだろうが、号令を掛けてくれとは死んでも言わない国民だからである。一体号令してくれとは、正直に言って一人前の成人のそう口にすべき言葉ではないはずである。民主主義に再出発するという日本人が真剣に考え直さなければならない問題ではないかと思う。  スウィフトの「ガリヴァー旅行記」の中に「政治的才能などというものは、なにも一代に三人しかでないというような天才だけが備えている才能ではない。普通の人間なら誰にでも結構できることだ」という一節がある。これはアングロサクソンの政治観を最もよく示した言葉だと、かねがね私は思っている。政治、すなわち自分で自分を治めることくらいは誰にでもできる、この考えでこそあの民主主義は発達したのである。イソップに池の蛙どもが神様にむかって自分たちの王様をねだる有名な寓話がある。最初神様は大きな材木を一本これが王様だといってお与えになるが、ただ薄汚い大きな図体だけで、物も言わなければ、威力も現わさない王様に、蛙どもは物足りなくなり、改めてもっと立派な王様が欲しいと申し出た。あまり言うので神様も動かされ、今度は威風四辺を払う一羽の鶴に代えておやりになった。今度は蛙ども大満悦であったが、ところがまもなく彼らは一匹残らずその鶴の餌食になってしまったというのである。この痛烈目を掩いたいばかりの諷刺の意味が、無闇に号令を欲しがる日本人には果してわかるであろうか、私ははなはだ覚束なくさえ思う。    2  大戦前から戦争中にかけて、概念規定をしない世界観的用語が、いかに悪意をもって濫用せられたかはすでに識者の指摘する通りである。曰く自由主義、曰く民主主義、曰く個人主義、しかもそれらの概念濫用は、それにより苟くも自己の見解に反するような対手は、ことごとくこれを陥れようといういわば暴圧の武器として利用するために、ことさら曖昧化されていた嫌いさえある。われわれにとって実に苦い経験であったにもかかわらず、最近は方向を変えてまたしても概念濫用の兆候が繰返されようとしているのは意外である。「封建」という概念がそれである。  封建的なるものの残滓が根強くわが国社会の発展を阻み、戦争遂行上の最大隘路であったこと、それには毫も異論はない。さらにまた封建的体制が当然資本主義体制、あるいは個人主義的自覚に席を譲るべき歴史的旧段階にあることも、これまた正にその通りである。私は決して封建的なるものの愛惜者でもなければ、擁護者でもないが、最近のジャーナリズムではまた、悪いことはなんでもすべて封建とさえ言えばよいという、封建側としてはずいぶん言分のありそうな概念混乱が著しい。  一、二具体的事例を考えてみよう。近年わが指導層間の旧人老人万歳振りには正に驚くべきものがある。宛然として古道具屋の店ざらえの観すらある。戦争中日本を担う者は青年だなどと嬉しがらせの唇奉仕《リツプサーヴイス》は、どうなったのだろう。ところで、よく明治維新の建設は青年であったなどと、幕末志士から維新元勲あたりの青年の年齢を列挙する。なるほど、いかにも若い。だが、それはある意味で当然なので、当時の現状打破を叫んで立った彼ら革新分子が若くなければ、その方がどうかしているのである。  ところが面白いことに、当時守旧固陋済度し難くして倒れたはずの幕府方人材はどうだったか。年齢的にだけ見ると、これがまた案外に若いのである。  黒船の出現で江戸っ子どもが胆を消していたあの時の老中主座は、周知のように阿部正弘である。正弘がどれだけの人物だったか問題はあろうが、凡庸の材でなかったことだけは事実だ。ところで、その正弘が老中に任ぜられたのは天保十四年、実に二十五歳の弱冠であった。以後三十九歳で歿するまで絶えず其職にあって、とにかく一貫して難局の処理に当ったのである。二十五歳の宰相というのは、あのナポレオン戦争当時の大難局に抗争し抜いたイギリスの首相小ピットが、二十三歳で蔵相、二十四歳と何カ月かで首相という記録と東西双璧というべきであろう。門閥といえばどちらもそうだが、どちらもただ単に門閥とだけでは片付けられぬ資質であったことも共通だ。問題の井伊直弼、これは例外的に晩成の人物だったといわれるが、それでも大老職就任が四十四、そして四十六で首を挙げられているのである。斉彬、春嶽、容堂その他みんな若い。三十代か、多くて四十代だ。これらはそれぞれ門閥だからという理由もあろうが、川路聖謨、岩瀬鴎処、小栗上野あたりの実力一つで活躍した要人になると、門閥のお蔭はほとんどない。それでいて川路の活動時代が六十を越えていたのをほとんど唯一の例外として、すでに四十を前後して最大の活躍を示しているのである。東湖、海舟なども活動の絶頂はいずれも四十代だった。  年齢の若さばかりではない。人材簡抜の道なども、封建的身分固定の枠は枠なりに、権道ではあるが案外開かれていた点がある。少くとも現在の官吏任用の窮屈な制限や年功序列的昇進の愚劣さをそのままに、昔を悪制度呼ばわりできるようなものではない。川路、勝などはいわゆる小普請の出身であり、岩瀬、小栗なども決して門閥の出ではない。ただ実力一つであの若さで簡抜を見たにすぎない。もっとも幕末循吏の逸材の一人で、卑賤より抜かれて勘定奉行、町奉行まで累進した矢部駿河のことが藤田東湖の「見聞偶筆」に見える。「矢部、余に謂て曰く、……某は元来三百俵の御番士より斯まで立身したるは才力にあらず。皆賄賂を以て致したる事にて大方の嘲りもあらんと思ふなりと。」これは正しく権道のはなはだしいものであるにはちがいないが、「才力にあらず」とは矢部にしての謙辞であり、東湖も評しているように、彼のその後の簡抜が賄賂の功でないことは無論である。  人物経済からいえば、あの隠居制度なども封建制の安全弁としてなかなかに捨て難いものがあった。隠居は必ずしも全的隠退を意味しない。逆にある種の自由をさえ意味したらしい。上にちょっと挙げた容堂なども三十三で隠居しているが、彼の最も大きな活動舞台はそれからだった。悪くすると院政的弊害を生じる惧れはたしかにあるが、若隠居制度も人材の篩落しとしてはなかなか捨て難い含みをもっている。少くとも今のような無能でもなんでも、一度齧りつけば老齢までトコロ天押しに昇進して行けるよりは、清新の気の流入の点ではるかに勝れていたといってよい。  そんなわけで明治維新に至るまでの実状は、少くとも年齢の点では決して老朽対青年の抗争ではなかった。無能対有能の抗争でもなかった。問題はただ幕藩体制の側にこれら少壮有能の人材をもってしてもどうにもならぬ、十分な力の発揮を許さない制度の枠が厳として存在したということであり、これが結局勝敗を決定したと言ってもよい。だから人材簡抜の自由から言えば、明治の更新も今になってみれば、少しも改善されたとは言えないのである。言いかえれば目に見える封建制をいくら除いて見ても、肝心の封建根性が根絶できなければ、なんにもならぬのである。悪いものはなんでも封建のせいにして攻撃するのもよいが、朝に呉客を迎え、夕には越客をとって恬然たる今のジャーナリズムなどは、そもそも封建根性の巣窟で、攻撃する資格など毛頭ないのである。  こんな話がある。昔さるところにひどく吝ん坊の親爺がいた。親爺、家の裏に柿の木を持っていたが、毎年秋になると美味そうな実が枝もたわわに実る。だが、なにしろ吝ん坊だものだから、食べ頃の実は食べようとしないのである。毎朝起きてみると、必ず腐りかけて落ちたのが五つや十は地面に転がっている。勿体ないといって彼はまずこれを拾って食べる。だが、あいにく朝になると、次から次へと落ちているので、とうとうこの親爺、せっかくの美味い食べ頃の柿は一つも口にしないで、わざわざ御丁寧にも腐らせては食っていたという。  笑いごとではない。近年日本における人材の使い方は、この吝ん坊の親爺だと思うのだ。三十、四十の思考力も最も強靱新鮮、第一、肉体的にも無限の精力をもった人間は腐らせておいて、漸く引込み思案の事勿れ主義の年頃になると、老熟とかなんとか体裁のよい名前だけをこしらえて担ぎ回っているのである。まことに腐った柿というほかない。    3  そこでわが国近年の政治的人材の徹底的涸渇は何かということを、私は近来折りに触れて考えてみた。結論は一口でいえば育成を怠ったことである。宰相の材は一日に成るものでない。日本人に特に政治的才能が稀薄だとは私には考えられない。明治から少くとも大正初期までは、決して政治的人材の払底を歎く必要はなかったのである。普仏戦争の後で、例の科学者パストゥールが敗戦の原因を科学精神の涸渇にありとして次のように書いている。 「フランスは過去の上に生きていた。過去に物質的繁栄を齎した幾多の科学的発見によって自国を偉大なりと信じていた。そして不注意にもこれら発見の源を涸渇せしめつつあるのを覚らなかった」と。この言葉はそのままわが国最近の政治貧困に適用できるのではあるまいか。思うに、真の政治家育成の閑却は二つの方面から考えられよう。一つは政治と文化との悲しむべき分離であり、今一つは公開的討議の場の喪失ということである。  政治と文化との分離といえば、私などの学生時代の回顧が最も適切であると思う。私は大正の後半期に渉って高等学校から大学を出た。この時期は周知のように、一応とにかく珍しく自由主義、民主主義が主潮をなし、文化的香気の横溢した短い時期であった。この時にあたって政治はわれわれ青年たちにとってどうであったか。それは完全な侮蔑の中にあった。私どもの高等学校にはその頃まだ明治以来の永い伝統を誇る擬国会なる年中行事が行われていた。今にして思えば明治初年の政治情熱と政治教育の名残であったのだ。しかし私どもの頃にはそれはすでに完全に形骸化し、弁論部か何かの一部の者だけの行事で、大多数の学生は全くの無関心、ほとんど誰も知らない間に行われていたような有様であった。社会問題に、経済問題に、情熱を捧げる有為な青年は少くなかった。だが、政治に志す青年は、どちらかといえば素質の悪い分子であり、しかも院外団的に代議士の家に出入りしたり、政界内情のいわゆる消息通になることが政治教育の初段階だという、きわめて低調振りだった。文化に対して、政治とは何かひどく非文化的なものを代表するもののような観すらあった。政治を軽蔑することが文化人の一要件であるかのような気持すら、たしかに私どもにはあった。この形勢を回想するだけでも、今日の政治の貧困は、実に当然の収穫であるといわねばならないのである。  今回の苦杯を嘗めた日本においては、近い将来当然新しい政治教育の必要が提唱されるであろうし、またそうなければならないと思う。そしてその場合にはおそらく政治の文化性とか、もっと政治に文化性をだとか、そういったことが唱導されるのだろうと思うが、それでは未だしいと私は思う。政治[#「政治」に傍点]の中へ文化を入れたり、政治[#「政治」に傍点]を文化的にしたりすることではない。政治がそのまま文化でなければならないのである。政治家が今のような非文化的職業であってはならぬ。政治家は一流の文化人でなければならないのである。政治教育が政党操縦術の習熟や親分子分関係に通暁することであってはならないのであり、理想的にいえば、哲学者や歴史家が廟堂に立てばそのまま立派に政治ができるという、そういう政治でなければならないのだ。逆にまた歴史教育は同時に最も正しい政治教育であり、文化人であることは決して社会生活、政治生活に無能力者たることではないという風にならなければいけないし、逆にまた物を書けば、それがそのまま国民的文化遺産になるような政治家が輩出しなければならないのだ。一口にいえば、「政治と文化」というこの悲しむべき二律背反が、その言葉の意義を失うとき、その時こそもはや政治の貧困をかこつ必要の消滅する時であろう。    4  公開討議の場ということをいえば、政治的才能とは素質であると同時に鍛錬でもある。しかもそれは、断じて国民環視下の公開的討議の場で鍛えられなければならぬ。わが国近年の最大の不幸は、この公開的討議の場が失われていたことにある。議会があるというが、私たちの知った大正末以後の議会は、一種の政権闇取引場ではあっても、真の公開討議の場では決してなかった。最近のいわゆる人物の払底も、それは絶対量的にないというよりも、一つにはこの公開的討議場の欠如から来る野の遺賢を見出しえなかったことが、非常に大きいと信じている。「未曾有の国難」を切抜けるのに、国民は依然として重臣層の闇取引や盥廻し人事を、多大の不安をもって呆れるよりほかなかった。閣僚を選ぶといっても、少数者の狭隘な私的関係の中で群小未知数を求めるよりほかに途はない。それでなくてさえ乏しい人材を、これでどうして人物が獲られようか。  公開的討議で最も壮観を現出したのは、十九世紀後半におけるイギリス政界のそれであろう。保守党を率いるディズレーリと、自由党を率いるグラッドストンとの対立がそれである。前者は二度、後者は四度、それぞれ宰相の印綬を帯びた。対立といっても、独裁国におけるごとき一党の勝利は他党の撲滅ではむろんない。グラッドストンの自由主義、ディズレーリの帝国主義とが、各々その信ずる主義と理想に従い、しかもその間どうして老獪な現実的妥協は適当に交えながらも、あくまでそれは公開議場を中心に堂々と全国民環視の前でその経綸を公開したのである。一体民主主義とは、独裁者が真理の独占を主張するのに対して、人は真理の一切を占有することはできない、真理は個人の認識より大なりとする謙譲な懐疑論から出発するものであり、従ってそれは常に自己の所信に忠なるとともに、他者の立場に対する尊重ともなる。とにかくこの両政治的巨人があくまで全国民の前に経綸をもって争い、勝てばこれを施し、敗るれば退くといった壮観は、まことに史上にも稀といわねばならなかった。  将来日本の民主主義が二大政党対立形態になるか、それとも小党分立形態をとるか、これは単純に善悪優劣の比較だけでは行かず、成立の歴史事情や国民性にもよるものであるから、にわかに予断は許さないが、しかし二大政党対立方式のもつ否定しえない長所は、人材を殺さず、最も能率的に利用できることである。周知のように独裁者の勝利は、必然的に彼ら自党以外の人材の弾圧撲滅、いいかえればおのずからなる人材資源の半減、ないしは四半減を意味するに反して、民主主義はそれこそ人材の温存と、将来必要を生じた場合はたちまちその活用を可能ならしめる。その最も巧妙な実例は、かの南阿におけるボア戦争前後のイギリスに見られる。ボア戦争はもちろん保守党内閣、それも特に帝国主義者ジョゼフ・チェンバレンあたりを推進力として行われたものであるが、この戦争はこの国を未曾有の世界輿論からの袋叩きの中においた。ところが、この間自由党は戦前から帝国主義政策に反対し、戦争中といえどもその半ばは徹底的に親ボア的であるか、でなくとも少くとも戦争に対して批判的であることを明確に示していた。彼らにとって困難は困難な途であった。しかし主張は変えなかったし、保守党もまたむろん強権をもってこれを圧迫するなどはしなかった。ところがこの戦争は、イギリスとしては勝つには勝ったが正直に言って持て余し気味であった。そのことが戦後急速にボア人に対する自治許容政策となり、戦後四年の一九〇六年には早くもその実現を見たのである。この戦後処理に当ったのはもっぱら自由党で、さてこそ自由党のキャンベル・バナマン内閣は一九〇五年その政権をとると、すぐに翌年この自治権賦与を行っているのである。注意すべきは、この場合朝と野とに政策を異にする二大政党が厳存したことが、戦後政策の転換を行うについても、あわてて別に看板の塗換えを行うまでもなく、戦争中からすでにボア人の間に十分に親英感をかちえていた自由党が、静かに舞台交代の登場をすることによって最も効果的に行うことができたという、老獪といえば老獪だろうが、老獪とは政治の豊富さを意味するのだから、残念だが感心するより致し方がない。  上述ディズレーリ、グラッドストンの対立時代、大陸ではドイツのビスマルクの時代であった。ドイツにおけるビスマルクとイギリスにおけるディ、グ両者の対照は、われわれに実に多くを教えているように思う。個人政治家としては、ある意味でビスマルクは理想的政治才幹の持主ではなかったかとさえ思う。政治家素質としてはグラッドストンなどはるかに彼の後塵を拝すというのが正当な評価だろう。しかしながら見遁してならないのは、ドイツ国民がビスマルクの鉄腕に魅了されているうちに、彼らはいつの間にか次代人材の養成を忘れていたのである。ビスマルクのいるうちはよかったが、彼の隠退とともに、後継者フォン・ビュローから前大戦勃発時のベトマン・ホルヴェヒに至るまで、凡庸でなければ無能という、あの悲惨な人材飢饉を招いてしまったのであった。 「人が歴史から学ぶ教訓は、人が歴史から決して学ばないということだ」というのは、たしかヘーゲルの言葉であったと思う。歴史に学ぶということは言うは容易でも、実行は極端に至難事であるらしい。ドイツ最近史などを読むと、つくづくそのことを思う。だが、賢明に歴史から学んだ実例もないではない。例えば十七世紀イギリスが行った革命である。勢いの赴くところ彼らはついに国王を断頭台に送った。しかしその結果として彼らが知ったことは、聖者の政治が悪魔の政治と同様に悪いということであった。そしてこの貴重な経験が最も賢明に生かされたのが、一六八八年の無血革命であり、以後彼らにはもはや暴力革命を行う必要がなくなったのである。われわれ今次の敗戦に至っては、実際経験としてはあまりにも高価すぎる。だが高価すぎるこの苦杯を少しでも緩和するものがあるとすれば、それは歴史の与えるこの教訓を「飢え渇く如く」吸収することでなければならぬ。    5  最後に余談を一つ。  近頃よく節を枉《ま》げたとか、枉げなかったとかいうことを言う。ところで、私たちの旧い常識からすれば、節を枉げた枉げないというようなことは、他の者からみて言うことなので、苟くも自分の口から言うべきことではないと思っていた。ところが、この頃ではまるで自分の口から洒々と節を売らなかったという押売りがあるから驚く。いつだったかも加藤勘十が戦時中の行動を詰問されたとき、彼は実にイケシャアシャアと「苦しい中にも節を屈せず、自己の良心を守り通してきた」と述べていた。言うならば、他人の口から言われることである。言葉の相場も下落すれば下落するものだと思う。  これもまた私たち旧人たる保守主義者の常識からすると、節を屈しないとか、枉げないとかということは、そんな生易しいものではないはず。戦争を黙ってみていたり、不貞腐れの沈黙を守っていたからといって、別に悪いとは言わぬが、節を屈しなかったなどと大見得を切ってもらうほどには買っていないつもりだ。私たちの考える節を守るとは、もっともっと命賭けの行動である。(だから序でに言えば、私も無論そうだが、戦争中本当に節を守ったなどと大きな声で言えるものは、あっても皆無に近かったはず。新生の首途はまず自己慚愧からはじめなければ嘘である。)  そこで二、三、真に節を守った行動というのを実例であげてみよう。  イギリスの十七世紀にウィリアム・プリンと呼ぶ清教徒があった。彼は時の旧教反動政府とその権力者ロード大主教を攻撃してやまなかったために、ついに両耳を剪られて投獄された。  だが、彼はなおペンとインキが手に入るや否や、再び獄中から攻撃を加えた。彼らはプリンを引出すと、再び耳を剪り落した上に、今度はさらに前額にS・Lという烙印を押した。「誹謗、人を誤るもの」Seditious Libelerという意味の頭字だった。だが、彼はまだ前額の肉の焼け焦げる音を聞きながら、平然として洒落のめしたのである。曰く、「ロードの悪烙印か Stigmata Laudis」と。  いや、もっと激しい精神は東洋にもある。史記の「斉太公世家」というのを読むとこんな話がある。  崔杼という権臣があった。あるとき崔杼がその君荘公を殺した。ところが、斉の歴史記録を司る太史官は事実通り「崔杼、荘公を弑す」と書きとめた。崔杼は怒って、また太史官を殺してしまった。ところが、その弟がまた屈せずに同じことを書きとめた。崔杼はこの弟も殺してしまった。ところが、それでも屈しない男がいた。それはさらに次のいま一人の弟だった。これにはついに崔杼の方が負けてしまい、ために正確な記録は二人の貴い血をもって守られたというのである。  これなどこそ、真に大きな顔をして、節を枉げず、良心を売らなかったというのであろう。加藤勘十などの比ではないのである。  フランス革命史を読んで、私の忘れえない一節は、あのルイ十六世が革命議会の最後の審判の前に立たされたとき、みずから進んで王の弁護にあたった三人の弁護士のことである。  彼らの最も若いドセーズのごときは、誰もいやがるこの不人気な、ある場合にはむしろ危険でさえある弁論に、実に三時間の雄弁を王のために揮った。もっと悲壮なのは最年長者、そしてかつての宮中顧問弁護士でもあった七十歳の老マールゼルブであろう。昨日に変って今は王を捨てて去った寵臣の中で、彼は最後の舞台に自ら進んで王の弁護を申し出たのだった。彼は言った、「余は、未だ世人のすべてがその名誉をひたすらに冀《こいねが》った頃、二度までも主たる王の恩顧を辱《かたじけの》うしたものである。今や多くのものはむしろそれを危険と考えつつあるとき、余は王のためにその同じ義務をつくさなければならぬ」と。  生と死とは違うが、これら三人の節士にも比すべきは、上にもちょっと名を出した幕末、徳川氏の社稷《しやしよく》と運命を共にした川路聖謨の死であろう。幕末の諸臣中、才幹、聡明、ともに川路のごとき人物をあまり知らない。しかも彼は慶応四年三月十五日、江戸城ついに引渡しとの報を聞くと(実は誤伝だったのだが)、妻女を所用にかこつけて身辺を去らせたあと、静かに自決して徳川氏に殉じたのであった。川路の場合、私がことに彼の節義を思うのは、彼は決して小栗の一派ではなかった。  彼の聡明はすでに早くから徳川氏の命運と、新時代の黎明とは直感していたらしい。その証拠に、同月七日の最後の日記には、彼は新帝(明治天皇)をたたえて、「二千年之末、御幼主にて被為在ながら、此威力を御持被遊候とは、五世界、廿二史中、絶てなきことなり。日本の難有御国なることをしるべし」と記し、すでに恭順を当然としていたのである。  だが、彼としては去就は単に理智の問題だけではなかった。  徒士風情の微臣から、当然の才幹もあったとはいえ、外国奉行の要職にまで取り立てられた徳川氏への恩義に対し、彼はついに殉じ去ったのである。  彼らは畢竟保守旧套の落伍者であったかもしれない。だが、保守とはいえ、旧套とはいえ、彼らの行蔵の中に私たちはいまだ地に墜ちぬ節義を見ることができる。  私は自分自身が節を枉げなかったなどという勇気はないし、従って他人が節を守らなかったのをいま責めようというつもりもない。  節義とは言うには易く、行うには至難のものかもしれぬ。ただせめては節義の安売りだけはしてもらいたくない。この大切な言葉の堕落だけは防ぎとめる役を果したいのである。 [#改ページ]   われわれの民主主義——一九四六・一〇    1  近頃、与えられた自由、強制された民主主義というような情ない言葉を坊間で耳にする。日本は徹底的に民主化されなければならない、だが、それはアメリカの対日処理方式がそうなのである、といったようなだいたい論法である。事実もし再建民主主義日本が、一にも二にもアメリカの指針次第、わが方としてはただ御無理御尤もで行くより外ないというのであれば、これは正しく困った問題である。およそこれほど情ない話はない、再建日本の根底もはなはだ薄弱きわまるものといわねばならない。では、果して坊間の言の通り、われわれはアメリカの注文だから、アメリカの要望がそうである故に、民主化に努力しなければならないのであろうか。  こんな話がある。  今からいえばもう一昨年の春、戦勢は日に増してわれに非であり、当局の強引な隠蔽にもかかわらず、真相の断片は水の漏れるように国民の耳に入ってくる。世間には様々の流言が乱れ飛んだ。その頃、私はある流言飛語対策に関する調査を委託されていたので、その仕事に参考の必要から、もっぱら流言取締りの衝にあたっていた警視庁特高課の某々を招いて、デマ取締りの実情聴取の座談会を開いたことがある。いろいろ懇談の末、さて対策如何の話になったところが、この恐い小父さん面白いことを言い出した。曰く、いくら当局で取締りを厳重にしたところで、とうてい防止し切れるものではない。結局は国民の一人一人が確乎たる判断力をもち、デマかデマでないかを判別し、流言に乗じられないようにならなければ所詮駄目であるという。  聞いていて私は実に意外だった。各人が確乎たる判断をもち、流言に惑わされない国民といえば、現在ではまず最も理想に近いのはイギリス国民であろう。ロンドンにハイド・パークという公園があり、ここには古くから世界でも名高い名物がある。すなわちこの公園では、誰でもが小さな演台を持参すれば、その上に立ってどんなに過激奇矯な言説を吐こうと天下御免である。一切取締りはない。ちょっと来いともいわれない。なぜか。聴くイギリス人が立派に判断力をもち、実行不可能の空論に踊らされたり、為めにする暴論に動かされたりする危険がないからである。  なにもハイド・パークばかりではない。ニュース統制に関してまず最も自由なのはイギリスである。敗戦をまるで自慢そうにどしどし発表するのは昔からイギリスのやり口である。敵国の宣伝文書や宣伝放送に対しても完全に聴かせっ放しなのも前大戦以来イギリスである。なぜか。そんなものに国民はごまかされないからである。それに反して戦争中の日本の神経質な取締り振りはどうであったか。おそらく自由に真相を知り、自由に敵宣伝を入れたのでは国民の戦意が持ち切れないというのであろう。誰よりもまず日本人が日本人を信用していないのである。真相を告げられ、敵宣伝を筒抜けにさせたからといって、イギリス人が敵に乗ぜられて戦意を喪失したとは一向に聞かない。してみると、これこそ特高の小父さんの理想に最も近い国民ではなかろうか。  またこんな話もある。  やはり同じころだった。これは新聞にもちょっと出たから記憶している人もあるかも知れないが、海軍の報道部課長栗原大佐が幾人かの文化人を集めてこんな意味のことを述べた。それによると、今のような日本の政治、つまり国民の言論は一切封じ、政府のすることには絶対批判を許さないという、こんな政治では戦争はできない。批判こそは物の運営を正しくし、偏狭な独善を防止する。裁判を見るがよい。判事、検事という官僚に対して、まるで反対の立場から絶えずこれを監視し、批判する弁護士という在野的存在があるからこそ、とにかく裁判だけはそう大過もなく、一応正義が保たれるのだ。政治もこれでなくてはいけない。民間文化人の活溌な政府批判を期待する、というのであった。  ところがこれも可笑しいのである。裁判官、弁護士の比喩だったからよいようなものの、もしそのかわりに、政府と在野反対党という言葉にでも変えてみるがよい。正しくそれは米英流の政党政治、議会政治の根本原理ではないか、すなわち米英流の議会政治では、A党が多数で政権をとるとか、大統領を出すとかすれば、B党は必らず在野党にまわって、絶えずA党の政府を批判し、監視し、攻撃し、時到れば代って自ら政権を奪取する機会をねらっている。それだけに政府としては決して安易なことや、間違ったことはできないわけであり、在野党もまた在野党で、次に政権到来の時への言質があるから、いくら在野であるからといって、無責任な場当りは言っておられない。つまり両々相俟ってはなはだしい過誤を犯すことなく、独善的傾向に陥ることはまずないのである。  私はこの戦争中の二つの経験を非常に興味深く思った。なにしろ米英打倒で血眼の戦争をやっている最中であり、その時に人もあろうに軍の報道部課長や特高の小父さんが、そうと言葉にこそは出さぬが、正しく米英に学べといわんばかりのことをいうのである。怪しからぬ話である。だが、静かに考えて見れば少しも不思議はない。もしわれわれが真に力強い、正しい社会を築き上げようと思えば、実は必然的にこの結論に到達せざるをえないのである。今度の戦争の敗因を数えれば、それはいくらでもある。しかし最も大きな原因の一つは、日本人の個人個人が実に脆弱だったことである。各人が確乎たる判断力を持つといい、批判、監視による正しい政治の運営といい、これがいわゆる民主主義の要件であり、長所である。そしてその基礎になるものは外でもない強固な個人でなければならない。民主主義そのものは、あるいは政治様式の理想最高のものではないかもしれぬ。しかしわれわれの作る社会ないし国家が真に国民とともにあって力強い、正しいものであるためには、ぜひともそれを通らなければならない関門であり、段階であるのだ。私は報道部課長や特高の小父さんたちが、まさかに米英かぶれであったとは思えない。しかし彼らが真に虚心国のことを思った時に、はからずもこの「怪しからぬ」結論に到達したのは当然も当然、当然すぎることだったのである。私は別に民主主義者を自称したことも、自称するつもりもないが、個人の完成、向上を期すること、そして他者の意見に対して寛容であり、批判を善用すること——この二つこそは民主主義の最大公約数であり、この両者を信ずる限りでは私もまた民主主義者と呼ばれても異存はない。  要するに誤解してはいけない。日本の再出発の方向が民主主義にあるということは、なにもアメリカへの義理でもなければ、時勢への便乗でもない。終戦の後に民主主義の必要を説く声は腐るほど多い。しかし上述二つの経験は、それが戦争が酣であった時のものであり、およそ民主主義者とは反対の立場の人々の言説でもあるだけに、私は特に重要視したいのであるが、これにみても日本の民主的再出発は、日本が真に力強いものになるためにはぜひそうあらねばならない自発的なものであり、そこにわれわれ自身の、われわれ自身のために実現を期しなければならない責務がある。    2  すでにジャーナリズムその他で啓蒙されたように、一口に民主主義といっても、その具体的現われにおいては、各国それぞれの国民性、歴史的特殊性などによって決して同一でないことは周知の通りである。まずブルジョア民主主義である米英のそれと、プロレタリア民主主義であるソ連のそれとが、相当重大な点、たとえば党独裁とか、社会主義経済の強行とかいう点などで、むしろ両極性を代表するものであることはいうまでもない。同じブルジョア民主主義といっても、米英のそれと、フランス、スイス、スウェーデン等々のそれとは決して同じでない。米英両者の間ですら、重要な幾多社会主義政策の実行を綱領とする労働党内閣下のイギリスは、もはや単純に資本主義、自由主義の国とは言い難く、従ってアメリカとの距離は漸次大になりつつあることは否めない。  しかしこれらの現象的差別については、ここでは取扱おうとは思わない。以下本稿で一緒に考えてゆきたいと思うのは、むしろ民主主義の最大公約数、といって悪ければ、少くとも民主主義という限り、これだけはあってもらいたいという願わしい特質二、三についてである。  第一に、民主主義とは納得と同意による政治、あるいは物の運営の方法である。(特に「物の運営の方法」と言いかえたのは、民主主義はなにもいわゆる政治だけの原理ではない。下は例えば家族、隣組といった小集団から、大は国家ないし国家連合というようなものに至るまで、人間一切の社会生活、対人関係を律する行動原理である。なにも代議士を選出することや、議会政治だけが民主主義ではない。むしろ最も大切なのは、下部末端社会の民主主義、いいかえれば私のいう小さなデモクラシーの正しい運用である。)  例の林語堂が戦争中アメリカで出した「涙と笑の間」という書物の中に、非常に興味深いアメリカ人心理の観察を書いている。それによると、例えばワシントン、ニューヨーク間を駛る汽車に乗ると、はっきり「禁煙」と書いてある。そのくせアメリカ人は平気で車内でプカプカ煙草を吹かしている。ところで、この車内禁煙を実行しようと思えばどうすればよいか。車掌が来て、規則だからいけませんというのではとうていだめだろう。アメリカ人は喫煙の自由を天下り規則で縛られることには承服できないだろうから、と林氏はいう。それではどうすればよいのか。林氏は言葉をついで言うのである。もし誰か有志が、たとえば「ニューヨーク・タイムズ」にでも投書して、車内の喫煙は危険である。混雑の中で、もし吸殻ででも赤ん坊が火傷をするようなことがあったらどうします。だから一つ車内の喫煙はよしましょうとでも書けば、おそらくこれなら禁煙が行われるだろうというのである。行われるか行われないか、それは私にも保証はできない。しかしそれがいかにも行われそうだという推測だけは、アメリカ人の心理から考えて下せそうに思えるのである。  米英人はよく「遵法」Law-abidingということを言うが、林語堂氏のこの機智は、彼らのいわゆる遵法観念の機微を巧みに言いえて妙であると思う。一口に遵法といっても、それは与えられた法を守るのと、自らの同意、納得で作った法を守る場合とがある。日本人は権威で与えられた法には案外従順であるが、かえって自分たちでこしらえた法は平気で破る。ところが米英式の遵法道徳は、命令だから守るのでは決してない、納得して同意を示し、それではじめて遵法するのである。アダムスという歴史家は、最初まず承服できない法を破って新大陸を開拓したアメリカ人だから、その後も承服できない法は破るのがアメリカ人の国民性であると、長短両面の特質としてあげているが、その代りには自分たちで決めた法には実によく従う。判断者はどこまでも自分なのである。その点、敗戦の前日まで「大指導者出でよ」だの、「大号令出でよ」だのと、まるで自分の鼻面を引きずりまわしてくれといわんばかりの情ないことを叫んでいた日本人とはだいぶ違うのだ。  権威による服従、それは一応手っ取り早く、形式的にはたしかに見た目に美しく、力強くも見える。それからいえば納得による服従は、手数もかかり、テンポものろい、だが、注意すべきことは納得による服従こそが真に強いということだ。太平洋戦争前、よく陸軍方面などから米軍怖るるに足らず、とても困苦にたえて戦争のできる軍隊ではないなどという宣伝が放送されていたが、私はもちろんその根拠がどこから出たかは知らない。しかしあるいはこんなところからも出たのではないか、臆測できるようなものはある。例えばあの日露戦争当時の大統領シオダー・ローズヴェルトの書いたアメリカ発展史「西部の征服」という大著がある。その中にアメリカの軍隊のことを書いて、「上官といえども命令を強制することはできない。勧告したり、懇願したり、指導したり、説得したりすることはできるが、命令することはできない。命令したとしても、人々はその方が都合のよい時だけ服従するにすぎなかった」と評している。むろんだいぶん古い話だが、それにしても進駐軍将兵の規律と、先達までのわが軍隊のそれとを比べると、この評言はある程度うなずけるかと思う。命令できないのではないが、大きな究極的目的に関しての納得がない限り、ただ権威というだけの命令はきかぬのだ。  では、この「都合よい時だけ服従する」軍隊が、なぜ南方の困苦にたえ、硫黄島、沖縄の血戦を凌いで本土にまでその匕首を擬して来たか。答は簡単である。太平洋戦争の事由についてアメリカ国民の一人一人が納得したからである。周知のように、太平洋戦争の勃発する前日まで、まだアメリカの国内には孤立派を中心として、戦争に捲きこまれる危険を叫んでローズヴェルトに強力に反対していた相当有力な勢力があった。孤立派の大立物リンドバーグなどは、たしか真珠湾の前日までまだ盛大な野外演説会を開いて反対の気勢をあげていたはずだ。そこへあの真珠湾だった。アメリカ人は一斉に納得した。議会はほとんど満場一致(精確にいえば、それでもなお下院に婦人議員一人の反対者、上院では数人の棄権者があった)をもって宣戦案を可決するし、リンドバーグも即日主張を棄てて戦争協力を宣言した。日本とはちがって、アメリカで議会が全員一致したことは、そのまままず全国民の同意納得と解してよい。いわばこの納得が彼ら将兵をして命令や強権によるのではなく、自発的にその究極目的を日本へ日本へと指向させたのである。  残念ながら、今度の戦争なども、「納得のゆかない戦争」が「納得のいった戦争」にはっきり敗れた形である。顧みるとここ十数年、不幸な破局を挟んで、日本の打っていた手はすべて相手方のこの心理に対する無理解から出発していたといってよい。そして最後に真珠湾が、むろんあの無理をして立上った戦争では戦略としてはああでもしなければいけなかったのかもしれぬが、心の底からアメリカ人を戦争に納得させた点では、なるほど日本最大の成功(?)だったのである。  先日も、所用があって文部省へ行っていると、ある地方の図書館関係者が文化課長の許へ来て、しきりに文部省で大方針を建ててくれとせがんでいる。聞いていると、戦争もすんで大いに活動したいのだが、やはり文部省の方で方針を示してくれないと駄目だと、彼はまたしても繰返す。本人大真面目だからいよいよおかしいのだが、習い性というか、根性はなおらないものだとつくづく思った。長い強権の圧力はついに日本人の自発能力を磨消してしまったのである。図書館の活動になにを文部省の方針などまつ必要があるのか。よしと信ずるものはドシドシ自主的責任でやればよいではないか。もし結果に見るべきものが上れば、文部省にこそ学ばせたらよいのである。 「改造」二月号に、エドガー・スノウと山本実彦との対談が載っている。敗因が話題になって、山本は軍官の独善だとか、統制の失敗だとか、科学の劣勢だとか、例によって例の月並をあげているのに対して、流石に外部から観察していたスノウはただ一言、日本人には奴隷が多すぎたのでしょうねと、実に含みの深い一言をのこしている。われわれはなによりもまずこの奴隷性から解放されなければならない。もはや雨のごとき上意下達に苦しむことはないのである。人間どこの世界に納得よりも強権を、同意よりも権柄を、快く感じるものがいるであろうか。これはもはや模倣ではない。人間本然の要求によって、われわれはわれわれに最も近い生活集団——学級の中に、学校の中に、家族の中に、隣組、町内の中にまず納得、同意による運営原理の訓練を、もはや頭の中の理窟ではなく、実践を通して習熟すべきであろう。    3  第二は、各自がその意見を述べることの義務である。  私はこれは日本人の社会生活の大きな欠点ではないかと思っている。私は戦争中町会にも関係した。また学校は私の本職だ。そのほか二、三の団体に関係もあるが、そうした団体の集会で、日本人は率直な御意見をと問われても、述べるものはおそろしく少数である。述べるのは多くの場合一言居士か、屁理窟屋に決っている。その他の連中はいったい何を考えているのかよくわからぬ。それならば意見がないのかと思うと、決してそうではない。一度会場の出口を出るやいなや、怖ろしく雄弁な悪口がはじまり、攻撃がはじまるのだ。おそらく諸君はこんな日本人独特の風景をどこかできっと見たことがあるにちがいない。われわれ思うのは、それならばなぜちゃんとした席上で述べてくれなかったのだろう。反対なら反対でよい。公開の場でさえ述べられれば、理のあるところは参考にして取入れることもできたろうにと、よく思う。これではいけない。意見を求められれば、意見だけははっきり述べるのが民主主義である。各人の意見が自由に表明されないところに民主主義はない。  だが、それではなぜ民主主義は各人の意見を求めるのか。各人の意見などと、そんな面倒な手続きなど経ないでも、傑れた少数者の頭脳でドンドン裁いて行った方が能率的ではないか、という反問も出よう。一理はある。だが、それは原則として民主主義の建前ではない。民主主義の根本的理念がそうでないからである。アメリカにウィリアム・ジェイムズという哲学者がいた。彼は自分の哲学プラグマチズムを最も民主的《デモクラチツク》な哲学と呼んでいるが、その理由として、「いかなる見解といえども、絶対的に普遍一般的であるというものはない。真理はあまりにも大きい。とうてい一つの心——たとえそれが『絶対者』と称せられるものであろうとも——がその全体を知りつくすことなどできぬ」という意味のことを述べている。いいかえれば、人間として己れの能力の限界を知った、きわめて謙虚な懐疑の上に立っているのである。この謙虚な考え方は、なにもプラグマチズムだけではない、民主主義一般の根本理念にあてはまる。  ファッショ勢力の擡頭したころから、わが国にはそれに呼応する神がかり的日本主義者、御用的国学者の一群が輩出した。この人たちの論法は、いわゆる破邪顕正というのを口実に、われこそは真理、正義の独占者であり、彼らの説に反するものはことごとく異端邪説、例により非国民国賊扱いをして告発した。しまいには仲間同士の間でさえまるで元祖、本家争いのような形勢を現出した。官僚、軍人がやはりそうである。自分たちの考えることだけが正しいので、従って一切国民の批判には箝口令をしいた。国民はひそかに独善と評した。独善とは何か。絶対唯一の真理を彼らは自分たちだけで独り占めできると自惚れていたのだ。だから、何を好んで他からの意見など聴く必要があろうか、というのが彼らの考え方だった。  民主主義本来の精神はそうでない。神ですら絶対唯一の真理を独占することはできないのだ。まして一人の人間がをやである。何処の誰がどんな傑れた意見を持っているかわからない。だから、できるだけ広く多数の意見を求め、それによって気づかなかった誤謬は正し、及ぶ限りよい結論に到達しようというのである。だからこそ広く公論を起こし、批判、修正によって正しきをえようとする。従ってこの場合、遠慮か、軽蔑か、いずれにしても各人がその意見を述べないのでは肝心の目的は達せられない。意見を述べることが権利でない、むしろ義務なのである。過日の総選挙などでも、しきりに棄権してはならないという。ならないというからこそ、そこは天邪鬼でつい面倒がって権利[#「権利」に傍点]を捨てるつもりになる。だが、選挙とはいわば御意見如何をきいているのである。してみれば、一票という形で意見を開陳するのが義務であり、意見の開陳があってこそ国民の意思のあり場所もわかるのである。引張り出されるから行くのではない。意見を開陳することが、やがては自分たち自身の生活の上に正直に反映してくるからである。    4  第三は、民主主義はいわゆる英雄崇拝を好まないということである。  ファッショ独裁者の大好きな一つの図式がある。すなわちそれは一段高いところに英雄がいる。心持下ったその両側に何人かの小英雄が居流れる。そして国民とか、大衆というものは、それらから遙かに下段に恭々しく拝跪している図である。従ってそこからあの「指導者」という観念が生れる。英雄は指導する者であり、民衆は指導される群盲である。ただ指導者のいいなりに右に行き、左に行きさえすればよいのである。伝えられる東条内閣時代のいわゆる翼賛議員連中を思い浮べるがよい。討議でもなんでもない指示されるままに東条演説の必要な場所場所で拍手を送っていればよいのだった。  つい先頃までわが国でも「指導者」という考えが氾濫した。曰く指導者錬成。曰く指導者会議。まるで猫も杓子も指導者気取りであった。その頃も私は「神様ならしらぬが、人が人を指導できるなどということはそう簡単に信じられない」と書いたが、実際それほど無造作に指導者の製造ができたのである。いったいあの「指導者」などという概念(むろん言葉は従来からあったが)がにわかに流行ったのは、いうまでもなくナチズムおよびファシズムの露骨な影響である。ヒトラーの「総統」と呼ぶ称号の原語がF殄rer「手引きする者」であり、ムソリーニの愛称 Duce がやはり「引張るもの」である。つまり指導者である。国民大衆などというものはどうせ自分の力で正しい途をとることはできない群盲なのだから、眼の開いた少数者が指導してやる外ない、というのである。  民主主義の国民観はそうではない。人間というものは大体みんなそう大差ないものである。悪くいえばドン栗の背競べかもしれぬが、そう大英雄もいないかわりに、そう愚鈍救うべからざるものもいない。政治一つにしても、スウィフトのいったように、それはなにも「一代に三人しか出ないような天才でなければできぬというものではない」、普通の能力のある人間なら誰にでもできるものだという風に考える。従って大臣とか首相といったところで、盲人を手引する偉い指導者でもなんでもなく、ただ誰もが政治家になるわけにもゆかぬから適当な人に代ってやってもらうといったくらいの考えである。だから首相、大臣の方でも指導者気取りではないので、むしろ逆に国民の信任の上で仕事をしている。だから、何か新しい政策でもやる場合には、必らず改めて国民の総意を訊くことが原則である。  近頃日本でも民主主義熱とともに、今度はにわかに官吏は「公僕」だの、議員は「国民の僕」だなどと言い出した。情ない国で、これはまた米英のにわか輸入の考え方なのだが、つまり英語で大臣は minister「仕える者」「下僕」の原意である。だからチャーチル首相 Prime minister は実は「下男頭」であったのだ。 「指導者」と「下僕」——しかしこの考え方の相違は決して簡単に笑ってすませられる問題ではない。指導者政治がよいか、下僕政治がよいか、なるほど、両者をそれぞれの理想的な形で比較してみるならば、決して単純にどちらとも軍配はあげられない。事実はしばしば大衆は衆愚であることがありうるからである。そこでもし人間が確実に足ることを知り、権力に溺れないものであったならば、指導者政治も一概に悪くばかりはいえないと思う。例えばビスマルクなどは稀な例であって、彼にもむろんマイナスはあるが、ドイツ国民は彼によって幸福を加えられこそしたが、不幸になったとは考えられない。だが、不幸にして人間というものは、生れつき権力に溺れる動物なのである。理窟はしらぬが事実がそうだ。ナポレオンがそうであり、ヒトラーがそうであり、わが軍部がそうであった。私は彼らの最初の動機がすべて悪かったとまでは信じないが、ただひとたび権力を握ると、今度は権力が恐ろしい誘惑になり、力に溺れて結果はあのいわゆる盲人盲人を導くということにもなるのである。  民主主義は英雄に対して懐疑的である。本来人間は弱いもの、溺れ易いものと考えるからである。してみれば、うっかり英雄などに血道をあげて有頂天になっていると、飛んでもない、国民は何処へ連れて行かれるか知れたものでない。殷鑑遠からず……まずそれよりは、といった安全第一の考え方をする。さきのイギリス首相ボールドウィンの書いているように、民主主義とは鈍《のろ》いが、最も安全確実な途なのである。今度の戦争で、あのダンケルクの惨敗以来、国運累卵の危きによく堪えて国民を指導し抜いたチャーチル統率の保守党を、戦争直後の総選挙で、労働党が戦後再建の社会主義政策をかかげて国民の選択を問うやいなや、あっさり退けてしまったイギリス国民の現実主義、——日本人などにはなにか忘恩のようにさえ思えるかもしれぬが、そこに感情と現実政治とをはっきり区別する民主主義の行き方が見える。  むろん民主主義国だからといって、英雄、偉人を尊敬しないのではない。ただしかし英雄偉人に対する観念がちがう。思想家エマーソンが「代表的偉人論」で言っている定義は民主主義人の英雄観をよく現わしている。すなわち彼によれば「偉人を偉人たらしむるものは、独創性よりもむしろその振幅、延長である。そして真に価値ある独創性とは、他人と異るということではない。……偉大なる天才とは独創的であることではない。むしろ受容的であること、世界をしてすべてをなさしめ、そして時代思潮をして彼の精神の中を融通無礙に通過させることであるといってよい」と。  しかしそれだけに、社会を作る個人個人の優劣が非常に重大な問題になってくる。つまり真に正しい個人主義の発達をみない社会では民主主義は行われない。衆愚政治に堕する危険がきわめて大きいのである。なぜ強力な独裁が個人の水準の低い後進的社会、たとえばイタリヤ、スペイン、そして残念だが日本(ドイツの場合は必ずしも低いといえないのだが、歴史的に独裁制の源泉のようになるのはなぜか。何か運命的なものがあるように思える)などに起こりえて、個人主義の進んだ国家社会に起こりえないか。再考する必要があろうと思う。率直にいって、今日までの日本の社会では、あるいは民主主義よりも、少数独裁主義の方がより適当した政治様式であるということもいえそうである。だが、注意すべきことは、なるほど独裁下でも国家的運命は隆昌することもある。しかし国家は興っても、国民自身が大人になることは永久にない。ひとたび傑れた独裁者の去った後の国民は、まるで方向を失った迷羊の群である。国民は一時の苦しみを逃れるために、自分自身はいつまでも小児であることを欲するか、それとも困難を自ら克服して、国民自身が大人になることを欲するか、今こそわれわれにとっての重大な岐路である。    5  以上、民主主義理念の最大公約数ともいうべきものについて述べた。しかも幾分それがあるべき理想的な形で行われる場合について述べた。だが、いったい民主主義とはすでに完成した、万能的特効薬なのであろうか。そうではない。真の民主主義とは常に自らを完成の過程中にあるものとして認識し、自己の欠陥、弱点を省みることに決して吝でない。米英の民主主義もソ連の民主主義もそれ自体決して完成された固定的なものではない。それぞれの仕方において完成途上のものである。  殊に民主主義の最大の問題は多数決という方法論にある。多数決という方法がひとつまちがえば、衆愚政治に堕落する公算はきわめて大きい。理想国「無何有郷だより」の中でウィリアム・モリスがイギリスの議事堂をすら肥料蔵に貶してしまっているのもそこにある。ウェルズやショーなども、決してファッショの信奉者ではないが、多数決の民主主義にはかなり深刻な懐疑を投げている。二人ばかりではない。前大戦後の西欧思想家に見える共通の特徴が、ある意味で深刻な民主主義への自己反省と懐疑であったことは否定できぬ。旧来の自由主義的デモクラシーが、果して現代世界の深刻な課題を解決しうるかどうか、大きな苦悶の中にある。だが、間違ってはいけないのは、それは一応自由主義と民主主義を成熟させてきた西欧での問題であり、それに対して日本はまだまだ民主主義以前なのである。  率直にいえば、私は必ずしも多数決による民主主義を最高社会の政治様式だとは信じない。真に高い政治はやはりプラトーのいわゆる賢人政治や哲人政治であろう。さらにまたもっと理想的には、最小限の政治のみを許す無政府状態に近い社会であろう。しかしそれらはすべてまだまだ遠い世界の夢であり、現実問題としては、好むと好まないにかかわらず、民主主義は日本人自身の問題として通過しなければならない段階なのである。  では、われわれ日本人にとって民主主義は簡単に実現できる課題なのであろうか。私は否と答える。率直にいえば、私は困難のみが目につくといってもよい。だが、実際以上に安易に見込み違いをするよりは、最初からはっきり困難の所在を見通して出発する方が賢明であろう。困難は主として二つの方向にあると思う。  一つは個人的生活水準の問題である。戦争中アメリカは「われらの生活水準の維持」ということを大きな戦争目的の一つにかかげていた。チャーチルも言ったように、民主主義の健全な発達にはぜひともある程度の生活水準維持が絶対要件なのである。貧乏は民主主義の敵である。上にも述べた、民主主義が衆愚政治に堕しないためには、結局個人個人が向上し、完成に近づくより外に途はない。高い個人の集まりである社会のみが健全な民主主義を可能にする。  ところが、個人の向上、個人の社会的訓練にはどうしても生活の余裕が必要である。衣食足りて礼節を知るではないが、三度三度の衣食に追われる貧窮ではとうてい個人の向上など望みえない。そこに民主主義の危機がある。比喩でいおう。この頃の日本の交通機関である。かりに交通道徳の訓練をしたいにしても、現在のような状態では、ほとほと手の下しようもない。押しこまなければ一日中乗れないかもしれぬし、なまじ道徳など守っていれば、はね飛ばされてしまう。あれがせめてもう何割か車体もふえ、混雑も緩和されるならば、そこではじめて交通道徳の訓練もできる、社会生活の向上も実現できるのだが、なにぶん今の状態では道徳だけで責めるのは無理である。  近い将来における日本は、私はだいたいこの交通機関の状態に似ていると思う。とにかく領土は四つの島に限られたのである。今後われわれが勤勉にしてよく経済復興に成功するとしても、なおこの土地は七千万同胞を容れるには決して十分でない。当分ただ生きることにかまける苦しい貧困が日本全体としてつづくに相違ない。その点で比喩でも述べたような個人の向上が著しく阻まれる。個人の向上がない限り、衆愚政治の危険は大いにある。そして衆愚政治が逆に国民に対して民主主義への幻滅を与えるのだ。そこに再び反動ファッショ勢力の乗じる重大な隙間があることは、前大戦後ヒトラーの擡頭を見るまでのドイツ、あるいは昭和の農村恐慌に好機をつかんだわが軍部ファッショの擡頭など、殷鑑は遠からず眼の前にある。私はこのことを怖れるのである。といって省線の車台とは違い、現実の客観的条件を今さらどうすることもできない。とにかくこの不利な条件の中で、われわれはわれわれの民主主義を築き上げなければならない。従ってそれは十九世紀イギリスや、現代アメリカの資本主義的自由経済をもってしては、とうてい打開の望みはない。ただ賢明な計画による社会主義に希望が見出せるだけであるが、そこにも個人の向上は絶対必須の要件になる。たとえ飯は食わずとも、日本においては啓蒙運動の必要が焦眉の急務である所以であるのだ。  いま一つは、民主主義が上から来た弱点である。われわれ国民としては慚愧にたえないが、とにかく日本の解放は外から来た。しかも憲法といい、国会の選挙といい、民主主義はまず上からはじまった。ところが、民主主義とは本来まず下からはじまらなければならない。たとえばまず民主的な家族があり、その上に民主的な隣組があり、さらにその上に同様にして町会、部落会、区会、村会というような順序で、府県となり、国となるように自治が組織されて行くのがあるべき理想の姿なのである。それが最もよく現われているのは、さすがに伝統のない新大陸に建国したアメリカである。日本などではまず中央権力があり、ただその一部を府県以下の自治機関に委譲しているという形であるが、アメリカでは逆に村邑《タウン》とか、郡《カウンテイ》といった地方自治体こそが第一義の存在であり、合衆国連邦政府は最後にできたものである。アメリカ研究家トクヴィルがその名著の中で、「地方自治体は指示されたただその一部の権力だけを中央政府に譲渡したと感じている」と述べているのは至言である。本末が正に逆なのである。  西欧でも、イギリス以下中世以来の伝統を背負っている諸国の民主主義は、もちろんアメリカのようには完全にいっていない。日本などもまた、アメリカのように合理的に行くことは不可能であろう。だが、下からという原理が可及的に消化されなければならないのは当然である。  これは決して模倣でいうのではない。いったい民主主義というのは、人々に支配する術《アート》を教えるよりは、上手に支配される術《アート》、ガバナビリティを教えるものである。この頃街頭でも、車内でも、われわれが日々耳にするのは、熊さんも八さんも実に勝手気儘な政府の無能攻撃である。大臣などは実に三文の値打もない。悪いことはすべて政府のやり方[#「やり方」に傍点]が悪いのである。私もむろん現在の政府諸公をそう有能とばかりは思わぬ。しかしそれにしても、糞味噌よばわりする街頭の熊さんよりも、彼らが無能だとはまさかに思われない。私は無責任きわまる街頭の熊さん政談をきくたびに、つくづく政府もやりにくかろうなと思う。断っておくが、なにも私は熊さんが意見を述べていけないというのではない。ただ「上手に支配される術」を学んでいないのである。  考えてもみるがよい。理想的な個人の集まりでもないかぎり、政治、殊にも納得による政治というのは、口でいうほど簡単なものでは決してない。もし日本人で、たとえ十人程度の集団でもよい、強権によるのでなく、納得の方法で運営したことのある人ならば、私の言葉はただちに諒解してもらえるだろう。容易なことではないのである。つまり日本人全体にそうした運営法と訓練が(無理もないが)全然できていないのである。たとえ十人程度の集団でも、各構成員が衆議のなにたるをよく知り、しかも代表者の仕事の困難さに同情をもつのでなければ、とうてい運営できるものでない。この心構えが私のいう「服従する術」、「上手に支配される術」である。そしてこの術《アート》の習得は何よりも級といい、隣組といい、町内という「小さいデモクラシー」で最もよく訓練されるものなのだ。「小さいデモクラシー」はそのまま「大きいデモクラシー」に通じる。末端組織で十分に訓練せられたものは、同じ批判、攻撃はするにもせよ、もっと当事者諸氏に対して同情的であるはずである。  ところがこのところ過去十数年、せっかく発達の途上にあった自治能力さえ扼殺されてしまった日本人は、いまにわかに解放せられても、その訓練がない。そこに大衆は一方には擬民主的デマゴーグによって踊らされる危険があるかと思えば、他方では反動ファッショの乗ずるチャンスがいくらでもある。ただ幸いなことにこの危険は、少くとも純理的には、「小さいデモクラシー」の訓練さえあれば、比較的簡単に解決はつく。だからこそ私は理論の上での啓蒙でなく、一日も早くわれわれはできるだけ身近な社会生活の中に民主主義的自治の実践を導き入れるべきであり、実践を通じてのみこの術《アート》は習熟できる。  以上、私はいくらか誇張してさえ困難をあげた。だが、この困難は必ずしもわれわれを挫折させるものではないはずだ。欺された、欺されたと国民はいう。もしそれが単なる口頭禅でなく、骨身にしみて感じているならば、たとえいかに困難があろうとも、二度と再び偽英雄や偽指導者に欺されないために、われわれ自身の力で民主主義を正しくするのが真に英雄的な責務であろう。 [#改ページ]   若い人々のために——一九四六・一〇  敗戦後、責任主体のわからない数多くの言説にはもうあきあきした。  いったいこの国の文化人は自分の人間観、自分の思想的立場を明らかにすることなしに、きわめて無責任な意見を主張する習慣がある。いわゆる思想の手品師である。だから例えば昨日彼らは国家主義の基礎づけをした論理そのままを、今日は民主主義の裏付けに利用して平然たるものがある。その意味で、私は最初に私自身の人間観の位置と座標を明らかにしておきたい。それが私の言説に一つの責任をとらせる所以だろうと思う。それがよし浅薄であり、矛盾があるとしても、今の私としてはギリギリのものであるとすれば、一切の批判は甘んじて受ける。  いうならば私は社会主義を信ずる保守主義者である。人間観としては、人間がいわゆる天使でもなければ獣でもない、中間の謎のような存在物であると信じている。進歩は否定しないが、ユートピアの夢は持たない。ただ論理的だけに首尾一貫徹底した思想に好意を持たない。むしろ矛盾はあっても、深く現実を愛する思想を好む。モンテーニュの懐疑とエラスムスの寛容とは私自身の信条でもありたい。漱石のいわゆる「冷い頭で説かれた深い思想よりも、熱い心臓から語られる平凡な言説を尊敬する」。——以上  さて何からはじめようか。  近い将来に、形におけるいわゆる思想的混乱が来ることは目に見えて明らかである。思うにここ数年もたてば、若い元気な人々の思想は、おそらく私などの考え方を生温い、不徹底極まるものとして足蹴にかける時が来るだろう。今日最も熱烈な天皇制支持者の青年が、五年後には天皇制打倒の急先鋒でないと誰が保証しよう。諸子百家の思い思いの言説が、それこそ各人が各人に対して狼であるごとくに、憎悪に爪を磨いて乱れ飛ぶ時が来るだろう。だがそれでよいのである。私たちはこの混乱を恐れてはならない。とにかくあらゆる思想にあらゆる発表機会が与えられること、これこそが真に民主的であることの前提条件であり、もし私たちがこれに対して怯懦であり、再びあの準官製的思想で弾圧するような過誤を繰返すようならば、日本人は今度こそ永久に思想的嬰児で終ってしまう。いわばそれは日本人全体が大人になるための思春期のストルム・ウント・ドラングなのである。これを乗切って思想の暁明に達するか達しないか、それは一に私たちに課せられた課題である。だが、私はそれには若い人々に望みたい二つのことがある。  一つは、私は将来諸君がどんな思想を奉じようと、それでよいと思う。共産主義も結構ならば、反対に真に国家主義的信念に到達するのもよい。だが、それには私は予備的基礎として是非とも次の一事を望みたい。もし諸君がある特定の思想的立場を奉じようと決心した時には、諸君は必ずもう一度その反対の思想的立場をも反省してもらいたい。諸君が共産主義を奉じようという。それもよろしい。だが、その時に一応は国家主義思想の根拠と起源とにも考慮の余裕をもってほしい。天皇制否定に与するか、それもよい。だが、天皇制の犯してきた弊害と同時に、天皇制がたしかに果してきたよい意義の一面も一応は考えてもらいたい。その上でなお諸君の良心が一定の行動を指示するならば、諸君は喜び勇んで、責任を賭けて直行したまえ、楯には必ず両面があると私は信じている。私は、諸君がただ楯の一面だけを見て早急に行動することを諸君の将来のために恐れるのだ。不幸にして、今日三十前後までの青年諸君は、思想の多様さの中から、自身の信念と良心とによって一つの思想を選ぶ訓練を与えられなかった。いわゆる強制された思想の統一が諸君の自由を奪っていたのである。取返しのつかぬそれは不幸だった。いわば突然闇黒から思想の広野に出た諸君のために、私の切に望みたいことは、早急に行動を決することよりも、まずできるだけ豊富な客観的材料の中に考える訓練を獲ることではなかろうか。こうした訓練のみが、私たち世代の意気地なかった知識人の過誤を償ってもらえる、新しい世代への期待の一つであると思う。  今一つは、上述のように、たとえ諸君自身がいかなる思想的立場をとるにもせよ、諸君は諸君の思想的敵手からすらも尊敬される人間にならなければならない。敵からすら尊敬される人間、——ここにこそ私は、人間が思想の奴隷でなく、むしろ逆に人間こそは思想の主人であること、いいかえれば思想とは人間の一つの在り方であり、一切の思想の背後に横わる普遍的地盤は結局人間であるという事実が啓示されるのだと思う。たとえ思想は異っても、人間としては尊敬し合える、これこそは人間の特権でなくてなんであろう。私は諸君の思想的信念が、ここまで到りうることを切に願う。そうなればもはや私たちは見掛け上の思想混乱に対して何一つ恐れることはないのである。繰返しいうが、思想は豊富であればあるほどよいし、多様的であればあるほどよい。正しい良心と、寛容な思索との帰結であるかぎり、思想の多様性は決して混乱ではないのである。  戦争の最後の年の春、艦載機によるはじめての大挙空襲があり、硫黄島の戦況が熾烈を極める頃だった。たまたま私は「東京新聞」から感想文を求められて、「サイパン失陥以来、あえていうが私は最大の悲観論者である」と書いた。「最悪の場合も予想されなければならない」とも書いた。(これはもちろんいわゆる奴隷の言葉である。だが、その頃としてはわれわれ情ないが、公共言論の上では奴隷の言葉しか許されなかったのだ。)その文末に、私は自分の自戒の信条として次の三カ条を書き添えた。曰く、「絶望するなかれ、頽廃するなかれ、神に祈るなかれ」と。(余談をいえば、その頃はこの「神に祈るなかれ」さえ、記者某君の親切な配慮で「神を頼むなかれ」と書きかえられた時代なのである。感慨無量というより外はない。)  私はこの自戒が、予想しないでもなかったが、今後においてこそいよいよその必要の痛感されることを、自慢ではないが考えざるをえない。敗戦国の前途洋々たりなどと議政壇上から公言した東久邇宮総理の言葉は、あれは自己欺瞞でなければ、最も悪い政治的出鱈目である。不幸にして客観的諸条件は、現在われわれ日本人が自ら助けるのでなければ、東洋のバルカンに転落するだけであることを明白に教えている。「このままでいけば日本は半植民地になる」と、帰国第一に喝破した野坂参三の言葉の方が、はるかに現実を正確に把握しているのだ。その時になって、アメリカ人や中国人が助けてくれるなどと思ったら大間違いである。理想的な世界国家が今すぐにも出来上る、そんな考えも早計だ。結局日本を助けるのは日本人である。 「絶望するなかれ」「神に祈るなかれ」の二つについては今さら言う必要もあるまい。ただ第三の「頽廃するなかれ」については、多少私見を述べさせてもらいたい。敗戦国の虚脱状態は諸君らも見るように、情けない極みである。国民的プライドの喪失、道義性のモラトリウム、奴隷根性の暴露、社会的公共心の消失、何一つ情けない極みでないものはない。だが、私の言いたいことは、この風景を諸君は実際以上に過大視してはならないということである。傷心するのはよい、痛嘆するのもよい、しかし諸君自身までが諸君を囲むこの雰囲気に感染して、あまりにも神経質になり、延いては自らも頽廃的気分に蝕まれるごときいわれはないのである。言葉をかえていえば、この種の敗戦国風景はすでに終戦の瞬間において予想されたものであり、史上すべての敗戦国の実例がそれを証明しているのである。日本人だけが例外だなどと考えること自体がすでに間違いなのである。いわばこれらは十分予想された光景であり、決して意外の頽廃ではない。従って予想された頽廃だとすれば、われわれはただそれを予想されたものとして観ずればよいのだ。その心の余裕こそ将来運命打開の鍵を握るものでなければならぬ。  日本再建といい、日本救国という。だが、この苦難を通じての希望の途を、頽廃することなしに克服し抜くこと、これを七千万同胞のことごとくに期待するのは、あえていうが、注文する方が無理である。むろんそれが理想であることに疑いはない。しかしそれは人間というものの限界を考えれば、希望的思惟であり、自己欺瞞である。われわれに要求されているのは、美名ではない、ただ冷徹に現実に直面して格闘することである。今後当然予想されるのは、ますます深まり行く頽廃の世相であろう。その時にあたって諸君に切望したいのは、自分だけはこの頽廃に耐え抜くという、少数でよいから、決然たる同志的日本人である、たとえ日本人七千万がことごとく頽廃しても、なお己れ一人これを支えんとするの気魄である。人に多くを注文するな。まず己れ一人をもってはじめよ。結局日本を救いうるものは、こうした一人一人の決意と行動とが、そこに機縁をもって同志的に統合されるその時であると私は確信する。私は別に日本人の例外的優秀さをも信じない代りに、例外的低劣さをも信じない。おそらくかかる頽廃することを知らない青年が、少数ではあるが存在するはずと思う。この貴重な少数者の結合が日本を救うのである。  あるいは今後の頽廃的世相は、日本人の国民性をすら低劣に一変するのかもしれない。しかしあえて断言するが、七千万同胞すべてが救国者になることは、もとより望ましいことであっても、とうてい現実に期待できることではない。期待されるべき力は中核たるべき少数者の決意である。たとえ千万人が頽廃するとも、われ一人行かんの決意を、他人をまたず、自分自身の問題として取上げてもらいたいのである。  最後に一つ。  わが太平洋戦争の敗因は、数えあげればそれは幾つもあろう。軍閥、官僚の独善自惚、経済統制の失敗、資源の貧困、科学の幼稚さ、その他数えてくれば限りがない。原因にいまさら高低をつけるわけではないが、しかし大きな原因の一つは日本人の個人、殊に社会人としての個人があまりにも弱かったことであろう。しかもこの原因は直接敗戦の原因というよりも、むしろその前にあの戦争を導いた過程の中に大きく働いているといってもよい。軍閥が戦争を起こした。俺たちは欺されたという。だが、欺されることは決して自慢ではないのである。もし国民の一人一人がもっと強力で、もっと完成していたならば、いくら軍閥や官僚が戦争に導こうとしても、それは不可能であったはずである。  この教訓は決して過去への繰り言ではない。将来への忘れてならない教訓なのである。民主主義というものは、自分たち自身の努力なしに、誰か人でもがしてくれるように楽々とできるものだと思ったら大間違いである。憲法草案も発表された。問題の人民主権という問題までが一応解決を見た。しかしながら人民主権の憲法ができたからといって、それで再び独裁勢力の惧れがなくなったなどと思えば見当ちがいもはなはだしい。かつてフランス第二共和国の人民憲法も、いつのまにか僭主ナポレオン三世皇帝を祭り上げたし、前大戦後ドイツのワイマール憲法もまた立派に主権在民だった。しかもヒトラーを担ぎ上げたのは誰か。ドイツ国民自身だったのである。  天皇制廃止論者は、将来それが独裁勢力に再び利用される危険をしきりに強調した。なるほど、危険はあるかもしれぬ。しかし危険は天皇制の有無にかかわらず存在することを歴史の事実が証明しているのだ。だから独裁制の危険だけを云々して天皇制廃止の論拠にするのも滑稽ならば、人民主権になったからといって、もはや危険なしと安心するのも笑止である。国民さえしっかりして誤らなければ、旧憲法であろうと軍閥の独裁くらいは結構防げたはずである。従って問題は国民自身にある。少数党閥の独善独裁に国を誤らせたのは、一にも二にも国民自身に責任がある。この苦い経験にかんがみても、私はもはや日本再建は個人の向上、個人の完成以外に手はないと信じている。  私は天皇制支持者であり、ロイヤリストである。だが、私の信ずる天皇支持は、もはや今後は(この点私自身もいままでひどく未熟だったが、この戦争の体験ではっきり決意したのである)、大詔があったからとてわけもわからず戦争し、大詔出でた故に[#「故に」に傍点]戦争をよすというのではない。国民のことは国民だけで立派に処理する。国民自身のことで天皇に御迷惑などは一切かけないという、そうした自主、自治のできる国民に成長するという前提での支持である。天皇帰一もある意味では美しい。しかしあれでは結局日本国民は永久に大人になれぬ。大人になれない国民ほど脆弱な、哀れむべき国民はない。この大きなマイナスに対して、天皇帰一という感情的美しさのプラスなどはあまりにも微小なのだ。  今後の世界的国際場裡において、もはや各人が中世的な小児的市民であるような国民が、政治的にも、経済的にも、文化的にも、どうして列国に伍して行くことができようか。民主主義化とは各個人が大人になることである。大人になるか、子供になるか、いわば現在はわれわれ日本人に与えられた最後のチャンスである。もしこれに失敗すれば、率直にいうが、もう日本国民もおしまいである。  若い人々に期待する所以である。 [#改ページ]   八・一五以後の知識人——一九四七・三    1  過去一年、もっと精確にいえば、敗戦以来ここ一年半のわが知識人の行動の跡を回想反省せよというのだが、実はそれにはまずいったい知識人とは何かという、この至極曖昧な概念の決定からはじめるのが当然なのであろうが、そこは編輯者の方でも、それほど開き直ったことを考えているわけではなかろうし、私自身もまた、よい意味にも悪い意味にも、ひどく常識人の方なので、ここは私自身および読者諸君それぞれの頭にある知識人の観念を土台にして読んでもらえばよろしい。むろんその間に誤差、場合によってはずいぶん小さからぬ誤差のあることは承知しているが、それは一切、乱暴な話だが、無視して話を進めてゆくことにする。しかもそれは個々の現象としてよりも、私自身の一年間の印象に強く残る動向、態度を中心として、回想してみたいと思う。  さて、敗戦によって、なんといっても知識人たちが水に返ったような生々しさを与えられたのは、言論の自由ということである。それこそ久方ぶりで、殊に若い人々などにいたっては、全くはじめて、言論の自由ということの有難さを今ほどしみじみ感じていることはあるまい。(注—昭和二十一年)もちろん今の日本人の言論自由には、敗戦という厳たる事実からくる、ある程度の限界はあるといってよい。少くとも意欲的には精神の自由を一切の価値の上におきたい知識人として、これも一種の苦痛にはちがいないが、結局は日本人自身が過去四半世紀間あまりにも自己の精神の自由を軽んじたこと、空しくそれを強権の前に売渡したり、奴隷的卑屈に甘んじたことへの応報である。  そういえば敗戦直後、「配給された自由」というようないやな言葉が出た。事実、当時も批判があったように、いやな言葉ではあるが、とにかくわれわれが闘い取った自由でないことは真実だけに、残念ながらこうした表現の生れる弱味があった。だが、いくら与えられたという弱味はあったにせよ、われわれ自身がこれを「配給された」という風に冷嘲的に断じてしまうのはどうかと思える。直接動因は残念ながら「与えられた」形であるにせよ、与えられた以上はやはり他人事ではない。「自分のもの」である。これをいかに生かすかが日本人、ことに知識人の課題であろう。もっとも、戦後一年間やはり「与えられた」という弱点はいかんとも否定し難いものがあった。自由は甲の主人を乙に変えるということではないはずだ。右への奴隷が左への奴隷になることではないはずだ。もともと知識人の特権などというものがあるはずもないが、それにしてもこの自由を、いかに真の自由たらしめるかについては、今後知識人の行動に大きな責任がかけられていると見なければならぬ。    2  言論の自由が齎らした結果として、当然(妙な表現だが)知識人の分化ということが日を追うて起こった。  戦争中、これはやむをえないとはいえ、滑稽であったのは、軍部の戦争遂行に対して多少でも不満を抱いているものは、すべて自由主義者というレッテルの下に、敵味方いずれからも一括されていたことであった。それが戦争終結、自由の恢復とともに、その一括されていた自由主義者が、実はそれぞれ無限のグレードの変化をもった、それこそめいめい個性的立場をまもる知識人であったことを、あたかも洗い出し写真のように、日を追うて露呈したのも、当然とはいえきわめて興味深い。昨日の自由思想家のホープが今日は反動の親玉に変化している。殊に本人の思想そのものが変化しているのでは毫もなく、世間、特に知識人同士が投げつけ合うレッテルが変っただけなのだから、なおさら興味が強い。  硬骨的な自由、進歩思想家という社会的鳴物入りで登場した安倍前文相、田中現文相も、なんぞ知らん、テコでも動かぬ頑固な「保守主義者」であることが判明した。これはまた迫害された歴史家津田左右吉博士が、はっきり天皇制支持を表明したときは、ずいぶんと勝手が違って面食った向きも方々にあったらしい。あのそれこそ骨髄からの自由主義者だと私など今も信じている馬場恒吾氏などに至っては、まるで反対陣営からは保守反動呼ばわりの袋叩きになった。  さらに最近は、戦後も逸早く最も徹底した天皇制否定を表明していた高野岩三郎博士までが、会長という肩書きのおかげで、あわれやはり「反動家」ということになったようである。そうかと思えば、私などの短見で、私同様戦争の有力な協力者かと考えていた末弘厳太郎氏などは、どうしてどうして急進的な無産勤労階級のチャンピオンであったことが、今にしてわかった。迂闊な話である。  知識人の分化は当然である。変態的社会が生んだものとはいえ、かいなでに知識人の一括上程などはあるべき道理がないからである。知識人の途は、進歩的と迎えられ、保守的と貶される、さような世間のレッテルによって影響さるべきものではない。各人は各人の良心に従ってその信ずるところを堅持する、そのことが結局最も確実な社会の進歩を保証するものであろうと思う。極左的な急進思想家から、健全な保守主義者に至るまで、思想の多様性はあればあるほど、その社会は健全な基盤に立つものであると信じる。百人が百人、それはわれにもあらぬにわか革命思想家まで交えての急進一色の社会よりは、私はむしろ「十八年その節を屈しなかった」ごとき徹底急進主義者の二十人、他方には頑固な保守的自由思想家の同じく二十人を両翼として、その間おのずからスペクトル的変化をもって構成されたような社会の方が、はるかに健康、かつまたホープフルな社会であると信じて疑わない。  私もまたある急進的批評家によって「やがてファッショ再擡頭期における後見人をつとめるつもりであろう」と極めつけられた反動人の一人としていえば、近来の言論機関、実践行動に見受ける激しい尖鋭な思想闘争を見ていると、これだけ熱烈に自由を愛する知識人が、これだけ多数にいたくらいなら、どうしてあの昭和六年以来のわれわれの大過誤が犯されたのであろうか、ただただ不思議というしかいいようがない。それで思うのは、明治初期のあの激烈な自由民権熱である。当時の文献を今日読んでみると、少くとも現象的にはあの全国に沸騰した民権熱が、二十年代以後の反動勢力によりてもなく懐柔されおわったというのは、とうてい常識では考えられぬ。にもかかわらず、事実は厳としてプロシャ的憲法と官僚的国会とによって見事に手馴らされてしまったのである。大正昭和の自由主義、共産主義時代にしてもそうである。あの朝野を手こずらせた進歩的時代が、いかに機関銃による脅威があったにもせよ、どうしてかくも急激に軍部独裁へと完全に変貌しえたか、これも考えてみれば、他人事ならぬ不思議である。これらを思えば、現在の急進的傾向も、そのまま決して懐手では安心してはいられない。以上の不思議さが、果して日本人という国民性主体の中にあるのか、それとも日本という客観的条件の中にあるのか。今にして冷静、実証的に分析、批判して、今度こそは二度と再演しない予防手当を講じつづける必要があろう。  結局今にしてつくづく思うことは、動くにもせよ、動かぬにもせよ、成熟した良心的信念によって進退する知識人の頼もしさである。最後まで何人の前に出ても思想的責任をとることのできる知識人の強さである。例えば巷間の尖端ボーイどもは、戦後なお運用次第では旧憲法の正しさを確信をもって表明した美濃部博士などの態度を、こざかしくも博士の進歩性の限界は見えたなどと、したり顔に取沙汰した。しかし私は、あのファッショ擡頭のおそらく最初の犠牲者となり、身命の危険にさえさらされながら、なお少しも犬糞的感情には動かされず、不動の信念を持して動かなかった博士の態度を、戦後にしてはじめてつくづく奥床しく思った。これは動かないものの例である。  と同時に、動く信念としては故人河上博士のそれを、私などの恥じ入るほど立派な態度として強く心を打たれる。動くといえば、周知のように博士ほど遍歴を重ねた知識人はあるまい。にもかかわらず、誰ひとり博士をもって思想的便乗というものはいまい。なぜか。それは博士が、あのまだ嵐の中で書かれた経済学大綱の名序文や、その後も自伝その他の遺稿類で再三再四述べられている、思想的確信に到達するまでの博士のいわゆる怯懦なまでの鈍重さであろう。もとよりそれは単なる鈍重さではない。博士のおそさは結局、博士の行動が一応も二応も鴎外のいわゆる「物の両端を叩いてみなければおかない」精神的成熟の結果としての決断であるということにすぎぬ。かくして博士の行動は、常に博士としては良心的にやむにやまれぬ結論としての行動であった。だからこそ変貌とはいっても、誰ひとり変節というものはなかったはず。  動くと動かないとは必ずしも最後的問題ではない。単に到達しえた信念的態度の距離差だけをつかまえて、子供の遊戯のように反動保守呼ばわりをするのでは、少しも問題の解決にならぬ。知識人として真に信頼できるのは、実にかかる良心に基づく信念に一貫した知識人の一人でも多く社会に加わることでなければならぬ。私自身の行動などはもとより軽佻浮華、とうていこれら両先輩をあげつらう資格など毛頭ない。しかしあえていわせてもらうならば、動くと動かないとは、もしかしてそれぞれ個人にとって運命的なものであるかもしれぬ。ただわれわれ(あえて知識人とは僭称しないが)凡夫として、せめては日常念々にその及ばざらんことをおそれつつ努めたいと思うのは、実にこうした先輩知識人の行動軌跡であろう。    3  知識人行動の跡として、ここ一年間社会的に最も顕著だったのは、いわゆる「教授グループ」の引出し運動であった。「教授グループ」なる一つの新語彙を定着させただけでも意味は小さくない。経過はまだ耳新しいから略するが、再三にわたる吉田首相の教授グループ引出し運動をもって、世間はあるいは支持し、あるいは冷眼した。支持する側はしばらく措き、冷眼者側の理由は、要するに大学教授は結局机上の空論者である、この複雑した現実と取組んで、彼らに果して何ができようかという一点に尽きていたように思う。  だが、それならば私は反対である。ただ着眼の限りにおいては吉田首相の狙いはたしかに誤またなかったと私は信じている。(もっとも、吉田首相が果してそれだけの見透しの下に動いたかどうかは疑問であるが、それにしてもたとえ偶然でも狙いはやはりヒットである。)いったい社会機構が根本的変革を要求している激動期に、われわれが真実必要とするのはいわゆる実際家では決してなく、かえって非実際家、理論家なのである。実際家とは、ある根本的な前提が自明的に肯定されたその上で、現実の機関の操作運転に練達した人間の謂いである。ところが、肝心の前提そのものが問題になっている時に必要なのは、それはもはや運転手ではない、理論家である。物の動く根本の原理について一つの理論を有する非実際的理論家でなければならない。この真理は、実際的な西欧人は本能的に知っている非実際論であり、逆に非実際的な日本人にはどうしてもわからぬらしい実際論なのだ。  その意味で再言するが、吉田首相の狙いだけはたしかに珍しいヒットだった。だが、周知のように教授グループは再度動かなかった。おかげで彼らは「腐儒」にもなれば、高橋正雄教授などは動かざるの弁まで書かされていた。それでは彼らは動くべきであったのか。その点になれば、私もまたやはり動かなかった決定を肯定するよりほかにない。という意味は、そこにこそ吉田首相のヒットをあえて偶然のヒットと猜したい所以なのだが、彼らを真実立たしめるために、首相は果して少しでも四囲の荊茨を彼らのために開いたであろうか。泳げといって、足に重錘を結びつけていたきらいはなかったろうか。現段階における非実際家の必要という決定的な意義を、果して首相が考えてまでの行動であったかどうか、大いに疑問とする所以である。  もっとも、たとえ前途の成敗は二の次としても、現下祖国の悲境を見過ごすのは知識人の独善怯懦だとする声もあった。教授グループとしては最も痛い点であろう。だが、怯懦独善の問題は今問わぬとしても、成敗に関せず、いな、むしろ失敗は予測されても、という議論には多少異論がある。それにはかつて国際聯盟成立の当時に、すでにその無力を予見して、むしろ積極的に害ありとして反対したH・G・ウェルズの巧みな比喩を引用したい。曰く「戦争という狂った巨象を仕留めるのに、玩具のような銃を猟師に持たせることは放任する以上に悪い。猟師を殺すことは何より確実だからである」と。首相は教授という猟師に旧式の廃銃を与えて、狂象に向わせようとした形跡はなかったのか。猟師を失うだけならまだしもよい。猟師そのものへの不必要な不信をつくるがごときは断じて非である。  知識人の怯懦ということが出た。彼自身最大の知識人であったアナトール・フランスも、「知識の増加は行動力を減少する」といっているが、知識人の実践力不足は、今日のような状勢においては、たしかに再び評価低下を招くに至った。陽明学派の良知説や、まずなによりも行動することに喜びと意義を感じたレーニン型の知識人からみれば、鴎外のいわゆる「物の両端をたたいてみなければおかない」、そして「後腹のやめるような」行動はできるだけ避けようという、今一つの型の知識人に見られる行動の保留は、たしかに怯懦といわれても仕方がないかもしれぬ。人間、反省という言葉は決して自身を考えるほど正直なものではない。しかしそれかといって、一切を簡単に怯懦と割切ってしまうことも正直でない。これは自家告白的に真実をいうことは不可能である。たまたまこの一文を草していたら、雑誌「世界文化」十月号に、櫛田民蔵宛河上博士書簡が載っていて、そしてこの両者疎隔の消息に関しての大内兵衛氏の解説がある。三人三様、批判は読者の自由だが、問題を最も機微な形で提供している点においてきわめて興味深いから、やや長いが引用させてもらう。 「先生の自伝には、櫛田君の昭和六年ごろの共産党の運動に対する態度について、非常に辛辣な批判があると伝えられている。それによると、櫛田君はマルクス主義に対する裏切者となっている。私見ではその点は河上先生の誤解である。……ただ問題は櫛田君が積極的に如何なる政治の分流にも関係しなかった、共産党にも関係しなかったと同様に、労農にもそのほか如何なるセクトにも関係しなかったということにある。河上先生が櫛田君を誤解した原因も亦、櫛田君のこの態度にかかるが如く、先生によればああいうストルム・ウント・ドラングの時代に、だまって書斎にいることがマルクシストとしてけしからぬのであった。理論的にも感情的にも許せないことであった。……というのは、この理論の感情とは先生最後の飛躍の飛び込み台であったからだ。例えば先生の自伝を見よ。そこには先生が如何にして街頭に出たかを詳細に伝えている。先生はレーニンの如く、『革命の諸経験について書くよりも、これに参加する方がより愉快であり、より有益である』と感じ、且つ考えたと書いている。即ちこの正しい考えに従わねば人道に反すると考えたのである。」  あとはそれに対する大内博士の評である。 「ただ先生にとっては、この革命運動に『参加すること』が、それについて書くよりも『より愉快』であったかどうか、運動自体、獄生活、その後の生活の凡てに、レーニンが一九一七年から死に至るまでの間にもったような本当の『愉快』を感じられたかどうか、私には少しく疑がある。もっと率直にいうことを許されるならば、先生はやはりあのとき計画されていた『資本論』の翻訳をつづけられ、京都で先生の愛していた四畳半の書斎で革命について書いていられても、換言せば、もっと利己的な『愉快』をむさぼられても、必ずしもマルクス主義的でなかったとはいえないのでないか。何となれば、それも亦偉大なことをマルクス主義のために残す途であったに相違ないからである。私は、その方がよかったとここで断言するのでは、決してないが、ああいう場合には、先生の考え方は、いつも非常に直線的であった事は事実だというのである。」  これは単に河上、櫛田、大内という三人の特定の知識人の問題ではない、すべての知識人の一番大きな問題が典型的な型で含まれている。だから抽象的な議論のかわりに引用させてもらったのである。    4  最後に今一つ、ここ一年間の知識人の動きに見られた新しい特徴は、地方文化と知識人との問題である。  かつて日華事変がようやく膠着状態に陥り、国民党政府の重慶移転と前後して、各地の文化機関も一斉に奥地後退をしていた時期である。名は忘れたが、一人の中国文化人が次のような意味のことをある英語雑誌に書いていたのを、印象深く今でもはっきり憶えている。すなわち、事変の災は中国本土の大部分を軍靴の下においた。しかし事変の齎らした思いがけない幸いの一つは、従来少数大都市にしか発達していなかった中国近代文化を、一挙に僻陬の地にまで持ちこんでくれたというのである。  そういえば終戦後帰国した鹿地亘も、たしかどこかで同じ意味の短文を書いていたと思うが、もしこれが事変の中国に齎らした幸いであるならば、われわれにとってもまた敗戦のせめての一つの幸いは、同様にわが近代文化にとっても、地方分散の少くとも条件だけはできたということではなかろうか。最初は自発的に、次には戦災による余儀なさから、知識人の地方分散はかなり行われた。もっとも、わが知識人の常で、少しも地方そのものと接触することはしなかったり、終戦後には早々と大都会復帰をした向きもあるが、それにしても大都会の復旧は幸か不幸か想像以上におそく、従って当分なお知識人の地方在住はつづくものとみてよい、そこに当然知識人と地方文化の問題が新しく起こっている。  明治以来、日本文化が極端な大都市中心、さらにもっと悪いことには、異常肥満の首都中心になったことは、最も好ましからぬ現象であった。その意味でアメリカ、ドイツなどの文化の地方分権的特色には、大いに学ぶべきものがあるはずだ。もっとも、わが国も明治以前は決してそうでなかった。藩学、私黌を中心として立派に地方分権が行われていた。それが明治以後急激に首都中心に悪化したのである。  そこで起こったのが、大都市対地方都市、都市対農村間における驚くべき文化的落差である。かかる落差は決して健全な文化現象ではない。少し誇張していうならば、かかる落差を放置しておいたことが、結局ファッショ擡頭に強力な地盤を与え、一方知識人を社会から完全に遊離した無力的存在と化せしめたともいえよう。戦後幸いにこの種の文化的落差に対する措置は、各地方相応じてにわかに起こった。各地のいわゆる「大学」講座、講習会、相互啓蒙機関の設立など、すべてその現われである。そしてそのために地方在住知識人、あるいは中央知識人との交流などが急がしいことである。批判はともあれ、この種の措置は今後においてこそいよいよ着実に、地道につづけられ、地方的特色はもとより尊重しながらも、好ましからぬ文化的落差はできるだけ縮小すべきなのが当然であるが、それには既往一年間の跡を顧みて、双方にそれぞれ批判反省の余地が少くないと思う。  こんな実例をきいた。若い一人のインテリが戦争中の疎開をそのままに、さる農村へ住みつく決心をした。そして戦争がすむと、彼は非常な希望をもって農村青年の文化啓蒙にのりだした。自宅に青年たちを集めて共に学び、自家の蔵書を提供して読書指導にもあたった。最初は青年たちも非常な興味をもって集まった。だが、その後の経過は、やがて一人減り、二人減り、ついにはほとんど中絶の状態に陥ったという。インテリと青年たちとは、同じ日本人でありながら、まるで別な二つの日本語を話していたのである。インテリが悪いのか、青年たちが悪いのか、むろんいずれが悪いのでもない。これが日本文化の悲しむべき縮図だったのである。  一方では西欧の超近代的思想の尖端をさえ、軽々とその舌の上で転々しうる知識人のある集団がいる。他方にはかりにも教養といえば、浪花節と講談本と流行歌謡とを一歩も出ない大衆がいる。裾野と山頂だけがあって、中腹が全くないという、ありえない事実がこの国では事実ありえたのである。そのことがやがてあの大正期中心の文化的蜃気楼、一応日本に近代文化の開花期を形成しながら、それは国民大衆の、いな、知識人自身の生活とすら、ほとんど無関係な文化的群落、あるいは文化的遊離層をつくりあげていた。かかる知識人が無力であったのは当然である。  ある評論家が地方での一経験について感想を書いた。ある種の地方では、どんな思想でも一応あの西田末流哲学の用語スタイルに置きかえてみなければ、思想という気がしないらしい。従ってわかったことを言っては馬鹿にする、わからなくともよいから難しい言回しをさえすれば感心するというのである。私もあながちこの感想が誤りでない事実を多少知っている。これも日本における思想、知識のあり方の大きな誤謬の一つであろうと思う。  アメリカのプラグマティズム哲学などを読むと、思想としての批評はとにかく、それがアメリカ人——なにも思想家でもなんでもない、一般国民の生活の思想と実に親近であることをしみじみ感じる。アメリカ人の生活思惟が哲学の形をとれば、当然プラグマティズムになるといった感じである。プラグマティズムはなにもジェイムズといい、デューイという特定のアメリカ人の思惟方法ではない。アメリカ人の生活の思想をプラグマティズムは最も端的に定着し、逆に彼らの生活自体が最もよいプラグマティズムの解説書でもある。専門家ではないが、私の読んだ範囲では、そうした意味においてこの思惟方法は最もよく納得できるように思う。  ところが、最も東洋的といわれる西田哲学が日本人の間にある位置は決してそうでないと思う。もっとも、私自身は西田哲学をよく知らぬし、読んでも解らなくてよしてしまう方だから、大きなことはいえぬが、少くともそれが西田博士という鮮かな個性の哲学であることはいえようと思う。西田博士の[#「西田博士の」に傍点]哲学である。日本人の生活思惟は、それとはほとんど関係ない動き方で動いている。西田哲学の言葉で語るときは、明らかになにか一つ改まるのだ。これは西田哲学そのものに対する批判ではないが、西田哲学と国民そのものの思想生活との関係について、私のこの感想はそう誤ってはいないと思う。  西田哲学のことに触れたのはたまたまの一例であり、私の言いたいのはこれによって象徴されるような、知識人の国民の中における位置である。知識が何か一つ改まったものであるかのごとく取扱われ、また知識人自身半ば無意識にそう感じているのではないかと思える、そのあり方の問題である。  いわゆる文化啓蒙運動における知識人の役割は、今後も依然大きいであろう。またそうあってよいのであり、地方在住の知識人たちのその各地方文化への献身は最も望ましく、また中央知識人の来往も今後ますます頻繁であるかもしれぬ。しかし今後最も要求されるのは、いかにしてこの中間地帯に文化を培うかということである。いかにして知識と生活との中間を埋めるかという問題であろう。徒らに中央講師の懐を講演料でこやしているだけでは能はない。以上、私の回顧反省がきわめて中間的であることは、自分でもわかっているが、それも私自身が中間的な人間であるからには致し方ない。 [#改ページ]   ジャーナリズム——一九五〇・八  以下は僕の友人Aが、過日はからずも某所で盗聴した、まことに長々しい電話の要点速記である。たまたま「展望」誌の編集者が来訪して、敗戦後五年間におけるわがジャーナリズムの動向を回顧せよとの注文であった。もとよりそのような仕事は僕の任でないからと、固辞して勘弁を願ったのだが、その時ふと思い出したのが、ちょうど手許にあった上述の速記一文である。いささか編集者君の需めるところに応えるような内容でもあるので、失礼ながら断りなしに手渡すことにした。処置についてはあくまで僕の責任であるが、内容そのものについては、必ずしも僕は全幅の賛成を表するわけでないことを断わっておく。  ああ、××です、そうです。……なに? それは難しい問題だよ、難問だよ。どだい五分や十分で話しきれる問題じゃない。第一、良心的に答えようとすればだね、せめて主な資料くらいはもう一度目を通して、一々具体的事実についてだね、実証的に検討するのでなければ意味がないよ。批判される側だって承服するはずがないじゃないか。……なに、なに、冗談じゃない。真平御免蒙るね、そんな時間もなければ、興味もないよ。……おっと待った、なに、君の首が危くなる。乱暴だね、脅迫だね、まるで。……ああ、なるほど。ああ、ああ、チェッ、仕方のない奴だな。……そう、そう、その通り。回顧といったって、見る角度はいくらでもあるよ、だからね、……ええ? なに、それでいい?……じゃね、そういう問題は一切省略してと。まあ、いわば戦後五年間の社会的動向と、それに対してジャーナリズムが果してきた役割とでもいうか、またそれからして今後近い将来にわたりどんな役割を演じそうだか、そういった趣旨だけの答でいいんだね。……それも今ここに資料などなんにもないんだよ。だから、ただ僕自身の印象に強く残っている傾向だけについて、……うん、そう。自他ともに迷惑だよ、実際……  ところで、さて、なにから話すかな。……まず無条件降服、ついで占領軍の進駐、それからまもなく一切言論、結社の制限が撤廃された時ね、あの時のジャーナリズムの自由さ、豁達さ、そして僕らとしても、市民的良心がそれに対して責任をもつ限り、なにを言ってもよいとなった時のあの大空が開けたような気持——あれはもうここ相当長い当分、二度と味わえそうにない最良の一時期だったと思うね。むろん無条件降服下という重大な制限はあったさ。しかしある面では、たしかに日本人が自由の有難さを味わった唯一の時期だったんじゃないかな。その証拠には、悪い時代、悪い社会にはつきもののデマというのが、ほとんど影を潜めてしまったからね。つまり、デマの必要がなくなったんだよ、思えば、はかない一時だった、ねえ、君。  だが、実はそこに問題があったんだと思うな。つまり、その自由はね、僕ら自身が生命と血とを賭けて獲たものじゃなかった。早くいえば、イヤな言葉だが、与えられた自由だった。しかもさらにいけないことにはね、日本人自身がこの与えられたという事実を身をもって切実に感じなかった、ただ、ウカウカと「月光の中に踊っていた」ような感じだったな。  たとえばだね、たしか敗戦の年の十月だった。占領軍当局の命令によって例の治安維持法というやつが廃止になった。これは今考えてみても、いくら重大視しても重大視しすぎることのないほど画期的変化だったと思うんだ。多少誇張していえば、昭和の暗黒時代の根拠は、基本的人権否定のこの法一つによって立っていたといってもいいくらいだもんね。ところが、これはS君の話なんだが、S君は最近必要もあって当時の新聞を調べてみたそうだ。ところが実に驚いたことに、この劃期的事件の意義について、ほとんどどの新聞もロクに取り上げもしてないそうだね。僕自身は調べたわけじゃないが、ありそうなことなんだな。いう意味は、つまり、僕ら自身生命を賭けて獲た自由じゃないということなんだろうね。  それからもう一つは、なにもこの世界ばかりじゃないが、いわゆる戦犯追放騒ぎだね。はっきり人民裁判めいたものまでやったのは、ジャーナリズムの世界くらいなもんじゃないのかね。戦犯追放そのものは結構だよ、君。だが、他人の埃りは鼓を鳴らして糾弾しながら、己れの眼の梁《はり》は見ないというあのやり方だよ、あれもやはり日本ジャーナリズムのもつ軽薄さの遺憾ない現れじゃなかったかな。その結果は当然相手を反ゼイさせるだけで、反省キンシンさせるどころの沙汰ではなく、結局最近の反動勢力擡頭の大きな禍因をつくってしまった。たとえば硬骨の自由人で著名だったT氏などを、戦後感情的とさえ思えるほどコチコチの反共産主義者に追いこんでしまったなども、当時の飛び上り的進歩主義者たちが大いに責を負わなくちゃならんと思うね。とにかく獲られた自由に酔っぱらってはいたが、かんじんの自由の意義についてなど、ほとんど考えてもいなかったんだな。  そうした情勢の中で二十一年春の読売争議など、当時はあまり意識されなかったが、表面に現れた以上の転機を意味するものだったよね。もっと大きく社会的には、いうまでもなく二・一ゼネスト強行とその失敗が明らかに転機になった。その後はもうふりかえってみるのも情けない。まるで子供が稀《めずら》しい玩具をでも玩ぶかのように、与えられた自由を至極簡単に、安易に、玩ぶことによって、そうでなくてさえ市民に自由など与えたくない、いいかえれば占領軍の命令で仕方なく、しぶしぶ治安維持法を廃止したような一部階層に、次々とふたたび人権制限のための絶好の口実を提供しつづけてきただけだよ、むろんこれはジャーナリズムだけの問題じゃない。もっともっと大きな社会全体の動向の問題だがね。しかしむろんジャーナリズムの世界だって、この大きな動向からの例外じゃ決してない。たとえばここ一、二年、ふたたびデマの跳りだしたことはどうだね。明らかにジャーナリズムへの無言の不信だね。しかもそれらのデマを信じておいた方が、後で真実だとわかることが、いくらでもあるのだから、いよいよ情けない。  なに、もうわかった? ええ? いささか本題を逸脱したというの?……ああ、そう。それじゃね、僕はいうが、なるほどこの頃のジャーナリズム、ことに新聞の方などは、君のいう通り、まず一、二の新聞を除いて、コチコチの反共ラインと決ったような形だな。反共であるか、反共でないかは、それは個人の勝手、いや、新聞の勝手だよ、だが、ただ僕の言いたいのはね、同じ新聞がさ、あの終戦後一、二年間の左翼への媚態ぶりと、今日このごろの反共ぶりとの白々しさはどうだね、と言いたいんだよ。今僕は資料などここにひろげてるわけじゃない。だが、これは太鼓判押して断言してもいいと思うんだが、あの頃の新聞を今取り出して読んでみたまえ、きっと大した冷汗ものだと思うよ。たとえば帰国する野坂を故国の英雄に祭りあげたのは、いったい誰だね? それからあの二・一ゼネストを、GHQからの中止命令が出るまで、はっきり反対した新聞はまず一つとしてなかったはずだからね。  僕がジャーナリズムに期待したいのは、むしろあの頃は反動と呼ばれ、その代りに今左だの赤のシンパだのと攻撃されるような独立批判をもった自由なジャーナリズムだな。だが、今さらこんなことを彼等にいったところで仕方がないやね。それでも今のところ雑誌ジャーナリズムの方は、いくらかまだ批判と自由をまもっているようだが、それとても新聞ほどには現実の権力的動きと結びついていないというだけのことなんじゃなかろうかね。果していつまで頼りになるか? つまりだね、僕は思うに、ジャーナリズムというものは非常に、いや、実に驚くくらい現実的なものなんだな。空論や理想論で今日の近代ジャーナリズムは成り立つもんじゃない。目をつけるのはせいぜいが一日さき、二日さきならいい方じゃないのかな。ジャーナリズムは僕らをまもる——とんでもない、依然としてうっかりすると、僕らをいつ底なし沼に導くかしれぬ、怖ろしい狐火だと思えば間違いないんだよ。  それから最後に一つ、一番これは重要な問題だと思うんだがね。つまり、今後の日本社会におけるね、いわゆる世論形成に対するジャーナリズムの影響力ということなんだよ……一口でいえば、僕はまず絶望的だね。おそらくジャーナリズムは、今度もかつて日支事変から太平洋戦にかけて彼等が果して来た役割ね、あれをそのままくりかえすんじゃないかとね。これは複雑な社会が完全に分業化してしまった、ある意味では近代人の悲劇じゃないかと思うんだが。たとえば僕らには理性の判断が命令するもの以外には一切従わないという自負がある。これはね、むろん近代人として当然の自負だと思うんだが、ところが不幸なことにね、一方ではその理性の判断というのが、冷静に考えると、ますます信頼できんものにいやでもなりつつある。つまり、もはや僕らは複雑なこの近代社会の動きを、その全体的視野において正しく、自信をもって判断することはいよいよ困難になる、いや、正直にいって不可能にさえなりつつあるんじゃないかな。そこでもし強力な権力体が巧みにジャーナリズムを利用することに成功すればだよ、世論なんてものは、それら権力体の思うままに操作することだって決して困難じゃない。たとえばこの巨大複雑な近代社会の動きのだね、かりに一面的ニュースばかり——なにも必ずしも虚報だというんじゃないんだよ。ある意味じゃたしかに事[#「事」に傍点]実[#「実」に傍点]なんだもんね——そいつを実に根気よく作為的に大衆の中に流してゆく、そして他方都合の悪いニュース事実は全部抑えるとするね。いいかね、こうした目に見えぬニュース統制が一、二年間もつづいてみたまえ、世論なんてものはどんな風にでも形成されると思うんだな、僕は。せいぜい疑うことはできても、自信をもって否定するだけの事実は、一般市民としてとうていつかめるはずがない。点滴、石をも穿《うが》つっていうあのデンさ。しまいには巧みに作為された判断の方向に対し、僕らいかにも自主独立的判断ででもあるかのような正義的錯覚をさえもってだね、強力にこれを支持するような危険だって十分ある。たとえば今日二つの世界の冷い対立なんてのも、その底にははっきりこうした世論統制の見えぬ手が、大いに働いてるんじゃないかね。  失敬、失敬、これはとんだ脱線になったが、つまり、僕の言いたいのは、現代商業主義下のジャーナリズムじゃ、今いったような権力体からの触手が容易に進入しうる大きな弱点をね、その体質そのものの中に蔵してるんじゃないかね。個々のジャーナリスト、つまり、記者諸君だが、その考え方がどうだなんてことはほとんど問題じゃない。個々の記者諸君と会って話する場合の意見と、その新聞紙そのものの性格方針とは、全然これは別問題なんだよ。こうした実例にぶっつかることは、ちっとも珍しくない。資本主義的機構内じゃ、最高幹部のごく少数者をさえ確実につかんどけば、あとは万事OKなんだからね。しかも現実問題として商業ジャーナリズムの最高幹部がだよ、それぞれ当時の権力体ときわめて結びつき易いという道理は、君だってすぐわかるだろ。今さらいうまでもないやねえ。  どうだ、いいだろう、これくらいで。予言ですかって? とんでもない。僕自身どれだけ当らざるを望んでるかしれん、悲しい妄想だよ。……なに、使える? 有難迷惑だね、まったく。 [#改ページ]   文学者の政治的発言——一九五一・一  吉川幸次郎兄——  兄の「非署名者の所感」を拝読しました。そしてこうした声明書の署名一つにも、いつに変らぬ兄の良心的な態度に接し、改めて心を打たれるものがありました。ただ不幸にして(?)ぼくは署名者の一人であります。しかも、もし兄のいわれる専門の知識の有無をもって、署名非署名の決定条件とするならば、ぼくもまた兄同様、現実の政治とはおよそ遠い領域を専門分野とするものであります。してみると、これまた、もしも兄の態度をもって、きわめて良心的であるとするならば、情ないことに、ぼくのそれはきわめて非良心的なものという結論になる惧れもなしとしません。だが、それでは、ぼくといえども、どうも黙っているわけにもいかぬ、まことに困った仕儀に立ち到るのであります。そこで一言、「所感」の所感とでもいったものを述べさせていただくわけですが、それ以外には、何の他意もないことは、年来——高等学校以来の友情に免じ深く御諒察をいただきたいと思います。  吉川幸次郎兄——  いうまでもありませんが、ぼくは兄が署名を拒まれた事実について、とやかく申す意志は毛頭ありません。つまり、ぼくたちのあの会は、最初からどんな意味ででも個人の好まぬ思想的立場を、他人に押しつけることは決してしないという基本的前提の上に成り立ったものであり、したがって、たとえ署名に参加されなかった人たちとも、その後も引きつづき一緒に研究することができましたことは(残念ながら、すべての人とではありませんでしたが)、ぼくたちの会のむしろ誇りとさえ考えたいところです。そんなわけで、繰返しいうようですが、兄が署名を拒まれた事実について、とやかく申すつもりは毛頭ありません。が、ただぼくにこの筆を執らせたものは、兄が署名拒否の理由としてあげられた二つの理由——「現実の政治の方向について直接な提議をすることは、この会の任務ではない、少なくとも会員全部の任務ではない」という一節と、「私は、そうして現実の問題にふれた声明に、責任をもって署名をするだけの知識を、もっていないと考える」ということ、ことに後者の理由であります。  その他の部分については、ぼくはなにも申し上げることはありません。かつて戦争中、日本人が暴虐の限りをつくした連合国、ことにも近隣諸国の人々に対し、兄が切々として諒恕の訴えをされている件りなどは、心からの同感を禁じえません。敗戦ようやく五年にして、もしもぼくらに、かりにも兄の指摘されるような、反省を忘れた思い上りが、たとえ影にしても見えるようなことがあれば、これはお説の通り、まことに人間として恥ずべきことであります。またぼくらの声明文が、希望に切実なるあまり、時にその措辞などにおいて、「おしつけがましく聞こえる」惧れについてまで(お説の通り、ぼくたち深く惧れなければならない点だと思います)、ぼくたちのために諒恕を乞うていただいている兄の細かい心遣いにも、ぼくとしては深い感謝の心のほかはありません。だが、それにしても、なおぼくはこの場所をかりて一言——いや、まずお茶を一ぱいいただいて、それから書かせてもらいましょう。  吉川幸次郎兄——  兄はまず非専門家の慎しみについて強調されました。そして「現実の問題にふれた声明に、責任をもって署名をするだけの知識をもたない」といわれます。御尤もだと思います。だが、そうなると、政治の問題に対し発言したり、態度を明らかにすることは、専門の政治家か専門の政治研究家だけにかぎるということになるのでしょうか。  ちょうどそれで好い例を思い出しました。イギリスの詩人G・S・フレーザー氏が竹山道雄君の「ビルマの竪琴」の英訳本を書評した一節ですが(読書新聞、十一月一日号所載)、少し長くなるが引用させてもらいます。 「この本で私の心を捉えたものがいろいろあるが、その一つは、この本に書かれているような日本の軍隊生活の雰囲気と、私が自分の戦争体験で記憶している英国陸軍の生活の雰囲気との全く異った対照である。この本における兵士たちは、戦争が終って自分たちが捕虜になったことを知ると、全く驚駭してしまう。彼等は何故そうなったのか、その理由を知ろうとはせず、日本へ送還される時を待つ間、部隊の合唱や、彼等の中にある強く美しい戦友意識によって、意気を励まし合うのである。 「ところで、英国の軍隊にも勿論こういった戦友意識もあり、また部隊の合唱は意気を励ますものの一つであった。しかしもう一つ、こういう意気を励ますものとして、情報の論議ということがあった。私たちは新聞を見ては戦争の経過、政治上の会談、政治指揮者の演説などを始終熱心に読みとろうとした。これらのことを私たちの間で論議したのである。私たちは、故国における社会生活の中には、戦後改善しなければならないものが沢山あることを感じて、それを論議したり、また私たちの政治的指導者のある人々を、ざっくばらんに批判したものであった……。 「『ビルマの竪琴』の中の兵士たちに見られるような、批判的態度と知的な欲求心の欠如していることは、政治的危機の時にはきわめて危険であるということにもなろう。」  吉川幸次郎兄——  上の引用文の、もし「軍隊生活」という語と「兵士たち」という語とを、それぞれ「社会生活」といい、「国民、市民」という言葉に置きかえたならば、これはそのまま日本の社会生活全体の光景にあてはまるのではないでしょうか。これら英国軍隊の兵士たちのすべてが政治や軍事の専門的知識の持主だったとは、とうてい考えられません。彼等の大部分はただ普通の市民だったに相違ありません。しかしそれでも彼等は、実に活溌に現実の政治を論じ、軍事を批判していたらしいのです。ただ大切なことは、彼等のこうした興味は、なにも戦争中にはじまったものではないでしょう。むしろ平生、少年時代からの正しい政治的訓練が、彼等に政治に関する常識という基盤をつくりあげていたのに相違ありません。  幸次郎兄、ぼくたちにとって政治ということは、なにも専門家でなければわからない、論議できないといった種類の政治論ではなく、普通の市民になら誰にでもできるはずの政治常識というものではないのでしょうか。そしてこの市民の政治的常識が、単に抽象的理念ばかりでなく、現実の政治問題をも取り上げていけないとは、ぼくにはどうしても考えられません。「ガリヴァー旅行記」の中で、スウィフトは巨人国の王に、「政治というのは、百年間に何人しか出ないといった天才でなければできないというものではない。普通の理性を具えた人間なら、たいてい誰にでもできるものなのだ」という、味わい深い言葉を述べていますが、むろん軽率、無責任な署名は論外でしょうが、専門的知識がないからといって、政治をいわゆる専門家だけの「あなた任せ」にすることこそ、「政治的危機の時にはきわめて危険な」傾向なのではないでしょうか。  吉川幸次郎兄——  こんなことを申すと、なにかまるでぼく自身は、いかにも専門外知識を兼具しているようで恐縮なのですが、むろんお訊ねまでもなく、ぼくもまた「知識の不足」を日毎に痛感するものであります。だが、ぼくらは内外の新聞、雑誌、それも問題の両側に立つ、それぞれ報道機関からの情報をえることもできますし、幸いに専門家について疑義を正し、啓蒙を受けることもできます。そうした結果、非専門家ながらにある種の態度決定に到達することは、十分にできると思うのです。むろんその場合といえども、ぼくらの知識が完全なものであるとは決して自惚れません。しかし知識の完全さ、ましてそれからする見透しという点などについては、これは専門家といえども、決してある限度以上には誇りうるものでないことを、政治史の事実はいくらでも説明しているはずです。  具体的な問題になりますが、今度の声明書の問題にしても、ぼくは必ずしも懇談会の討議だけを鵜呑みにしたつもりはありません。いわゆる全面、単独の問題については、単独側からもすでに夥しい論議、解説は出ているわけですし、それらを読み、さらに質すべきは質した上で、なお極端に現実的[#「現実的」に傍点]な立場というなればともかく、少くとも現実論の上に、さらに人類文明の理想をも併せ考えるかぎり、ぼくとしてはあの署名に賛成せざるをえなかったのです。かといって、なにも兄の非署名を云々しているのでないことは、もう一度改めて申しますが、だからといって、同時に非専門人間のぼくの署名が「軽率な、無責任な」ものでないことだけは、これまた諒承願いたいと思います。  吉川幸次郎兄——  兄は、また、「人々の予想をこえて、あわただしく変転する国際的政治情勢」ということにも言及されました。いわれる通りです。それはぼくなど非専門人間の、とうてい見透しもなにも許さぬものがあることは、残念ながら事実です。しかし、だからといって、ぼくらは匙を投げ、すべてを専門家任せにしていいのでしょうか。兄もまた「今の日本として一ばん大切なことは、こうした情勢の中に処しつつ、あくまでも武器をとらない国として生きぬくことだ」といわれます。ところが、変転常ない情勢の中にあって、現実論はすでに兄のいわれる「今の日本として一ばん大切なこと」すら、惜し気もなく捨てよう、捨てさせようとしている気配は、兄といえども必ずや御承知のはずだと思います。それでもなおぼくらは、非専門家の謙虚さという美徳だけを守っていなければならぬのでしょうか。果して謙虚の美徳に、「一ばん大切なこと」の喪われる危機を押しとどめる力があるのでしょうか。  吉川幸次郎兄——  昨年頃から、アメリカ留学生の試験というのができました。ぼくの教えた学生たちの中からも夥しい受験者が出ますが、その彼等がぼくに人物推薦書の依頼に来ます。ところが、まことに奇妙なことは、まるで言い合せたように、特に政治的関心はないとか、政治的無色の立場だとかいった趣旨の記入を強く希望するのです。ぼくはいつも苦笑するのですが、いかに政治家志望でないとはいえ、二十五、三十にもなった大の男で、立派に参政権までもった市民が、なぜこう政治という言葉に怖気をふるうのか、不思議でなりません。日本の官庁、会社の就職試験なら知りませんが、おそらく欧米人にとって立派な市民権の保持者が、自ら政治的に無関心だなどということは、自分は馬鹿だということの告白ではありますまいか。おそらくこれは政治的関心イークォル赤だというような、この国特有の歪んだ風景の一コマだといってしまえば、それまでですが、この事実こそ、ふたたびいいますが、「政治的危機に際して、もっとも危険な傾向」なのではありますまいか。  幸次郎兄、率直にいいますならば、ぼくはむしろ兄に、自分は単独論だから、そして単独論こそ平和を守る方途だからといって拒否していただきたかったくらいです。非専門家の良心的謙虚さということが、往々当人の善意にもかかわらず、逆にきわめて危険な地盤になりうるということ、それが好むと好まぬにかかわらず、現代政治の現実だということを考えていただきたいのです。  最近吉田首相は、講和など国際問題についても、なかなか思い切った言葉をズケズケと発言しておられるようです。ぼくは非常に面白いことだと思って読んでいます。だが、ぼくの願うところは、そうした問題について、吉田首相だけが自由に物が言えるのでなく、日本人の誰もが良心的責任を負うものであるかぎり、自由に伸々と物の言える社会を心から念願するのです。ぼくらの懇談会が、最初「平和というものがいかに貴重であり、それを維持するには何が必要であるかを論議する」ために成立したものであることは、兄のいわれる通りです。なにも最初から現実の政治に触れることを企図したものでは決してありません。それが不幸にして、敢えて現実問題に触れなければならなくなったのも、全く兄のいわれる世界情勢の変化の故にすぎません。だが、そうした場合、ぼくには兄のいわれるように「平和を維持するには何が必要であるかという論議」と、「現実の政治の方向」との間に、果して截然とした区別の線が引きうるものかどうか、非常に疑問に思われるのです。  吉川幸次郎兄——  長くなりましたが、それから最後にもう一つ。兄は「さきの声明は、ある特殊な政治的主張とむすびついたものであるとする誤解が、生まれそうであった。それは究竟に於いて誤解であるにしても、私がその渦中にまきこまれることは、めいわく千万である」といわれます。この点も一応はわかります。ことにある種の誤解の行われたことは事実です。しかしここで次の一事だけは、どうか兄にも考えていただきたいのです。つまり、そうした誤解は自然に、無作為に発生したというよりも、ある意味では故意にそうした誤解を一般世間に植えつけようという、まことに手の込んだ動きさえ見られなくはなかったからであります。つまり、今日の日本の現状としては、相手方をなんでもとにかく兄のいわゆる「ある特殊な政治的主張と結びつける」ことが相手を不利に陥れる、もっとも簡単かつ有効な武器であるからです。そして事実それは昭和初期以来、自由主義的な考え方を撲滅しようという一部の意志が、すでに度々くりかえしてきた周知の方法でもあるからです。 「渦中にまきこまれる」といわれる兄のめいわくは御尤もです。だが、この声明書問題はさておくとして、一般的にいえば近い将来において、時にはあえて「渦中にまきこまれるめいわく」も進んで受けていただきたいのです、ことに兄のような人に。ぼく自身についていえば、今後ときにぼくの言動が、「ある特殊な政治的主張——おそらく共産党の意味でしょうが、——とむすびつくもの」と、世間から見られるのもやむなしという場合もありうると覚悟しています。特に好みもしませんが、そうした誤解は仕方のないことです。誤解を受けるという「小さな悪」を怖れるために、かんじんのcause, たとえば兄のいわれる「あくまでも武器をとらない国として生きぬく」理想を見失うという「より大きな悪」に陥りたくはないからです。共産党との結びつきを云々されるからといって、将来戦が予想させる最も悲惨な最初の体験をヒロシマ、ナガサキでなめたぼくら日本人として、とうてい平和の理想を捨てるわけにいきません。それは他日、あるいはぼくの言動の何かが、逆に自由党との結びつきにおいて誤解されようとも、ぼくはそれを毫も悔いないのと同様です。  吉川幸次郎兄——  妄語をつらねました。ぼくは決して兄を論敵としてこの一文を書いているわけでないことは、きっと諒承いただけると思います。むしろ逆にぼくは三十年前、兄とともに三年間を過したあの古都の学窓をなつかしみながら書いているのです。では、これで筆を擱きます。 [#1字下げ]追記——この一文についての由来を一言。当時私たちの間で平和問題談話会というのがあり、吉川君も私も会員であった。ところが、同会が講和問題に関する声明書を発表することになり、それに吉川君は署名を断わった。そこでこの応酬があったのであり、元来は両者同時に「世界」誌に載ったもの。いま吉川君のを載せぬのは公平を欠くかにも見えるが、別に論争がつづいたわけでなし、いささか片手落ちかのきらいは大目に見ていただきたい。 [#改ページ]   言葉の魔術——一九五一・五  言語への過信が近代人最大の迷妄の一つではないかと思う。人間の言葉というものが、そんなに完全なものとでも思ったら、とんでもないこれは大間違い。言語の買い被りくらい危険なものはない。言葉とはおよそ不完全な道具なのである。結局どちらに転んだにしたところで、大して変りないようなことを言い合っている間こそ、言葉も一応便利、重宝なものだが、一度ギリギリ一ぱいの重大な事柄でも伝えようということになると、いかに言葉というものが不完全で、むしろ誤解ばかり生み出すものであるか、身にしみてわかるはずである。  死んだ尾崎秀実が、弁護士に宛てた遺書の中に胸を打つ一節があった。 「こゝは誠に説明のむづかしいところです。結局冷暖自知してもらふより他はないと思ひます。私はこのごろ真実のことを云はうとすればする程、言葉といふものが如何に不完全なものかといふことを感じて来ました。評論や記事などを書く場合だけしか、言葉といふものは役に立たないものだと思ひました」  そうした言葉のむつかしさ、不完全さということを、平生いやというほど感じつくしているのは、やはりおそらく文学をやっている人間に止めをさすだろうと思うが、この尾崎の感慨に見ても、「評論や記事」などというものが、いかに好い加減なものであるかがわかると同時に、この遺書を書いた時点での彼のような立場に立たされた時にはじめて、言葉の不完全さが、かきむしられるような腹立たしさをもって痛感されたのであろう。  いってみれば言語とは、ひどく粗雑な出来合の計器類に似ている。たとえばぼくらが真実言いあらわしたいと思うことは三・一四一五であったり、三九・六四二八であったり、ひどい場合は永久に完結しないあの循環小数のような、ひどくデリケートなものであるのに、かんじんのそれを表出する言語と呼ばれる計器は、一、三、五、七といったような整数倍の重錘しかもたぬ、きわめて粗っぽい不出来の計器なのである。なにしろこうした粗雑な計器で、前述のようなデリケートな内容をあらわそうというのだから、いきおい猛烈な切捨て、切上げが行われるのはやむをえぬ。三・一四一五は、いきおいよく三に切捨てるし、三九・六四二八は、エイ、面倒なとばかり四〇に切上げるといった按排。結局ぼくらの日常使っている言語表現というのは、厳密にいえばすべて近似値にしかすぎぬのである。もどかしかったり、誤解が生れるのは、当然といわねばならぬ。  ところが面白いもので、この言葉の不完全さ、粗雑さということこそ、一面ではまた非常に大きな言語の効用として役立っているのである。いや、単に面白いだけなら特に取立てていうほどのこともないが、実はこの言葉の消極的性格が、ある特定の目的のために巧みに利用されると、これはきわめて危険な、ぼくらとして警戒の上にも警戒を必要とするような効果を発揮する。いわゆる言語の魔術とか、言葉の呪術的効果とかといった名前で呼ばれるものが、それである。  ところで、そうした言葉の呪術性が、もっとも大きな効果を発揮するのは、それが一定の標語化され、スローガン化された場合である。説明するまでもないが、標語とか、スローガンとかいうものは、できるだけ簡潔で、わかりよくて、しかもさらに大事なことは、決して厳密にその内容が規定されていない、いわば中身は必要に応じて何にでもすりかえうる紙袋のような概念表現をもって最上とするらしい。即ち、そうした標語なり、スローガンを、来る日も来る日も朝から晩まで、根気よく相手の意識の中に流しこんでいると、相手の心の中には、最初は影も形もなかったような心的状態でさえが、いつのまにか注文通りにでき上ってしまう。そこが悪質な、それだけにおそるべき、人間心理の研究者である煽動政治家などの巧みに利用するつけ目であり、それには言語の不完全さ、粗雑な計器であるということが、むしろ必須要件でさえあるのだ。なぜならば、スローガンとか標語とかいうものは、相手をして考えさせるのではなくて、思考の中断を起させる、いいかえれば、思い切った思考の切捨てや切上げを要求するものであるからである。スローガン、標語のもつ危険さについて、さすがにドイツの旧軍人フォン・ゼークトは実に鋭く指摘している。 「自己の頭脳をもって思考しえぬ人々にとっては、標語は必要欠くべからざるものである。たとえば同じく平和主義という名を冠しても、経験あり責任を自覚せる人士が当然抱くところの平和愛好の念から、いかなる犠牲を払うも平和を求めんとする卑屈な屈従に至るまで、この概念の包括するところは、すこぶる広範である。即ち、平和主義が明白な意志を欠くところの標語となるゆえんである。……標語はまことに命取りである。これに対する護符は、ただ一つ——即ち、『明らかに考えること』である」と。  いいかえれば、標語の狙いは思考を麻痺させ、中絶させるところの呪術なのである。果して厳密に三・一四一五であったか、三・一五一六であったかなどと、首をひねり出されては困るのだ。そこで大ざっぱに三だ、三だと、そこはわかりよい切捨てを、朝から晩まで耳元に放送してやっていると、ついいつのまにか当の相手も、いっそ面倒だ、三にしておけ、といった気持になってくれれば、それでもう大成功なのである。  それにつけても、ぼくらが苦い記憶をもって思い出すのは、かつて一九三一年頃から日夜ぼくらの意識の中に流しこまれた「非常時」というスローガンであり、さらには太平洋戦争の直前一、二年間にわたり、悪夢のように日本人の脳裡をおびやかした「A・B・C・D包囲陣」なる標語であった。今にして思えば、あの「非常時」という掛け声が、結局はその陰にかくれて、狂信的ミリタリストたちが彼ら自身の独裁を不抜のものたらしめるための、巧妙きわまるプロパガンダであったことは、あたかも世界中につねに戦争危機の空気をふりまいて歩くあの「死の商人」たちの陰謀と同断であったことなど、今では中学生でも知っている事実になってしまったかもしれぬが、あれでも当時はほぼ十年間にわたり、結構効果的なスローガンの役割を果したものである。同様に、「A・B・C・D包囲陣」にしてもである。いずれ力は相対的なものである以上、当時の世界状勢として、一種そうした厳しい対立関係が、日本の周囲に客観的に存在した事実は、今からでもなお認めざるをえぬとしても、しかし夫子自身の方の行動には一切目を閉じて、今にも日本全体が包囲陣の鉄輪《かなわ》の中にでも締め殺されそうな、そしてそれにはもはや戦争以外に処置なしといったような気分に、結構八千万日本人の大部分をならせたのも、元はといえば、やはりあの標語的表現の呪術的効果だったといえよう。  それにしても、「自己の頭脳をもって思考しない」この国の社会に、なんとその時々の標語的成句の氾濫することか。敗戦直後の二、三年間というものは、曰く文化、曰く民主主義、曰く自由、曰く保守反動、すべてことごとくが標語であった。標語さえ頻繁に口にしていれば、なにかそれで民主主義も、自由も、すべて達成されるものであるかのような感すらあった。ここ一、二年間の日本の民主化は、どうした風の吹き回しか、しきりにアメリカ人などからも賞賛されるようになったが、果して事実はどんなものか。かつて「赤」と「国賊」とは、軍部と軍部追随者がつくり上げた呪術であったが、「保守、反動」は、戦後共産党とその追随者たちが連呼した口拍子である。「国賊」にも、「保守反動」にも、ずいぶんと質的差別と段階はあるはずだが、そんなものは一切切捨て、切上げで、ひどく粗っぽく「国賊」、「保守反動」と十把一からげに片づけてしまうところが味噌なのである。一両年まえまで、ぼくなども五度、六度と保守反動呼ばわりをされると、そこは不思議なもので、ついわれながらほんとうに保守反動かなといった気持にもなる。労働運動などの宣伝文書類が、いかにそうした標語呪術の発想に満ち溢れていることか。その意味では、いわゆる世論などというものも相当眉唾もので、一つの新聞がものの半月も世論だ、世論だ、と喚き散らせば、ついそれが真の世論のように思いこんでしまい、それが今度は逆に世論をつくり上げてしまう危険だっていくらでもある。  標語にも流行がある。昨年あたりからは、だいぶ新顔の標語が登場して来た。ニューフェイスである。曰く、愛国心、曰く、自衛、曰く、再軍備、さらに最近には昔なつかしい「赤」まで復活してきた。(先日の広川弘禅の放言、「日共非合法化に反対する奴は、みんな赤でやっつければよい」を見よ。)左は共産党の愛国心から、右は吉田首相、天野文相の愛国心にいたるまで、およそこの驚くべき風袋的概念には、近頃はどうやら国民自身の方がトチメンボウ振っている有様だから省略するとして、「自衛」「再軍備」というこの現実的な問題すらが、はなはだしく標語的発想に堕してしまったことは、容易ならぬ呪術的危険を思わせる。  再軍備というおよそ具体的な問題ですらが、少しくこれを厳密に考えれば、限りない内容的段階(質的にも、指向においても)を含んだ概念であるはずである。いとも簡単に、日本は再軍備しなければならぬという。だが、一口に軍備といっても、いったいそれは、竹槍とはいかぬまでも、せいぜいが小銃、機関銃ぐらいの装備をもった民兵程度のそれをいうのか、それとも最極端は、原爆、水爆運搬の長距離爆撃機までの空軍を含めた陸海空三位一体の軍備を意味するのか、ましてその間にありうる無数の段階までを考えれば、これは大へんな概念の幅だが、口でいえばどれもすべて一口に再軍備である。まして再軍備ということが、さらに自衛という問題と結びついてくるとなると、これまた相手国のあることでもあり、複雑さ限りないはずだが、そんな面倒なことは一切棚上げにして、切捨て、切上げ、おそろしく粗っぽいのが、いうところの「自衛論」であり、「再軍備論」である。ぼくは必ずしも再軍備論者を、すべて反動とも、ファッショとも思わぬ。しかし不幸にしてそこまでの具体性をもった再軍備論を、ぼくはまだ読んだことがない。  この間もある雑誌で阿部真之助老と荒畑寒村とが対談をしていたが、その中でも阿部老の抗戦論が出る。あまり興味深いので引用するが、 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  阿部 無条件で手を挙げてしまうか、かなわぬまでも、蟷螂の斧をふり回すかという問題だ。ぼくらふり回したいのだ。  荒畑 ぼくらもふり回しますよ。  阿部 そのあとで参るのは、しようがないね。 [#ここで字下げ終わり]  とすると、再軍備論者阿部老をもってしても、蟷螂の斧であることは観念しておられるものと見える。それは当然であろう。今後どう国際情勢が変化したところで、日本にふたたび戦争前のような自主、自由な強力軍備の権利が許されようとは、いくら再軍備論の現実論者にしても、まさかに考えてはいなかろうからである。すると、この「蟷螂の斧」という、その具体的内容はいったい何なのであろうか。拳骨か、それとも竹槍を振り回すという意味なのか。それも奪われては、戦陣訓ではないが、噛みついてでもなお斃れて後やむという意気なのか。それとも、あるいは機関銃、軽戦車くらいまであれば、よろしいというのであろうか。  自衛はもちろん動物の本能である。おそらく危機に当って自らを衛《まも》らぬ生物はあるまい。だが、いやしくも近代戦争を頭においての自衛という問題は、もはや悲壮な気概や英雄感だけではすまぬはずである。ことに将来の世界戦争などを考えた場合、いかなる相手の軍隊に対して、いかなる方法で自らを衛るかという問題は、もっともっと冷静な非感情的思考を必要とするのではあるまいか。その意味で、阿部老の想像力などは、まだローマ対カルタゴ時代か、せいぜいが河野某斬込みの元寇時代の戦争を考えていられるのではあるまいか。  かつて戦争中であった。インパール作戦から九死一生、辛うじて負傷生還したぼくの教え子が、当時話してくれた言葉がある。——実際いやになりましたよ。敵兵の姿など終始一人として見ないんですからね。まるで人間が鋼鉄にぶつかっていってるみたいなもんですからね、と。その時ぼくも実は何気なしに聞いたのだが、その後ぼくも東京で、あのB二九の空襲を全部体験して、彼の言葉がはじめて生々とよみがえった。戦争ぐらい非人間的な、汚らしいものはないと、つくづく思った。英雄的なものなど微塵もない。幸か不幸か、原爆の経験はしらぬが、おそらくあの何千倍、何万倍の非人間さ、汚らしさだろうと思うと、春秋に義戦なし、おそらく戦争そのものは、将来その大義の正邪など問わず、ただ最も非人間的な人間の屠殺場と化し去るだけのことであろう。しかも将来戦の非人間さは、おそらく次の戦争中にまた新しく発明されるであろう、現在の原爆水爆の威力を数百倍、数千倍する新兵器の形で想像されなければならぬはずである。阿部老などは、遠く上州の田舎あたりに戦を避けて悠然としておられたから、今もって戦争を昔なつかしい日清、日露役に毛の生えた程度で想像され、武者絵のように海岸へ上陸してくる中ソ連合軍に斬り入って、蟷螂の斧を揮われる自己自身の姿に、英雄感的陶酔を感じていられるのかもしれぬが、こうした想像力の涸渇した再軍備論ほど危険千万なものはないのだ。  自衛という。最初から負けると決めている自衛もずいぶん妙なものだから、それならば、どれだけの軍備があれば安全感が保障されるというのであろうか。それには戦前日本が、あの大衆の生活を犠牲にした大軍備を擁しながら、なおかつ決して十分の安全感はえられなかったという事実を記憶しなければならぬ。(もっとも、これには日本みずからが好んで、安全感を危殆におとしいれるような行動に出たからだ、という議論も成り立とうが。)  言語の呪術性ということから、話はだいぶ脱線してしまったが、とにかくぼくの言いたいのは、「再軍備」といい、「自衛」というこの重大な問題が、冷厳に、具体的に、現実的構想に即して考えられることなしに、単に英雄感や悲壮癖だけに訴える、風袋にも似たスローガン化されるほど危険なものはない、ということである。現実が心理をつくるという風に人は考えやすいが、これははなはだしい迷妄であり、むしろ狡知巧妙な煽動政治家たちのやり口というのは、必ずまずこうした言語の呪術性を利用して、一定必要な心理状態をつくり上げ、それから逆に現実を作為的にでっち上げていくのである。ぼくはなにも彼らをヒトラーに比較するほどの失礼は申さぬが、最も悪意ある大衆心理の研究者だった彼が(「わが闘争」を見よ)、同時に最も巧妙なスローガンの利用者であったことを忘れてはなるまい。  ぼく自身は再軍備反対であり、「卑屈なる」平和主義者であるが、平和運動もまた厳にスローガン化を戒しめねばならぬ。スローガン化の危険は、平和主義の側にもまた大いにあるのである。いわゆる愛国心の如きも同様であろう。いわゆる愛国者は、まず今日の世界の中にあって、国家というものの意味、というよりも、国家というものの存在意味がいかに変化してきたか、またいかに変化しなければならぬか、ということを考えなければならぬはずだ。でなければ、愛国心もまた標語化する危険性が大いにある。  ぼくは現存する明治の日本人諸先輩に対し、その抱く見解の相違は別として、人間として非常に尊敬を抱いている。しかしそれら先輩に共通して、固執観念のように残念に思うことは、国家というものに関する考え方である。ことひとたび国家に関すると、反射的に、パトス的に、十九世紀における民族国家全盛時代、したがって、その延長としての明治時代の富国強兵時代の祖国愛の亡霊というのが、どうしようもなく顔を出してくることである。その意味でぼくは、ちょうど旧幕時代の藩観念が、やがて明治の民族国家観念によって止揚されたように、現代の民族国家というものもまた、もうあまり遠くない将来において、当然否定されなければならぬ、いや、好むと好まぬにかかわらず、否定されるに決っていると信じている非愛国者だが、それだけに愛国心というものの標語化が、その好ましからぬ呪術性を発揮することを、今から深く憂慮をもって警戒するのだ。 [#改ページ]   自由主義者の哄笑——平和の問題と私——一九五一・一二  実をいうと、「自由主義者の溜息」という課題をもってきたのだ。そういえば、いつかもこんなことがあった。ある講演を頼まれ、題は然るべくお任せすると言ったところが、でき上ってきたプログラムには、なんと「自由人の苦悶」ということになっていた。してみると、どうも自由主義者とか、自由人とか呼ばれる人間は、よほど「苦悶」したり、「溜息」ばかりついている人間に見えるものらしい。ぼく自身、むろん敗戦直後、ケロリとして「敗戦国家の前途洋々たり」などという手放しの放言を国会でぶった宮様首相ほど、楽観主義者でないことは事実だとしても、なにも「苦悶」ばかりしたり、「溜息」ばかりついている人間では、さらさらないつもりだ。むしろぼくは、たとえどんなに暗くとも案外暢気に、少なくとも他人様に不愉快な気持をかけない程度にだけは、至極明朗にやっていける人間のつもりである。  そういえば、こんなこともあった。一、二月前だったろうか、ある新聞社の記者君が講和問題と日本についての感想ということでインターヴューに来た。ぼくはむろん信じている通り、つまり、戦後民主化日本の後退、憲法改悪の可能性、再軍備の危険などについて、かなり暗い見透しを話したが、ところがその後で記者君のいうには、だが、あなたは、馬鹿に簡単に、暢気な顔でおっしゃいますね、ほかの方は、(と、二、三人の名を挙げて)そうじゃありませんよ。非常に悲壮で深刻で、むしろなにか思いつめたような風でおられますが、というような話であった。正直にいって、ぼく自身なにもことさら明るさを装っていたわけでなし、むしろ案外な話に驚いたが、なるほど、そういえばぼくには別に悲壮感はない。最大の悲観は、最大の楽観に通じるとでもいうのか、決して明るくはないが、悲壮感はない。そこでぼくは、記者君に答えたのである。なるほど、アハハハと笑っていて、深刻さがないのは相済まぬが、さりとて別に不真面目なわけではない。どうしても深刻になれないのは、ぼくのいわば生れつきで仕方がないが、しかし一面考えても見給え。今の日本の暗澹さは、いずれ明日、明後日で終るものでない。またしても当分つづく暗い谷間は覚悟しなければならぬ。(と、そこでぼくは、敗戦とはいえ、食糧危機とはいえ、敗戦直後の精神的明るさ、おそらくは日本史はじまって以来のものではないかと思えたほどの明るさを考えていた。そしてそれが、こうも早く反動化しなければならないとは、夢にも思わなかったからである。)してみれば、ぼくらあくまでも人間的自由を願う人間の戦いは、いやな言葉だが、長期戦か長距離競走でなければならぬ。今から深刻になってしまったのでは、とうてい息がつづかぬ。いずれ本当に、それこそ生命がけで深刻にならねばならぬときは、必ず来るのだから、せいぜい今のうちはできるだけ呑気にして、その時までの限りある息をつづけなければならないのだ、といったようなことを答えたが、その考えには、今でもぼくは変りない。  もっと具体的にいえば、ぼくたちの念願した全面講和主張は敗れた。(といっても、ぼくが深刻にならぬのは、ある意味で敗北はすでにわかっていたからでもある。決して負け惜しみでいうのでない。ぼくにはさっぱりわからないのだが、無責任な公約というダボハゼさえ眼の前にぶら下げてやれば、やがて自分で自分の頸を絞めることも知らずに、あの自由党をやすやすと絶対多数党にしてやる国民心理、いまだにお上や強いもののなさることなら、なんでも正しいと考え、権力をもつものに反対することは、すべて悪だと思っているらしい封建的盲従心理、さらに大新聞やラジオの報道していることは無条件に全面的真実だと、簡単に受け容れてしまう心理、等々といった、そうした条件を考えると、くりかえすようだが、ぼくらが念願の敗北は、すでに相当前からわかっていたといってもよい。だが、ここが大事なことだが、たとえ敗北はわかっているにせよ、ぼくらは、なんとしてもこれだけは言っておかなければならぬと信ずることを主張してきたのだし、これからもまた性懲りもなく言いつづけることであろう。)ところで、ぼくら念願の敗北の結果は、たとえ政府がなんといおうとも、世界対立の危機の激化に、いよいよ日本も片棒を担ぐことになり、ひいては一つちがえば、平和のための条約どころか、第三次大戦にまでも到りえないと保証できないことは、なにも日本の自由主義者だけのヒガミではない、世界の世論の一部にも、すでにはっきり現れているのである。その他まだこの線に沿って、前にもいった憲法改悪の危機、再軍備への策動、さらに一番大事なのは、たとえ事ここに至っても、せめてわれわれは、第三次大戦の阻止だけは、よし敗戦国の片隅からなりと、世界人類の良心に向って叫びつづけねばならぬ。いいかえれば、これからこそ問題はいよいよなのである。  そんな風に考えてくれば、自由主義者たるもの(もっとも、ぼくが自由主義者であるかどうか、まだ一度も考えてみたことはない。だが、他人様の方でそうレッテルをお貼り下さるのなら、面倒臭いからそれで結構。——だから、赤と貼られるなら、それもよい。柳緑花紅、来るものは選ばぬというだけの話)、したがって、溜息をついたり、苦悶したりしている暇など、とうていないのである。「溜息」ときたのが癪だったから、「哄笑」とかえてみた。もっとも、別に好んで高笑いしているわけではない。ただ明るい希望、消えぬ望みをもって、暗い谷間を生き抜こうというだけである。  はっきりいっておくが、ぼくは職業的平和運動者ではない。ぼくは今でも文学を何よりも愛する人間であり、できることなら政治的問題などというのは、一切誰方かにお任せして、書斎にこもりたいとの誘惑は今もって消えぬ。最近は日本将来の運命がはっきり決定される政治的緊迫から、ぼくなどですらが職業的平和運動者にされそうな危険を強く感じて抑制しているのだが、それならば、なぜぼくのような非専門的人間までが、高度に政治的であるかもしれぬ問題などについて、書いたり話したりしなければならぬことになったのか、この機会をかりて一言だけさせてもらう。  満洲事変から太平洋戦争敗北までにいたる、あのあまりにも大きすぎる一連の代価から、ぼくが学んだ最大教訓の一つは、近代社会の市民というのは、専門、非専門にかかわらず、各人の信念はもし機会があれば表明することをしなければならぬ。もっと進んでいえば、それこそが市民の最大義務の一つであるということであった。思うにもし満洲事変以来、国民の一人一人が、もっと勇敢に、何物もおそれず、所信を表明していたらば、そしてもしまたそうした自由が許されている日本だったならば、なにも暴力的抵抗などに訴えずとも、あの最後的破局への途は食い止められていたろうとさえ信ずるのだ。満洲事変にはじまって、五・一五、二・二六両事件、中国事変の拡大と、あの超国家主義の勢力拡張時代にあって、あれを心から積極的に支持していた国民は、真贋併せてもむしろ少数者であり、決して大多数ではなかったのではないか。そのことは、ぼくら直接的経験でも知っているし、また蔭に溢れていた軍部怨嗟の民の声(それが、結局国民をしてあの終戦時に、まことに呆気なく、むしろ喜んでさえ軍部権力の崩※[#「土+己」、unicode572E]を見送らせた心理だと思う)によっても証明できる。だが、不幸にして、それらはすべて蔭の声であった。たまたま国民の声を勇敢に発言した人々は(斎藤隆夫、尾崎行雄、美濃部達吉、矢内原忠雄の諸氏、まだまだあるであろう)、権力を憚る国民によって空しく見捨てられ、徒らに面従腹背の市民たちが、卑屈の沈黙と心にもない権力追従をつづけているうちに、ありもしない恐るべき国民の総意なるものが、いつのまにか作り上げられてしまっていたのである。今にして思うのだが、もしあの時期、すべての市民がその率直な意志を表明していたならば、たとえ治安維持法はあれ、国民向け機関銃はあれ、八千万国民の意志を投獄し、銃殺することは、よもやできなかったろうと信じるのだ。  さらにいま一つの教訓もある。敗戦後日本人同胞の最も見苦しく情けなかった光景は、それまで所信の表明を発表していなかったのをよいことに、過去への自己責任は一切反省せず、ぬけぬけと恥知らずの民主主義者振りを発揮しだしたことであった。ことに敗戦の蓋を開けて見て驚いたのは、当時指導者のほとんどことごとくが、なんと平和主義者であり、戦争反対者であり、軍部反対者であったという一事である。およそこんな馬鹿げた話があるであろうか。  たとえば内田信也という旧政治家がいる。最近のある雑誌に小自伝と称するものを書いているが、その中に次のような一節がある。 「戦争反対のためには日夜奮闘していた。しかるに昭和十八年山本五十六大将の戦死に際し、衆議院で僕が各派を代表してやった演説が動機となり、突如犬猿の間柄であった東条首相から新設の地方行政協議会長になってくれ、もし貴下が辞退するならこの制度は止めるといってきたので、仙台へ赴任したが、たとえ役不足でもいったん引受けた以上は最善をつくして働き、同時に東条内閣及び陸軍の攻撃、論難を遠慮なく放言したところ、東条氏は組閣当時と大分気分も変り、戦局も次第に悪化してきた際とてこの私の攻撃をかえって好感をもって迎えたとみえ、翌十九年二月私に農商大臣就任方懇請があった。僕は再三辞退したが、そのときはあたかも三顧の礼をつくしての懇請であったので、ついに国民食糧問題解決のためと思って入閣を承知した。」  とにかく軍部に楯つき、戦争に反対し、それでいて東条内閣の農商大臣にまでのし上ったというのだから、とうてい人間の常識ではわからぬ奇怪な話といわなければならぬ。もっとも、これなどは一斑にすぎぬ。だが、大事なことは、同じことは戦後もなお同様につづいているのである。憲法改正委員会委員長時代の芦田均氏の言説と今日の芦田均氏の言動とが、同一人間の発言とはとうてい理性ある人間には理解しかねるのだが、なんとその芦田氏が、逆に吉田首相の変節を糾弾しているのだから、話はいよいよわからなくなる。もちろん、人間に成長がある以上、変節があるのは当然だともいえる。だが、変節には変節の理由があり、根拠があるはずであり、それを明らかにした上での変節こそ公人たるものの義務であろう。ぼくが匿名批評をしない最も大きな理由もそこにある。現在の匿名政治批評家の大半なども、果して十年後には何を言い出すか知れたものでないとすれば、無署名とは有難いものである。  さて、ぼくは以上二つの教訓から、一つには市民の義務として、二つには刻々における自己の責任所在を明らかにしておく意味で、新しいこの日本でこそは、すべての市民が機会さえあれば良心にかけたその所信を、一切権力に顧慮することなしに表明しなければならぬ。それにはまず隗よりはじめる義務ありとのつもりで、両三年前からたまたま専門外の発言をも文字にすることにしただけであり、今もって一切他意はない。もちろんすべて所信を発表するものの常で、一人でも所信を同じうする人間の殖えることを希求するのはいうまでもないが、少なくともぼくの場合にかぎり、職業的平和運動者や、いわゆるアジテーターたるの意志は全くない。が、同時にまた、もしわが国民にして、将来この思想発表の自由を自ら棄てることをしないかぎり、今後ともこの国の民主主義は、たとえいかなる暗い谷間に立とうとも、決して希望なしとはしないであろう。むしろ嵐の中に成長する民主主義こそ、もしそれができれば、もっとも信頼に値するものでなければならぬ。もしぼくにただ一つ煽動的意図があるとすれば、全国民ことごとくが生命にかけてもこの自由だけは護り抜くことでなければならぬ。しかも権力とは常にかかる市民的自由を嫌忌するものだからである。  ぼくらが念願する全面講和論、再軍備反対論は、世のいわゆる識者からすれば、完全に現実を遊離した理想論、空論ということになっている。してみると、ぼくはよほどの理想主義者ということでなければならぬ。だが、ぼくもぼく自身についてならば多少は知っているつもりだが、実は自分でもいやになるほどの現実主義者であり、妥協屋なのである。ぼくの過去半生を顧みてみても、かつて一度として理想主義者らしい行動の跡はない。今日でもまだそうでないとは言い切れぬ。たとえば今度の安保条約にしても、もしあれが講和条約発効後、名実ともに主権の制限を恢復した日本との対等的交渉という形であり、狭義の軍事的機密はさておくとしても、せめて自由な国民の権利や財政的負担などに関する具体的条項が、国民の代表たる国会の中で討議された上で、なおそれでも国民多数の声の決定により締結されるというのならば、個人的所信は一応|措《お》くとしても、なおぼくのような現実主義者、妥協屋は、少なくとも民主主義的ルールという点だけで、案外苦もなく諒承していたかもしれぬのだ。  現に敗戦までのぼくの行動の如きも、典型的な現実主義者、妥協屋のそれであった。戦争中はむしろ戦争協力者といった方が正直であろう。今になって時代の動向を見、ソロソロ虫が這い出すかのように言うのではない。こうした自分のことを言うのは実にいやだが、敗戦直後の戦犯騒ぎのとき、こともあろうにある新聞は、誰を戦争犯罪人と思うかという阿呆らしいアンケートを求めたものである。ぼくはそのとき中野好夫とだけ書いて送った。なにかハッタリじみて自分でもいやであったが、やはり今でもそう書くより仕方なかったと思っている。  いいかえればぼくは、実に複雑な矛盾を感じながらも、結局は決して日本の敗戦を祈ってはいなかったのである。むろん大正末期から昭和初年にかけ精神形成期を過したぼくら世代の常として、思想的には資本主義機構そのものの中に、国際戦争を必然ならしめる矛盾が含まれていること、また十九世紀的な民族国家の主権至上という考え方が、きわめて危険な文明への脅威であることくらいは納得していたが、とかくそうした新思想への反応性鈍いぼくである上に、なにしろぼくという人間の中に無意識的習性をなすまで叩き込まれていたものは、子供の頃からほとんど条件反射のように教え込まれていた、国家を離れて国民なしだの、個人の最高義務は国家の成員たることである、だのといった風の十九世紀的民族主義の国家教育であった。太平洋戦争の十二月八日とともに、従来のぼくの懐疑的バランスを、とにかく戦争協力に決定せしめた自発的動機は、はっきりいうが、やはりそうした無意識的習性であったように思う。  多少脱線したが、加えてさらに今一つの要因は、外ならぬぼくの中の現実主義者、妥協屋であった。周知のように満洲事変以後の軍部指導の日本は、代々の政府にとってもそうであったように、ぼく自身にとっても、日一日と、心ならぬ憂慮すべき方向へと進んでいった。しかも結局そうした動向に対しぼくを妥協せしめたものは、なんであったのか。一に現実という一事だったのだ。今にして思えば、あのいわゆる現実というものは、軍部が次々と恣意的既成事実をつくり上げていって、それからして逆に、今度はそれを現実として承認を迫り、漸次彼等の欲する方向へと引張って行ったのであった。そしてその場合、ぼくをも含めて多くの日本人が、不承不承妥協していった理由は、これまた判で押したように、現実[#「現実」に傍点]がそこまで来た上は致し方なしということであった。  今朝もある新聞の投書欄に、社会党分裂を批判した一文があり、その一節に、「左派の両条約返上論は首肯できぬこともないが、すでに調印ずみの条約と共に、国際的な政局の動きにひとり超然として、イデオロギーの空念仏のみ唱えることが許されるであろうか」というのがあった。これを読んで、思わずぼくは、十数年前の論調を思い出したのだ。あの滔々《とうとう》たる独伊ファシズムの擡頭期という「国際的な政局の動き」を背景として、国際聯盟脱退も、中国事変も、日独軍事同盟も、すべてこれ「すでに発生ずみ」の既成事実とされ、それに反して国際協調、国際聯盟主義の如きは、ことごとく、「ひとり超然として、イデオロギーの空仏念のみ唱える」ものとして糾弾された。だが、果して国際協調の精神、国際聯盟主義は単なるイデオロギーの空念仏にすぎなかったのであろうか。  過去は知らず、将来においては、戦争の絶対否定こそ最も現実的な思惟だとぼくは確信している。たまたま別のところでも書いたから詳述は省略するが、最近いよいよ加速度的に拍車を加えられてきたらしい原子力研究の発達は、いまだ不幸にしてもっぱら殺人目的のためだけに捧げられている。先日アメリカ原子力委員長ディーンは、原爆一個がせいぜい戦車二、三台分の費用で製造できる大量生産時代到来の日も近いことを発表した。より非人間的な大規模細菌戦の研究も、二つの世界双方の側において相当進んでいるものと、これまた察しられる。さらにより重大なことは、戦争というもの、これはその戦争自体が、戦前にはとうてい予想もされなかったごとき種々の新殺人兵器を生み出す怪物であるという、いわば一つの大原則である。たとえば第一次大戦における戦車の出現、航空機の飛躍的発達、第二次大戦でいえば、いうまでもなく原爆である。してみると、次の第三次大戦が幾何級数的倍率をもって、いかに凄惨をきわめた人類文明そのものの危機を将来するであろうかは、直接原爆の効果を体験で知る世界唯一の国民、日本人にはすでにいやほど判っているはずである。戦争でなにか得だけをして、その程度で都合よく収まってほしいなどと考えるのは、それこそ身勝手きわまる痴人の空念仏というものであろう。戦争はもはや倫理的に悪であるばかりでなく、物理的にすでに悪なのである。  ほんの局部的な戦争ですらが、未来戦争の結果はこれであるという実物教訓を、つい鼻の先の朝鮮半島で見せられているぼくらとして、この際、戦争の否定——とにかくなんとしても戦争という事態の発生だけは防止するため、世界の良心に向って、たとえ蚊の鳴くほどの声にしても呼びかけようというのは、およそ今日これほど切実に現実的な思惟はないのではなかろうか。  畢竟するにぼくの思惟の一切は、この戦争否定を大前提として出発する。戦争発生の危機を深めるごとき動きに対しては、残念ながらすべて反対せざるをえないのだ。これが戦争否定の現実主義的論理であり、その意味でぼくは武装による平和を信じることができぬ。理由は、かつて平和の名をもってなされなかった武装は一つとしてないのであり、しかも、ついに平和を護り通した武装平和は一度としてなかったからである。なるほど、武装平和がある期間戦争を未来へ押し延ばした事例はある。だが、それは決ってさらに幾倍か周到に準備された、したがって、より悪い戦争の形で復讐されたのである。  ぼくはソ連側が宣伝するように、決してアメリカをもって好戦的だとは考えぬ。サンフランシスコ会議でのトルーマン演説にもあるように、今度の両条約を一環とするいわゆる封じ込め政策もまた、世界平和を目的とするものというアメリカの主張を、ある意味でむしろ率直に認めたい。  率直にいえば、今度の講和条約にしても、グロムイコの修正項目十三点を参照してみれば、ただ一つ例の安保条約関係を除いては、理性的に絶対に妥協不可能の事項があるとは、ぼくには思えぬ。むろん中共参加問題が極度に困難な争点ではあろうが、その点ならば、現在なお中共承認をしているイギリスも参加しているわけであり、必ずしもこれが死活的争点だとは思えぬ。その他の点に至っては、難航はあろうが、さりとて話し合い絶対不可能の距離とは思えぬ。してみれば、ここでもまた完全に両陣営を決裂させる実体が、いわゆる武装平和の問題につらなるものであることは明瞭である。戦争否定の現実主義者が、この事態を最も深い憂慮をもって眺めるのは当然ではないか。  ぼくらが(あるいは、ぼくが)、全面講和に期待する最低線は、せめてはソ連、中共との間に戦争状態の法的終結が実現されるか、少なくとも近い将来に実現する途だけは開いておいてほしかったことである。その意味で今度の二つの条約は、奇蹟でも起らぬ限り、そうした希望を完全に断ち切るものであろう。因《ちなみ》にソ連、中共間の国際的友好関係の恢復は、必ずしもそのまま容共ということではない。周知のように、あれだけソ連ぎらいであり、現に封じ込め政策をとっているそのアメリカすらが、決してまだ外交関係まで絶っているわけでない。だからこそ、一方では日に次ぐ対立の激化はありながらも、まだぼくらはそこに一点、希望の灯だけは見失っていないのである。それに反して、隣接する日本の場合は、将来さだめし大小の紛争が起るであろうのに(その懸念の一斑は、現に今度の国会で北海道漁業に関する根本農相への与党質問にも現れていた)、われらとしては容共、反共にかかわらず、直接平和的話し合いのルートさえ開かれていないのである。どうしてこれで平和条約の第三章第五条にいう「国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うしないような解決」など期せられるのであろうか。  ぼくのいわゆる大前提を、かぎりなく脅かすものであると考えざるをえないのだ。  過日、「マグローヒル世界ニュース」の特派員ジェサップ氏は、大橋法務総裁の治安立法構想に関連して、「ここ数カ月来、日本では民主化計画の骨抜きを唱える絶え間ない攻撃が続けられてきた」と、きわめて意味深い直言を行っていた(十月九日夕刊読売)。こうした傾向は、今日までぼくらがいくら言っても、政府はもとより大新聞までが、ヒステリーだの、なんだのと逆に反撃を加えてきたものである。(その新聞も、さすがにプレスコード立法化だけにはあわてた。現金なものである。)だが、客観的に見れば、ほとんど子供にでもわかる危険な傾向であることは、上記ジェサップ氏の一言ででも証明できよう。  ところで、今度の国会における両条約、わけても安保条約の審議振りを仄聞し、ぼくはすでに日本民主主義は終焉を告げたとさえ感じた。いずれゆっくり速記録でも調べてみたいと思っているが、吉田首相の答弁の如きは、新聞によってみても、ラジオ録音によってみても、すでにそれはどんな意味でも民主的なそれではない。万事は俺に任せておけ、国会など厄介な代物が存在するから悪いのだ、とでも考えているとしか思えないのである。  政府は行政協定を細目だという。だが、ぼくらはあの抽象、漠然たる法五章を読んで、あれ以外の協定をことごとく細目[#「細目」に傍点]との言葉で呼ぶとすれば、これはもはや完全にぼくらの解する「細目」という常識を逸脱している。この点の限りでは、「この行政協定は、国家の主権にも、人民の権利義務にも、深い問題である。……しつこく聞かなくてもいいじゃないかというお話がありましたが、国会の審議としては、そうは行きません」という芦田氏の質問に全面的に賛成する。  行政協定については、事実国民にとって筋の通らぬ話ばかりであった。一方ではすでに最初のダレス大使来日以来話し合っているというかと思えば、いまだなにも出来ていないのだから明かせぬという。ほんの常識的内容のものだから安心しろと説明するから、それならば、いくらでも話せそうなものだと思うのが、それこそ常識だが、すると一方では「うるさく質問するのは好ましくない」と、首相はいう(記者会談)。これでは疑心暗鬼が起るのは当然であり、それでも俺に任せておけというなら、もはやどんな意味でも民主主義ではない。さらに驚くべきは十八日、大橋法務総裁が与党の池田正之輔氏の質問に答えた答弁である。「行政協定には国会の承認を必要とせず」とまで言い切った。これがもし真だとするなら、まさに敗戦後の歴史的発言でなければならぬ。しかも他方で首相は、いずれ条案ができれば、十分審議は願うつもりだとも述べていたが、要するにそれでは審議のしっぱなしということか。もしそれならば、戦時中の翼賛議会となんの変りがあるのだ。  とにかく問題は、安保条約の文字通り原則的抽象性にある。卑近な例でいっても、金を貸してやるといわれて、おいそれと承知する奴は馬鹿であろう。少なくともぼくなら金利、期限等々について、一応の具体的輪郭を聴いてから、はじめて返事をするはず。もし高利なら、苦しいが断る自由はあるのである。してみると大橋総裁が、一方では「行政協定は、……その締結について、国会の承認を要するとの見解も一応成立する」といいながら、なお「承認の必要なし」と強引に押し切る論拠はどこにあるのか。  この答弁については、その後一向に問題にもならなかったが、これは国会というものの性質上、実に奇怪だと今でもぼくは思っているが、もしこれが真実ならば、まさに政府は民主主義終焉の鐘を鳴らしたも同然であり、首相の答弁態度と完全に一貫する点で意味が深い。  専門でもないぼくなどのこうした言説が、政府にとり不愉快であろうことはよくわかる。黙ってお任せしていればよいのであろう。だが、ぼくはたとえ「すでに調印ずみ」だからといって、それだけで納得できぬものを承認するわけにはいかぬ。ぼくの考えは間違っているかもしれぬ。だが、間違っているのなら、理性的方法で説得してほしいのだ。少なくとも擬装野党、準与党の三木幹事長にまで溜息をつかせるような独善、非民主的政治はやってもらいたくないのである。  だが、もう一度いうが、ぼくは絶望も自棄もしていない。よしぼくらの主張が敗北したからといって、まだまだ今後も戦争防止に努力する仕事はある。これからこそ敗戦国民としてでなく、政府のいわゆる「自由、独立」の国民としてそうなのだ。  しかも、この点では条約賛成者からの協力さえ期待できるものと、心から信じているのだ。 [#改ページ]   現代の危機と終末観——一九五二・二 〈第一の天使ラッパを吹きしに、血の混りたる雹と火とありて、地に降りくだり、地の三分の一、焼け失せ、樹の三分の一、焼け失せ、もろもろの青草、焼け失せたり。第二の天使ラッパを吹きしに、火にて燃ゆる大いなる山の如きもの、海に投げ入れられ、海の三分の一、血に変じ、海の中に造られたる生命あるものの三分の一、死に、船の三分の一、滅びたり〉 〈爆弾が投下されてまさに四十秒、目も眩むばかりの閃光が、海上に広がり、濃い雲の柱が立ち上って、やがて高山の高さほどに達したかと思うと、その頂上がキノコのような形に広がった。海の色は完全に変った。おそらくこの爆発によって、数万という海中の生物が死に絶えたと想像される。数隻の大艦は沈み、さらに幾隻かの艦が損傷を受けた〉  いうまでもなく第一の引用は「ヨハネ黙示録」(第八章)に記された「終末の日」の啓示の一節であり、後者は一九四六年七月一日、太平洋上の一隅ビキニ海礁で行われた原爆実験の瞬間をそのまま伝えた一ジャーナリストの報告である。引用者は決してこれらを酔狂に並べているのではない。世界に一つの戦慄を伝えたこの歴史的実験の光景を読んだとき、瞬間的に私の頭に閃めいたものは、まさにこの使徒?ヨハネに示された黙示の一節だったのである。黙示は事実になった。少なくとも最も公算の高い可能性となったのである。  人類がある一つの大きな時代の終末観に脅かされた前例は、決して乏しくない。たとえば紀元四世紀末ローマ帝国の崩壊期に際して、聖ヒエロニムスや司祭サルヴィアヌスの目に映った時代の終末意識から、近くは第一次大戦後、「今やわれわれは一つの歴史的危機の時代に生きている。一つの時代が終りを告げ、新しい時代、しかもそれはまだ名前を持たぬ一つの時代がはじまりかけているのだ」と、一人の危機思想家が記している判定に至るまで、この種危機意識は、ほとんど一世紀ごとに現われていたと言ってさえ過言でない。だが、注意すべきことは、それらは要するに、「一つの時代、一つの世界の終焉」であった。言葉をかえていえば、上に引用した危機思想家の言葉のように、それは一つの時代の終焉の中に、すでに次の新しい時代——たとえそれには、まだ名も与えられぬという不安はあるにしても——は約束されていたのである。  ところが、いまや第二次世界大戦が、われわれの前に突きつけている危機感は、まかりまちがえば、もはや新しい時代への希望を完全に抹殺し去るかもしれぬ、いわば前途にはふたたび原始状態に後退し去った地球だけが、ただ広大な宇宙の中を空しく回転しているにすぎぬ、といったような未来図をさえ想像させかねぬ虚無的な終末観なのである。「ある時代 an[#「an」はゴシック体] epoch」「ある世界 a[#「a」はゴシック体] world」の終末ではない。「世界そのものの結末 the end of the[#「the」はゴシック体] world」なのである。  むろん人々が「ある世界」「ある時代」の終末ではなく、「世界そのものの終末」という危機感の中に生きたという前例も、決して皆無ではない。たとえば初代キリスト教徒たちの間には、明らかにそうした終末観があったらしい。彼らは「終末の日」と「主再臨の日」とを、想像以上に近い未来と考えていた形跡がある。たとえば使徒パウロが「時は縮《ちぢま》れり」といい、人がこの世につけるもろもろのことに「思い煩わざらん」がために、処女にはその嫁《とつ》がぬことを、寡婦にはそのままに止まることを、「さらに善く、殊に幸福《さいわい》なり」と忠告している事実の如きは、初代キリスト教徒たちの終末観が、想像以上に危機的なものであったことを傍証しているのではあるまいか。  さらにより著名な終末観は、西紀一〇〇〇年を前後する半世紀、ことにイエス磔刑後一千年にあたる一〇三三年には、最も高潮に達したと伝えられている。当時の西ヨーロッパはフン族やノルマン族侵寇の後を受け、飢饉、疫病が相次ぎ、人口の減少は各地に脅威的なものを示していた。エルサレムの聖域は異教徒に荒され、キリスト教徒は各地いたるところで虐殺された。神の「怒りの日」の到来でなくてなんであろう。今日では一部聖職者たちが作為的に放ったデマであるという風に見なされているが、自然までがさまざまの異兆を現わしたといわれる。日と月が血の色に変じ、大空には輝く十字架が現われ、あるものは終末の日に出現すると記された四頭の馬を目のあたり見たというものさえ出た。人々は争って「世の終りの日」に備えたのであった。  そんなわけで、「世界そのものの終末」という終末観すらが、決して現代がその最初ではない。しかしながら、われわれの見落してならぬそれら終末意識との相違は、これらの終末観においては「怒り」は常に神の手の中にあったのに反し、現代がわれわれに突きつけている終末の危機感は、ヒロシマ、ナガサキのあの銘記すべき日以来、人類は今や「神の怒り」を人類自身の掌中に握ったということである。ここに根本的な相違がある。「怒り」が神の手にある限り、まだ人々には救済の約束があった。だが、ひとたびそれが人類自身の手に移されたとき、もはやそこには終末の彼方にある新しい世界への救いはない。あるものはただ暗黒の虚無にすぎぬ。  現に一〇三三年の終末観について伝えられているきわめて注目すべき事実は、それは人々の頭に絶望的なペシミズムを培うかわりに、むしろ一種期待にみちたオプティミズムをさえ促したということである。「神の国は近づけり」との警告は、決して彼らを絶望させる理由ではなかった。「我また新しき天と新しき地とを見たり。前《さき》の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦のごとく準備《そなえ》して、神の元をいで、天より降るを見たり」という幻が、むしろ彼らを鼓舞していたといわれる。絶望感に圧倒されるかわりに、むしろ新しいエルサレムにふさわしいものたるべく奮い立ったのであった。皮肉なことに、各地において目ざましい信仰の復活を見、数々の修道院の創立や教会建築の起工を見たばかりか、人口は増加に転じ、経済条件は改善され、至るところにむしろ生活のエネルギーの活発化とオプティミズムの高揚とが、それに先立つ十世紀と対比して、十一世紀精神を特徴づけるものであったとさえ、ある中世史家(アンリ・ピラン)は主張しているのだ。  だが、もはや現代のこの「黙示録的時代」には、このような「新しき天と新しき地」との幻はない。神の約束は何物もないのである。今や「怒りの日」を神の手から奪うことに成功した人類の、これはまたあまりにも逆説的なイロニーでなければならぬ。終末の鍵を握った人類が、もし彼ら自身を救済しようというならば、いまはただ彼ら自身の決意と努力とにまつほかはない。もはやそれ以外には断じてないのである。そしてそこにこそ現代の危機にとっての最大の課題が存在するといえるのであろう。  私は第二次世界大戦をもって、われわれ人類にのっぴきならぬ危機を差しつけたものといった。だが、むろん第二次世界大戦、あるいはもっと狭く、原爆の発明そのものだけを取り上げて、特に二十世紀的危機を強調しているわけでない。それはただいわゆる二十世紀的危機感に、一つの決定的段階を画したというだけであり、危機そのものは二十世紀の到来とともに、いや、少なくとも第一次世界大戦以来、引きつづき、しかも瞬間ごとに新しく、西ヨーロッパを支配し来たった一大時代意識であるといえよう。いや、西ヨーロッパばかりではない、新世界アメリカですらが、ラスキーの言葉をかりるならば、あの一九二九年の大不況以来、〈ついに「希望の国」たることをやめて、その基盤的構造は、旧世界の国々のそれと、究極において少しも変るものでないという事実を明らかにしてきた〉のであった。さらに、いや、西欧、アメリカばかりでない。後述するように、ある意味では東洋、日本もまた例外ではなかった。いわば二十世紀の時代精神だったのである。  近代の終末的危機感が由って来る起源については、やはりもはや定説であるように、第一次世界大戦にまで溯る必要があろう。そして最も根源的な要因は、なによりもまずいわゆる近代的「進歩」観念の挫折であり、幻滅であったといえよう。しかもその象徴的現われが、とりもなおさず第一次世界大戦だったのである。それについてニコライ・ベルジャイエフは、次のように述べている。 〈第一次世界大戦及びそれにつづく幾つかの革命過程は、人間の運命に対して一つの形而上学的意義をもっている。人間存在の根源そのものが揺ぶられているのである。あの大戦は人類の中に蓄積されていた悪と憎悪と嫉みとの啓示であった。それまでは隠れていた悪——もしこうした表現が許されるならば、今までは客観的というよりも、むしろ主観的なものだったところの悪を、一挙に客観化したのがあの大戦であった。大戦はわれわれの文明のいわば本質的性格を暴露したのだ。それはわれわれの行動力を動員したが、それは善き行動力ではなく、悪しき行動力であった。「すべてを戦争へ」、それは人間の生命を安価にし、生命や人格を塵芥同然に考えることを教え、そうしたものは単に歴史の宿命の手中にある道具、手段にすぎぬと教えた。……人間は客観世界の部分とされ、自分自身であること、内的存在を保つこと、世界や他の人々に対する自己の態度を内側からつくり出してゆくことなどは、もはや許されぬ。さらに驚くべきことは、戦後の人間はこうしたことのすべてを喜ぶようになったのである。彼らは自分が圧迫されていることを感じない。むしろ進んでそうした訓練の下に身を置きたがるのである。戦争は力の信奉者という一世代をつくった。解放された憎悪と殺人の悪魔とがその活動をつづけたのだった〉  かくて遠くはルネサンス以後、近くは啓蒙主義、合理主義の擡頭以来、十九世紀思惟の主潮をなしてきた「進歩」の神話は、決定的な挫折に直面し、キェルケゴールやニーチェなどにより、その特殊性の点ではそれぞれ異なれ、すでに先駆的表象として現われていた実存的危機と不安の意識とが、いまや新しい脚光を浴びて登場させられたのだった。  近代的「進歩」観念の神話性は、いわばその宿命性《イネヴイタビリテイ》を信ずることにあった。人類にとって、「進歩」とはまるで不可避な運命であるかのように信じられた。(その意味で古代ギリシャの人のいわゆる「運命」の神話や、カルヴィニズムにおける予定説《プレデステイネーシヨン》とは、その悲観的であると楽天的であるとの相違こそあれ、宿命性を信じることにおいては皮肉な共通性がある。)世界と人間とは、そのあるがままの本性において、無限に連続的進歩の運命を約束されていると、そう信じられてきた。十八世紀啓蒙主義者や十九世紀自然科学者や産業革命謳歌者たちの自信は、すべてそうした「進歩」の観念の上に打ちたてられたといってよい。啓蒙主義者たちは王や僧侶の権力を打倒することによって、また進化論者たちは自然淘汰という天理の遂行によって、そしてまた古典派経済人たちは、失業、不景気といったような資本主義組織の欠陥は単なる偶然事にすぎなく、むしろ簡単に除去されうるものとして、それぞれ人類並びに人類社会の未来に対し、希望の虹にも似た連続的進歩の自信を固く抱いていたのだった。  ところで、その自信、その希望が、結局大いなる虚妄にすぎなかったことを遺憾なく暴露したのが、上にも述べた第一次世界大戦であった。戦争直後、一九二〇年に出版されたJ・B・ビュアリの「|進歩の観念《アイデイア・オブ・プログレス》」が、こうした連続的「進歩」の神話に対する最初の、そして最も痛烈な偶像破壊だったこと、またつづいてはかの文化の有機体的衰退を主張したオズヴァルト・シュペングラーの一書が、今日から見ればむしろ不可解としか思えぬほどの反響を示したことなど、いずれも十分に象徴的だったといってよかろう。以後、第二次世界大戦に至るまでの二十年間、「進歩」の迷妄という問題は、文学においても、哲学においても、いわば当代の一大主題であった。そしてこうした「進歩」の神話の上においてはじめて安定をえていた一切の価値体系が、それに伴い、たちまち崩壊の危機に瀕したのは当然であるといえよう。  いよいよ顕著にその症候を露呈しはじめた資本主義文明の老衰化の如きも、その危機化を促す典型的な要因であったろう。それが持つ欠陥は、もはや偶然事でも、また簡単に処理しうる種類のものでもなく、むしろ機構そのものに内在する本質的矛盾であることを遺憾なく実証した。いわゆる帝国主義的段階に入った資本主義にとっては、戦争と戦争準備のみが、その存続のための唯一の手段であるというこの容赦ない事実を、世界の前に立証したのが、実に第一次大戦から第二次大戦を経て、現に今日にまで及んでいる社会的、国際的不安であり、もはやこの事実は、「私の利害を全国民のそれの上に置く自らの意図を覆うために、ことさら経済的自由を大袈裟に呼号する徒輩」なら知らず、でなければ、もはや率直にこれを承認せぬものはいまい。  だが、もとより旧価値体系は、そのまま従順にその崩壊を承認し、喜んで新しい価値体系にその席を譲るはずは毛頭ない。古い価値体系は、富と権力とをきわめて少数者の手に集中するばかりで、すでに大衆に対して豊富な自己完成《フルフイルメント》の機会を与える力を完全に失っているばかりか、逆に人間として当然彼らが享受の権利をもつ欲望の充足をすら、到るところにおいて阻んでいる現状なるにもかかわらず、他方において幸福を文字通り大衆に解放し、人間固有の尊厳を回復せしめようという偉大な社会的実験は、いたるところで悪意にみちた彼らの誹謗と攻撃の中に置かれている。そればかりではない。古い価値体系は、その危機と不安とを痛感すればするほど、逆に自己保身の痙攣的苦悶の象徴とでもいうか、およそ考えられる限りの邪悪な権力政治を生み出した。二大戦間の二十年間に、あのムソリーニといい、ヒトラーという、いわばゴロツキどもに権力を掌握させたこと、そのこと自体がまさしく象徴的現象であったといわねばならぬ。(彼ら、ことにナチスによって、ニーチェ、シュペングラー、ハイデッガー等々の実存、不安、権力の哲学が、いかに利用されたかということは、きわめて興味深い事実である。)  現代はまさにこのような危機の中にあるといえる。もちろん、それは今日にはじまったものでない。二十世紀、いや、もっと厳密にいえば、上述もしたように、第一次大戦以来むしろ連続的にあった危機感(といって、それは単純な連続ではない。危機がもつ当然の性格として、いわば瞬間ごとにわれわれの決断を要求しながら、連続的にあるものだが)といって差支えあるまいが、さらにそれに決定的な段階を与えたものが、冒頭に引用したような黙示録的意味であろうと信ずるのである。  経済行為の面においてすでに人類文明は、好むと好まざるにかかわらず、一つの世界への不可抗的な道が開かれているといえる。だとすれば、思想の世界についても一層の切実さをもって、同じことがいえるであろう。いいかえれば、上述してきたごとき第一次大戦後の世界的不安、世界的危機が、このわが日本だけを「孤立の島」に残しておくはずは当然なかったということである。今から回想してみると、ほぼ昭和七年(一九三二年)頃から、この国でも危機、不安の問題が大きく取り上げられた一時期があった。「不安の文学、不安の哲学というものが、わが国においてあからさまに問題にされるようになってから、もはや二年にもなるであろう」と、その頃三木清氏が書いているが、それは昭和九年(一九三四年)の夏であった。その代表的なものは、ロシアの亡命思想家レフ・シェストフの流行であったはず。「シェストフ的不安」というような言葉までが生れた(三木清「シェストフ的不安について」昭和九年「著作集」第十三巻収録)。つづいてはニーチェ、キェルケゴール、ベルジャイエフ、また危機神学者たちの名前も、ひとしきり青年インテリゲンチアたちの唇に上ったし、いわゆるドストエフスキーの再発見が行われたのも、やはりこの時期であった。むろんその流行の生起については、洋の東西を問わず、一切の人間の中に内在する本来の不安性に由来するものがあったことはいうまでもない。が、また他面からいえば、それが上述した第一次大戦後の西欧世界を風靡した危機感、不安意識と相対応するものだったこともいうまでもない。そしてこの流行も、すべての流行がそうであるように、不安そのものの解決にはなんら寄与するところなく、数年後には、いつ消えるともなく消えてしまったのである。  さしあたりいま私の目的は、この一時期におけるわが国、それも主として青年インテリゲンチアたちの不安相の内容を分析してみようというわけではない。それはまたおのずから別稿の問題であろうが、ただ特にここで問題にしたいのは、なぜそうした危機意識、不安感が、この時期のこの国では、今日単に流行といったような言葉の形で回想されるに止まるだけで、そのまま消えていったのか、その間の事情を試論的に究明してみたいと思う、ただその一事につきる。むろんこの現象をもって、わが国民性の特徴——問題を問題として、これを現実的体験の中で把握し、さらに現実的把握を通して、これを理論的、思想的な究明にまで高めてゆくことはしないで、多くの場合、ただ情緒的、情感的な形で受けとめるだけというわが国民性の現われとして、簡単にこれを片づけてしまうことも可能であろう。たしかにそういった傾向もあるからである。一九三〇年代の危機などとは比べものにならぬ、今日敗戦後日本の危機性をすら、案外のんきに、いわば鼻唄交りで受けとめている日本人の情緒性は、たしかに国民性といっても差支えない。  だが、同時に決してそれだけではあるまい。流行が流行で終るためには、やはりそこになにらかそうあるべき社会的条件が、客観的に存在したものと考えねばならぬ。では、いったいその客観的条件とはなんだったのか。それがここで試論的に考察してみようという問題である。  まず第一に、私はかりに流行といったが、必ずしもそれは単なる新しい思想意匠の流行だけではなかったように思える。「不安の文学、不安の哲学というものが、わが国においてあからさまに問題にされるようになった」のは、昭和七年(一九三二年)ごろからであったと先に述べたが、この時間的座標は簡単にこれを見逃すことはできぬ。すなわち、前年の昭和六年は満洲事変勃発ということにより、日本が今日敗戦への道の第一歩を踏み出した画期的な年であったし、次いで七年には第一次上海事変、満洲国独立の強行、五・一五事件、血盟団事件といった、内外ともに多事な一年であり、さらに翌八年には国際聯盟脱退ということが、もはや日本の進路を運命的な方向に決定したといってもよい。  経済的に見ても、第一次世界大戦によって一挙に入超国から出超国へ、債務国から債権国へと三段跳びをして、その発展景気に陶酔した日本資本主義も、当然その内包する脆弱性の故に、世界恐慌に先んじて、昭和二年(一九二七年)には早くも金融恐慌に見舞われた(第十五銀行以下三十二銀行の取付休業、鈴木商店の倒産など)。次いで昭和四年(一九二九年)の世界恐慌に際しては、もとより日本の免かれるはずもなく、危機的兆候は加速度的に深まっていった。たとえば数字的にその一斑を窺ってみても、工業生産指数が、昭和四年三月から六年三月の間に、石炭三三六→二九二、綿糸一七三→一五六、生糸二〇七→七六、卸売物価指数は、金属一一八・三→七一・九、織物及び同原料一七五・三→一一七・六、穀物一六四・七→九九・六、総平均一七四・五→一二〇・四、等々へと一路低落を示した。他方、失業者数は五年から七年へかけ著増を示し、労働争議は、その件数において六年に至り戦前最高の数字(二四五六件)に達している。右翼の擡頭とともに、左翼の内部闘争もいよいよ激化したが、それに対する弾圧の嵐もまたいかに猛烈であったかは、昭和四年から昭和八年に至る間、毎年の検挙者数だけでも、四九四二名、六一二四名、一〇四二二名、一三九三八名、一四六二四名と、累年の著増を示していた。農業もまた昭和五年から七年にかけては、いわゆる豊作飢饉、凶作飢饉が交代的に来て農村の貧窮化を徹底させ、それに伴って小作争議もまた昭和十年頃まで、累年その数を加えていった。  かくて昭和六年の満洲事変は、このような危機の中にあって、いわゆる半封建的構造を内包するこの国の後進資本主義が、その宿命的コースともいうべきいわば横領的植民地進出に乗り出した、画期的大賭博だったのである。  昭和七〜十年ごろのいわゆる危機意識、不安思想の流行は、まさにこのような客観的条件の中で起ったものであることを見逃してはならぬ。むろんそれが人間存在のもつ本来の不安から起ったものであることはいうまでもないが、同時にまたその不安が、こうした客観的条件により鋭く触発されたものであることも、断じて無視してはなるまい。上に挙げた数字や事件の意味する不安の実相は、おそらく文学という方法による以外に、これを如実に再現することは不可能であろう。(しかも後述するが、ついに偉大な不安の文学は、当時の作家からはただの一篇生れなかったのだ。)いまはただ読者諸君の文学的想像力をもって、当時の日本人、とりわけインテリゲンチアがその中に生きていた不安意識を、なんとか髣髴してもらうよりほかにないのだが、しかしその不安の心情こそが、いわゆるシェストフ的不安や、ドストエフスキーにおける「地下室の人間」や、キェルケゴールの実存的思惟、等々に一種不可思議な親近さを見出させたものでなければならぬ。  言葉をかえていえば、不安の思想、危機意識は、決して単なる流行だけではなかったのであり、当然起るべくして起った客観的対応性は立派に存在していたのである。では、それにもかかわらず、なおついにそれらを一種の一時的流行として終らせたものは、なんであったのか。ふたたびいうが、むろん日本人国民性のいわゆる情感的反応ということもあろう。だがしかし、ここでもまた私は、あるきわめて特殊なそれなりの客観的事情があったように思うのだ。  第一には、前述もしたように、第一次大戦に際しての日本は、いわば考えられる限りの幸運な諸条件、たとえば戦争によりヨーロッパ商品は一斉に東洋市場から影を消したあとに、とにかく日本だけが曲りなりにも東洋唯一の資本主義的工業国家であったということ、また小さいながらも、連合軍側諸国に対する軍需工場の役割をつとめたこと等々で、一躍いわゆる「成金国」になっていたことである。もちろんその繁栄は、戦後二年目にして早くも逆転兆候を明らかにしたほど脆弱きわまるものだったにせよ、この真実は、きわめて少数の鋭い分析的知性を除いて、一般国民(インテリゲンチアをも含めて)の意識には、必ずしも痛烈な体験的認識としては実感されなかった。むしろいまだに繁栄の夢が強く残映をひいており、政府そのほか国民指導者もまた、意識的にそう思いこませることに骨を折った。その点が西欧社会の場合とははっきり異っていた。西欧社会にあっては、戦敗国はいうまでもなく、戦勝国にあってさえ、戦争の齎《もたら》した価値体系の崩壊とそれに由来する不安とは、もはや一糸覆うものもないほど赤裸な姿で露呈されていた。(それは一九二〇年代を代表する西欧各国の廃頽と逃避の文学が、もっともよく示している。)それに反してこの国のそれは、いわば残照の海面にわずかに露頭部を示しただけで、その実体はもっとも有能かつ経験豊富な航海者でもなければ認識されぬような、あくまでも暗礁危機という形でしか存在しなかった。  しかもさらに不幸(?)なことは、こうした繁栄意識の残映が曲りなりにも満洲事変までつづいたあと、事変の直後には、まるで世界恐慌をよそに一時的、文字通りの一時的(昭和六年後半から十年前半ごろまで)ではあるにせよ、事変ブームと呼ばれた奇妙な繁栄が訪れているのだ。(昭和九年の工業生産高が、同じく四年のそれを一〇〇とすれば、アメリカはわずか六六・四であったのに対し、日本は実に一四一・八を示していた。)このような皮肉な現象と呼応して、またしても指導者たちは、大きなその潜在的危機にもかかわらず、一切のマス・コミを動員して、あるいは〈皇国の天命〉だとか、あるいは〈八紘一宇〉だとか、あるいはまた〈民族発展の歴史的運命〉だとかといった一連の魔術的スローガンを掲げ、大陸進出の幻影(それこそまさにもっとも危機的なものだったにもかかわらず)の陰に、たくみに国民の意識を欺瞞しつづけたのであった。  これを要するに、この時期の日本人は、きわめて特殊な条件下に置かれていたといえよう。彼等は、直観的にはある深い不安と危機感とをたえず意識しながらも、他方では民族の無限的進展というような呪文が、いわば四六時中まるで条件反射的刺戟のように注ぎこまれていたのである。危機感は一応隠れた暗礁のままで終った。不安と危機感とは分析され対決されることなしに、ことさら漠然たるままで置かれた。かくて呪文の魔術は完全に成功した。ことに昭和十二年(一九三七年)にはじまる日華事変以後は、もはや危機感は完全に潜在意識下に抑圧され、指導者的知識人たちまでが、呪文の笛に踊らされるに至った事実は、まだ記憶にも新しいであろう。かくて「不安」の流行[#「流行」に傍点]は終った。(日華事変以後の知識人の行動を、今日「心ならずも」と弁明するのは決して正直な告白でない。)  私の試論的臆説は予期以上に長くなった。だが、むろんそれは単にこの昭和初期における不安、危機意識の流行を、ただ回想的に述べるだけが目的ではなかった。問題は、われわれ現在の危機認識のそれにかかっているのだ。いいかえれば昭和初期の流行は、それが畢竟流行に終るべき、きわめて特殊な条件下にあった故にそうなったともいえよう。だが、今日にあっては、われわれ決してそうした特殊条件下にあるわけでない。まさに世界一つなる危機の中にいるのである。敗戦後のわれわれにとっては、政治的にも、経済的にも、もはや危機は隠された暗礁の形であるわけでない。赤裸々のまま露呈された形でわれわれの前にあり、そしてそれに対し刻々の決断を迫られているのである。しかもその危機相における最大決定的なものは、冒頭でも述べたように、今や人類はかつての「神の怒り」を神から奪い、彼等自身の手の中に握ったことであろう。今や対決は一刻の回避も猶予も許されぬのだ。  しかも今日もっとも明瞭なことは、この現代危機との対決の道は、もはや第一次大戦後の主潮的思想(哲学にも、文学にも)のあるものがそうだったように、単なる「|選ばれたもの《エリート》」、少数知的貴族主義者たちだけの思想という形であるのでは断じてない。そして単に実存的自我の虚無性に沈潜するなどというシェストフ的不安の形態では、いかにそれが真摯な創造への探究であろうと、もはやそれだけでは救済への道にならぬ。対決の唯一の道は、傍観することでも、沈潜することでもなく、実存的自我の不安をも含めた、まさに絶対危機そのものに直面して、いわば弁証法的統一の上に立った理性的思惟でなければならぬ。個人的な実存的思惟だけの中に真の克服は決してない。それは同時に、あくまでも社会的次元に立って解決されねばならぬのである。  今日、危機、危機という言葉は、すでに民主主義などという言葉とともに、ひどく手垢のついた言葉となってしまった。本誌(「世界」)の特集などに対してもそうであろうと思うが、この言葉自体に対するある種の反発に対しては、私といえども多少の同感を感じないでない。しかしながら、このような言葉に対する情緒的反発は、いかにそれなりの理由はあるにせよ、なにかそれをもって危機の実体そのものにする犬儒的な賢明ぶりを衒うだけというのであれば、むしろきわめて危険な日本人特有の情緒的反応というべきであろう。言葉だけを軽蔑し、無視することは容易だが、危機そのものを無視することはできぬはずである。危機そのものは、言葉にかかわらず厳としてそこにあるのであり、言葉への忌避をもって、危機そのものへの対決を忌避してはならぬのだ。  最後に、私のひそかにおそれるのは、近い将来ふたたびある種の権力者たちが、あたかもかつての苦い経験と同じように、あらゆるマス・コミュニケーションの手段を動員して、われわれの危機意識に肩透しを食わせ、またそれとの対決をことさら回避する必要を感じるかもしれぬ。いや、すでにそれははじまっているともいえる。だが、われわれはふたたび欺瞞の術策に陥ってはならぬ。人よ、たえず危機の前に覚めてあれ!  そして私はそこにこそ新しい教育の意味が生れていると思う。拙稿を結ぶに当り、多くの誤解の中で死んだ偉大な予言者的教育者H・G・ウェルズの次の言葉を引用しておきたい。 〈今や教育と文明滅亡《キヤタストロフイ》との競走である。われわれ人類のこの無知、目隠しされたこの世界的無知、なんとかこれをするのでなければ人類は滅亡する。互いに殺戮し合うだけであろう〉  教育が勝たなければならぬ。文明の滅亡をあらせてはならぬのである。 [#改ページ]   自由のための闘い——一九五二・三  モームの小説「人間の絆」の中に、ほんのちょっとした端役だが、ぼくには妙に忘れられぬ人物が一人出る。  最初の方で主人公、若いフィリップがハイデルベルヒへ勉学に行く。そしてそこである変りもののフランス語の先生につくが、その老スイス人である背の高い老人。黄色い顔色をし、頬がこけ、長い、薄い白髪。みすぼらしい黒服、肘のところには穴があき、ズボンは擦り切れている。おそろしく無口な男で、教え方は非常に良心的だが、熱はない——と、まずそういった人物である。  ところが、この男、もとより自分の口から自らの過去など語ることは全くないが、彼以外の人間から聞いたフィリップの知識によると、なんとこの冷灰のような男が青年時代には、まずあの全ヨーロッパを風靡した一八四八年の革命熱の前後、自由の情熱に浮かれ、あるいは投獄、あるいは追放の憂目にあい、次いでイタリアに行っては、例のガリバルディの祖国解放軍に加わって闘った。さらにその後ジュネーヴでも政治犯として国外退去を命ぜられ、最後には例の一八七一年パリ・コンミューン事件でも献身、バリケードの蔭で自由のための最後の闘いを闘って来たらしいのである。いいかえればその半生は、全く自由への情熱のために闘い、しかも常に敗北と幻滅、さらに最も悪いことには、その自由のための闘いの成果が、時には単なる軛《くびき》の取替えにすぎなかったという最大の失望をさえ、幾度か経験しているらしいのだった。しかもそれらの過去については、彼は何一つ語らぬ。  たとえば時として、フィリップが不躾けに聞くことがある。 「先生、先生は若い時、ガリバルディと一緒に戦われたと聞きましたが、真実ですか?」  だが、老人は、別に驚いたという風もなく、いつもと同じ低声で、およそ静かにただ一言答えるにすぎぬ。 「|ええ、そうです《ウイ・ムシウ》」 「それから、パリ・コンミューンにも参加しておられたと聞きましたが」 「そうですかねえ。さ、勉強をはじめましょう」  そういって彼は、静かに教科書を開くのだった。——  まずそんな風で病気勝ちな老の身を、わずかに出稽古の安報酬で、文字通り露命をつないでいるらしいのである。しかもこの老人といえども、かつては自由への情熱に燃え、人権といい、平等という理想に支えられて闘って来たのである。してみると、この老人の無気味な沈黙は、かつてのあの美しい理想を裏切り、いたずらに懶惰と安逸の中に輾転している全人類への限りない侮蔑を匿しているのではあるまいか? それともまた過去三十年にわたる彼の革命運動も、結局彼に教えた唯一の教訓はといえば、畢竟人類とは自由などに値いせぬ実に下らん存在にすぎぬという、深い幻滅だったのであろうか?  以上、長々とこの自由の老無名戦士?ムシウ・デュクロのことを紹介したのは、実は「新潮」二月号所載(一九五二年)、張赫宙君の「嗚呼朝鮮」を読みながら、ふとこの人物の記憶が鮮やかに蘇ったからである。  正直にいって、ぼくは「嗚呼朝鮮」を読み、ある意味では決して耳新しい事実でもなんでもない、むしろ十二分に予想していたことだったにもかかわらず、近頃にない深い感動を受けた。むろんそれは、ある程度文学以前の感動だったかもしれぬ。だが、近来この国の創作欄で、善い意味にも、悪い意味にも、そうした感動を与えられた作品は、まず皆無といってもよかったのである。実はこの小説、決して上手《うま》いとはいわぬ。ことに終りに近づくほど、まるで締切りをでも急いだかのような粗雑、無神経な運びであり、うっかりすると中間小説としてさえ片づけられかねぬ、そうした意味では、せっかくのこの材料をと、時には腹立たしくなることすらあったのだが、それにしても感動は大きかった。  もとよりぼくはこの一篇が、どこまで事実そのままであり、どこまでが創作であるか知らぬ。だが、ぼくらが終戦後、二つの朝鮮成立以来たびたび聞かされ、また物の本でも読んでいた朝鮮事情(その一例はマーク・ゲインの「ニッポン日記」、ジョン・ガンサーの「マッカーサーの謎」などにも見られよう)を併せ考えれば、この張君の作品が(そして彼は最近動乱の現地へ行って来たのである)、よし厳密な意味での事実ではないにしても、真実であることは、もはや疑いを容れないであろう。  今さらここで「嗚呼朝鮮」の紹介をする必要はあるまいが、ぼくはここにあの朝鮮動乱という嵐の中でゆさぶられた平凡な市民男女の運命は、おそらくこうもあったであろうかと、つくづく思った。なんともおそろしい現実である。殷鑑《いんかん》遠からず、朝鮮を見よ、真空状態の危険を思えば、再軍備のほかに途なしなどと簡単に割り切って、再軍備論者が利用するような、そんな生易しい現実では断じてない。誰かすでに例の「二十五時」の運命とを比較して批評していた評者もいたが、ぼくにとっては「二十五時」に似て、「二十五時」よりもさらに数段と苛烈、酷薄をきわめた現実であった。そこには最初の一行から最後の一行に至るまで、朝鮮の運命に対するヒューマニズムのおそるべき慟哭がある。  作者張君が、特に北鮮側の同情者としてでも、また南鮮側の味方としてでもなく書いているのは、非常によい。彼の批判は、そしてまた同情は、北鮮側の上にも、南鮮側の上にも、そのあるべきところにしたがって光っている。強いていえばヒューマニズムの眼とでもいえようか。彼が慟哭しているのは、やはりあのローラン夫人の言葉ではないが、両者ともに、自由の名において、いかに多くの罪悪が平然として犯されているかということであろう。ここにあるものは、自由すらが一度政治権力と結びつく時、いかに醜悪をきわめ、いかに非人間的な狂気に化すかという容赦ない現実であろう。  主人公聖一は、そこいらにいくらでもいる平凡以下といってもよい一市民である。相当の不在地主らしい家の子で、無気力なキリスト教信者、できることなら英語を勉強して、アメリカ留学生に合格するのが唯一の夢であるという、どこか日本などにもゴロゴロいる気の弱い青年である。その彼の運命が、一朝眼覚めると、北鮮軍三十八度線突破という一片のニュースとともに、測り知れぬ運命の深淵に捲き込まれて行く。彼の意志でもなんでもなく、全く強制された人民軍兵士として、彼は敵を逐って南下する。李承晩政権に寄生する要人、有力者たちの腐敗、それらに対する人民の憤り、しかも赤旗と太極旗とを巧みに使いわける、どこにもよくある庶民の生活本能——そうしたことにも必ずしもぼくら驚くものでないが、さらに進んで国連軍の反攻がいよいよ急となり、敗残兵同様になった聖一の小隊は、突然山中で優勢な韓国軍にぶつかってしまう。 「『降服するなら今だ』聖一は咄嗟に考へた。が、小隊長の自決する姿が見えて、その考へを払ひのけた。  と、味方の兵が三人、群る韓国兵の中へ躍りこんだが、叶《かな》はないと見てとり、銃を抛り出して、両手を上げた。  と、三人が手を上げた隙に、韓国兵がさつと銃剣を突き立てゝ串ざしにし、他の兵が拳銃をつづけて撃つた。三人はばつたり仆れた。聖一はぎよつとし、降服する考へが消え、韓国兵が非常に憎くなつた。『卑劣だ。斬り込め』聖一は夢中に、さう叫んで、先頭に立つて斬り込んだ。」  しかもその聖一が、翌朝には、いわゆる「反動|共《ども》」という名の下に、十数人かの囚人処刑を強制されるのだった。 「さまざまの服装をした囚人が、両手を頭の上に組んで、一列縦隊になつて出てきた。……セーラ服の女学生が三人つゞけて現れ、そのあとに紺色の裳衣《チマ》を着た婦人が出てきた。聖一は妹と母を想ひ出した。……聖一が一ばん始めにうつ番であつた。彼は眼をつぶつてうつた。紳士は井戸の中へ消えた。七人の兵が順番にそれぞれの獲物を射ち殺した。パン、パンと銃声がする度に、一人づつ井戸の中に消えた。……再び聖一の番になつた。ざんぎり頭の男が彼の標的になつた。その男がじろりと聖一を見た。聖一は射つた。三度目に聖一の番にあたつたのは、セーラ服の女学生であつた。少女は、進み出て、井戸端にきて、膝ついて、天を仰いで、吾らの神よ……と祈り出した。聖一は手がふるへて引金がひけなかつた。教導が、何でうたないのだ? と怒つた。聖一は引金をひき、弾がはじき出る時、消え入りさうな気持になつた。見ると、少女はがつくりと前にのめり、ぴく/\動いた。教導が来て、少女の襟首をつかみ、井戸の中に抛りこんだ。」  正直にいうが、ぼくはもはや感動という生易しい言葉などでは、とうてい表現されぬような強烈な衝撃を受けた。いわばこれが双方ともに、自由と解放という美名の下で犯しつづけている、おそるべき人間性の荒廃図なのである。おそらく厳密な個々の事実については、あるいはフィクションもあるかもしれぬ。だが、そんなことはもはや問題でない。かりにもしフィクションであるとするならば、まさにこのフィクションこそは、今日朝鮮動乱という国際権力政治の産み出している奇怪な現実悪、それからそのまま吹き出した真実でなければならぬ。  最初に述べた老闘士ムシウ・デュクロのことを、ゆくりなくもぼくが思い出したのも、読み来ってこの一節に達した時であった。デュクロの沈黙こそは、三十年間、自由の名において行われる恐るべき悪の数々を見つめてきた、幻滅と失望とをこめた沈黙ではなかったのだろうか? なぜ同胞互いにこのような仕方で殺し合わねばならぬのか? 理由は全くないのだ。ぼくらはただこの凄惨な同胞相戮の背後に、悪魔のような国際権力政治の冷血な笑いを見るだけである。  自由のための闘い——それは、もしぼくらが少しでもヒューマニズムの魂をもって眺めるならば、おそらく常にデュクロの沈黙を首肯させるかもしれぬ。正直にいって、もはやぼくらは自由への闘いを、ただ手放しのオプティミズムをもって考えることは、とうていできぬ。それほどにも人類の歴史は、自由の名において多くの悪を犯して来ているのである。だが、大切なことは、それでもなおぼくらは、自由のために闘わなければならぬのだ。デュクロの沈黙を越えて闘われねばならぬのだ。感傷的な言い方かもしれぬが、いわば悲願の運命だともいえよう。いいかえれば、自由の名において行われる悪よりも、かりにぼくらが自由のための闘いを放棄することにより犯される悪の方が、さらにさらに大きいのだ。  数日前、ぼくは猪口某、中島某著すところの「神風特別攻撃隊」なる一書を読んだ。その最初の方に大西中将が、最初の特攻隊員を前にして与えた最後の訓示という一節があるが、なんといっても引用に値するこれは、一言であろう。 「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得るものは[#「この危機を救い得るものは」に傍点]、大臣でも大将でも軍令部総長でもない[#「大臣でも大将でも軍令部総長でもない」に傍点]。勿論自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。随って自分は一億国民に代って、皆にお願いする。どうか成功を祈る」と。  ぼくははじめて知ったが、まさに驚くべき訓示でなければならぬ。著者たちは、「これほど深刻な訓示を知らない。これは青年の自負心を煽る言葉でも、青年の自負心に媚びる言葉でもない」という。それについては、言うべきこともないではないが、暫くそれは別として、少くともおそるべき無責任な言葉である。もっとも、大西長官自身は戦後立派に自決して責任を取っておられる。これについては、ぼくは心から深い尊敬を感じる。だが、問題はもはや大西長官一人ではないはず。下は立派[#「立派」に傍点]に生き残ってこの驚くべき書物を書いている二人の著者から、上は戦争中にも立派に指導層であり、しかも今日ふたたびノコノコと厚顔にもノサバリ出ようという、いわゆる追放大物級に至るまで、すべて旧指導層のそれであるはずだ。  今は日本の危機だという。だが、その危機は決して「純真にして気力に満ちた若い人々」がつくり出したものではない。しかもその危機を救う力は、大臣にも大将にも軍令部総長にもないと、その大臣、大将、軍令部総長自身がいうのだ。まさに驚くべき事実でなくてなんであろう?  しかもさらに驚くべきことは、敗戦後、曲りなりにも平和が回復されるや否や、大臣も、政治家も、外交官も、にわかにまた「危機を救いうるものは乃公《だいこう》のみ」との自信が生れたらしい。そして「純真にして気力に満ちた若い人々」は、今やふたたび思慮未熟で、よろしく指導されねばならぬ半人前に下落したものと見える。現に見よ、戦後日本の運命の決定において、若い人々、いいかえれば、否でも応でも次代を背負わねばならぬ青年の声、青年の主張が、ただの一度でも反映されたことがあるか。ある傑《すぐ》れた文明批評家の言葉をかりるならば、まことに「何百万人という青年たちが、彼等自身の起したのでもなんでもない戦いの中で死んで行き、しかも戦争の生む結果については、おそらく彼等の全く与り知らぬ形をとって行くことであろう」と。このような厚顔無恥がまたとあるであろうか? 欺されてはならぬのだ。もし今日の日本のコースが、ふたたびまた危機を招いた時、彼等は性懲りもなく必ずいうに決っている、「この危機を救いうるものは、政治家でも財閥でも総理でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである」と。純真とは欺されることでない。むしろ常に権威の欺瞞に対し覚めてあることなのだ。  もとより一筋の大義に死んでいった特攻隊員たちの犠牲献身の精神については、いやしくも冒涜の言葉など許されぬ。正しい大義に対する献身こそは、今後いよいよ新しい市民精神に要求されるものでなければならぬからである。だが、あの過ぐる戦争において、現にこれが直接命令を下したこれら著者の如きが、今日もなお生き残って、このような根本的反省を欠く書物を書くが如きは、かつての海軍精神には知らず、ぼくなどの受けた古い武士的道徳の教育では、むしろハシタなしとさえされていたように思うが、どうだろうか。  もちろん市民精神とは単に利己安逸の追求ではない。苛烈なまでの公共奉仕と人間尊重の精神でなければならぬ。一方においてデュクロの幻滅失望を予見しながらも、なお自由への闘いを要求してやまぬところの精神なのだ。 [#改ページ]   平和論の憂鬱——一九五二・三 「文藝春秋」新年号(昭和二十七年)所載、小泉信三氏の「平和論」を読んだ。全文の趣旨については、不幸にしていまだ同意しかねるが、氏の立場なり、氏の使用した材料の限りでは、まことに理路整然たる所説であり、たとえば老自由主義者馬場恒吾氏の如き、「ああ、あれはソ連から金でももらってるのだろう(笑声)」(読売紙座談会)式のガサツな無責任きわまる放言ではない。が、それにもかかわらず、あえてこの拙文を草するゆえんのものは、氏の文中にも一、二度糾弾されている「サンフランシスコ条約を受け容れるよりはむしろ占領の継続を択ぶ」と言った犯人の一人は、ほかにもあろうかもしれぬが、たしかに私もその一人であり、その意味で答弁の快い義務を感じた次第である。  ついては、最初に断っておきたいのは、このほど平和擁護を究極目的とする論議に関しては、小泉氏もいわれるように、「手段に関する異見者を、直ちに以て平和の賊であるような言い方」は、厳に戒しむべきであり、その点は私もまた心から同感である。私自身もまた二年前すでに講和論での対立がようやく激しくなろうという気配の見え出したころ、「全面講和主張者は単独講和主張者を、逆に単独講和主張者は全面講和主張者を、それぞれ互に人間的にまで[#「人間的にまで」に傍点]排擠《はいせい》し、誹謗することのないようにしたい。全面というも単独というも、すべてそれは方法論上の見解対立にとどまって、祖国の自主独立を願う心においては変りないはずだからである。……それぞれの主張者は、相手を目してあるいは買弁資本の走狗だとか、あるいはソ連の手先だとか、およそこの種の人身攻撃的誹謗は厳に戒慎してほしい」(「世界」昭和二十五年三月)と書いているほどであり、今後も誰の指令でもなく、ただ私の良心の信ずることは、相変らず性懲りもなくいうつもりだが、小泉氏の感想と同様、この前提的条件だけはまもって行きたいと考えている。  ところで、まず第一に、小泉氏が「最初から全面講和に反対で」あり、「米国による安全保障が、吾々に考え得られる手段の中では最も実際的なものである」と主張される信念の根底には、明らかにソ連、ひいては中共に対する強い不信感が横たわっているようである。もちろん、これを理由なしとはしない。たとえば氏の挙げられる、一九四五年八月、「日ソ間には厳然たる中立条約が結ばれていたにも拘らず」、ソ連が対日宣戦をしかけてきたこと、その後スターリンが、これをもって日露戦争の報復だと演説したこと、捕虜抑留のこと、さらには中ソ同盟条約が「日本を仮想敵国として、その条文に明記した」こと等々、すべてわれわれとしても承服しかねる不愉快事であることはいうまでもない。私自身について、このようなことをいうのは、多少躊躇を感じるが、報復云々の演説に関しては、一昨年雑誌「人間」における徳永直氏等との座談会で、私は強く不満の意志を表明しているはずであり、また捕虜抑留の問題についても、私は正直にいって三十六万九千という例の数字をうのみにすることはできぬにしても、戦後今日に至るまでのソ連のやり口が、きわめて非人間的であり、ソ連の十八番に持ち出すポツダム宣言にすら違背するものでないかということは、これも一昨年雑誌「学生評論」での全学連幹部諸君との座談会で、強い応酬を交しているくらいである。(ただこれは、たまたま「学生評論」そのものが廃刊になってしまったために、その速記を手元に保存しているにすぎぬ。)ソ連の宣戦についてもまた、今日の国際間道徳からいえば、必ずしも例外事とはいえぬが、それにしても、やはり小泉氏のいわれるように、「交戦国一方の戦力の消尽を見きわめて、一の中立国が、その勝者の側に味方として参戦するという行為が、その敗戦国人心に」対して、およそ悪い後味を残すものであることは否みえぬと思う。  ただしかし、こうした強い不快感情、怨恨感の処理そのものについては、率直にいって、私は小泉氏とは多少見解を異にするように思うがどうであろう。小泉氏はいわれる。「中立条約というものは、交戦国から参戦の勧誘を受ける迄は、互いに中立を守るとの約束ではない。仮令《たとえ》参戦を求められても、決してこれに応じないという約束である。……若し仮にソ連当局者の条約観が、この弁護論者のそれ(注——ソ連の参戦はアメリカの要請に従ったものであるとして弁護するもの)と同じようなものであるなら、そのような条約観を抱くソ連政府と、我が日本との間に新たに講和条約を結ばせようとするのは、如何なることか、不安も甚だしい」と。  つまり、小泉氏の所論は、もっと端的平易にいえば、このような国際信義を破った不信国ソ連とは、もはや平和関係など問題外だといわれるのであろうか。だとすれば、はっきりいうが、私は見解を異にする。私は今後といえどもソ連参戦や報復演説を肯定する気持は毫もないし、またたとえ英米側の要請が参戦促進への大きな要因の一つをなしていたという事実はあったとしても(これまた遺憾ながら事実としか思えぬ。この点だけを小泉氏が、なぜか「アメリカとソ連との間に如何なる交渉があったかは、吾々の与かり知らないことであれ」と、ことさら曖昧化されるのは、どういう意味であろうか)、なおそれをもってソ連弁護の材料とする気のないことは、小泉氏の見解と同断である。  だが、さればとて一歩進んで、ソ連にこの不信行為があった以上、もはや講和条約締結の意志なし、いいかえれば戦争状態の終結は御免蒙るというのは、あまりにも感情的であり、非理性的であろう。ある一国への感情と、その国との平和関係という現実的考慮とは、はっきりこれを区別すべきものではあるまいか。現にあの猛烈なソ連嫌いのアメリカ、ある意味では立派に反共的であるイギリスですらが、しばしば歯に衣《きぬ》着せぬ批判攻撃こそ加えておれ、だからといって国交は断絶、おつき合いも御免といったような感情的出方は、決してしていないことである。  もしかりに小泉氏のいわれるような感情的態度が、国際間の慣習になるとしたら、真珠湾事件後の日米関係などはどうなるのであろうか。一九四一年十二月、日米間は相互の感情こそ極度に悪化しておれ、とにかくいまだ「厳然たる平和関係が存していたにもかかわらず、日本は少しもそれを顧みずして真珠湾を奇襲し、宣戦した」。もし戦後の今日なおアメリカ国民及びその政府が、このような騙し討ちが、「相手国人心に、凡そいかなる衝撃を与えるかは、特に深く察せずとも明かなことである」といい、さらに「このような国際信義観を抱く日本と、我がアメリカとの間に、新たに講和条約を結ばせようとするのは、如何なることか。不安も甚だしい」というようなことを言うと仮定すれば、どうなるのであろうか。  異るところは、ソ連は今日なお同じスターリン政府であり、日本は真珠湾当時の政府とは異るということであろうが、だからといって、アメリカ官民の間に決して真珠湾の記憶が忘れられているわけでないことは、サンフランシスコ会談におけるトルーマン演説に見る通りである。だが、その真珠湾は忘れずといいながら、なお現実的考慮に基いてふたたび日米間の平和関係が回復されるに至ったというところにこそ、むしろ感情を越えた国際間の理性的な動きがあるのであり、むろん同条約が、アメリカ最近の世界政策の一環として、冷静な利害打算に基くものであることはいうまでもないとして、しかもなお決してそれだけでもないことは、私などよりも、むしろ小泉氏こそ深く了承されるところなのではあるまいか。  さらにいま一つ、小泉氏からは「どういう積りであるか、不可解も甚だしい」といわれそうなソ連弁護論(自分はそのつもりでなくとも、人はそういうのであるから仕方がない)を試みるならば、小泉氏は、ソ連参戦当時日ソ間には「厳然たる[#「厳然たる」に傍点]中立条約が結ばれていた」といわれる。「中立条約が結ばれていた」ことはたしかに事実だが、それが果して「厳然たる[#「厳然たる」に傍点]」であったかどうかには一考の余地がある。という意味は、周知のようにソ連は、参戦に先立つ四カ月、二十年四月五日には、中立条約不延長の通告をわが政府へ申入れているのである。不延長通告が事実上中立意志の放棄を暗示するものであることは、わがワシントン条約廃棄通告の場合なども同断であり、遺憾ながらこれがまだ国際通念であるらしく、したがって、わが政府も決して呑気に安心していたわけではない。一例をいえば、「文藝春秋」十二月号所載、深井英五氏遺稿「枢密院重要議事覚書」に見ても、東郷外相の説明に、上記不延長通告以来、「我方はソ連をして米英の側に立ちて対日戦争に参加することなからしむるよう、有ゆる手段を尽したり。其の為めに相当大なる譲歩を為すことを覚悟せり」とあるなどに見ても、少なくともあまり「厳然たる[#「厳然たる」に傍点]」ものでなかったことだけは事実であろう。  だが、それにしても、厳然であろうとなかろうと、中立条約の存したことは事実であり、その侵犯を敢てしたソ連のやり方が、われわれにとり不快きわまるものであることは、依然として変りない。だが、一転して、この不快感情を挙げて、これをあくまで当の相手に対してだけ責任を問うというのであれば、それにはまずわが方自体の遵守ぶりが前提されなければならぬのは勿論であろう。ところが、不幸にして、もしあの極東軍事裁判の進行を、少し注意深く観察していた日本人ならば、あの時の証拠資料の一つとして、昭和十六年七月二日御前会議を経て決定されたという「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」という一文にぶつかったはずである。その「第二、要領、三」というのによると、「独ソ戦ニ対シテハ三国枢軸ノ精神ヲ基調トスルモ暫ラク之ニ介入スルコトナク密カニ対ソ武力的準備ヲ整ヘ自主的ニ対処ス(中略)独ソ戦争ノ推移帝国ノ為有利ニ進展セバ武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北辺ノ安定ヲ確保ス」とあり、もっとこれを平易に敷衍すれば、同じ公判記録にある、十六年五月五日の松岡、オットー大使の会談要旨、「ドイツがソ連と衝突する場合、日本の如何なる総理大臣も如何なる外務大臣も日本を中立に保つ事は出来ないであろう。日本は自然必然性を以てドイツ側についてソ連を攻撃するように追込まれるであろう。如何なる中立条約と雖もその事を変更しえないであろう[#「如何なる中立条約と雖もその事を変更しえないであろう」に傍点]」というに尽きるし、またこの準備は実際にいわゆる「関特演」と呼ばれる計画に基いて実施され、一応その攻撃開始時期まで、都合で実行こそされなかったが、十六年八月と決定されていたのである。(この辺のことは、ニュルンベルク軍事裁判にも出ており、もっと卑近には当時東京などでも、満洲帰りの軍人などによって相当流布されていたはずである。)ところで、念のためにいっておくが、日ソ中立条約は、これに先立つ三カ月、十六年四月に締結されたばかりのホヤホヤだったのである。  こうした決定を行なった帝国政府が、今日すでに亡びてしまったことはまだしもであるが、といって、われわれは対外的に、あれは政府のやったこと、国民は関知しない、責任なしということはできなかろう。その点真珠湾問題と同断である。また今さらこのような祖国のマイナスを言い立てるのは私も愉快でないが、もし小泉氏にしてソ連の不信を責めるに急なるの余り、向後このような不信国との交際は御免蒙るというのが、なにか愛国心だとでもいうのであれば、私としては、やはり自己のマイナスもまた頬被りしてはならぬと言いたいのである。要するに、私はなにもソ連のための弁護士を勤めているのでもなければ、日本の顔に泥を塗って快としているのでもない。ありようは、今日まだ不幸にして国際道義というのは、ソ連も日本もアメリカもすべてを含めて、個人道徳よりもはるかにおくれ、汚穢に満ちたものなのである。したがって、遺憾ながらそれが事実だとすれば、小泉氏も私も、その不快感情はどうにもならぬとしても、現実的には感情論を越えた道もあり、現に日本を除く各国ともにそれを行なっているのではないか、ということが言いたかったのである。  第二には、小泉氏の強い論拠は、やはり例の真空論にあるようである。真空危機論が抽象思弁的に論じられている限りでは、あるというのも、ないというのも、結局一つの仮定論にすぎぬであろう。たしかに武力侵入を誘わずというのも絶対保証はできぬと同様、誘発するというのも、これまた一つの仮定論でなければならぬ。(ここで小泉氏が、「ソ連として犠牲なく容易に進出し得る真空状態があるなら、其処へ進出を企てることは決して躊躇しない」と言われるのは、いわゆる間接侵略は知らず、直接武力侵略ならば相当の独断であろう。間接侵略については、問題はむしろ被侵略国内部にあるはずであり、武力侵略の危険は、真空状態よりもむしろ相互に仮想敵国視する国の軍事力が、国境を接して相対峙した場合の方に、はるかに大きいのが事実である。)  ところが、この二つの仮定論の一つ、いわゆる真空危機論が、特使ダレス氏による提唱以来にわかに有力さを加えたのは、一に朝鮮動乱の勃発にあったこというまでもない。この見解はかつて外交白書をはじめとして、小泉氏だけではない、ほとんどすべての全面講和反対論者、両条約支持者たちが、二言目には持ち出す論拠であり、またそれが現在の新聞やラジオで与えられたデータの限りでは、一応有力な説得力をもっていることも見逃せない。現に小泉氏もくりかえしいわれる。 「現在の世界情勢の下に於ては、所謂真空状態を造らぬことが、平和擁護の為に最も肝要と思うものである」  また、 「更に六月、北鮮が突然韓国に宣戦し、充分に準備せられた兵力を以てこれに襲いかかった」  また、 「ソ連の指令の下にその兵器を以て装備した北鮮軍が突然侵略を起した」 「朝鮮の侵攻は、その(注——行文の前後よりして、ソ連の武力侵略をいうらしい)典型的の実例である」  また、 「南鮮が不用意なる真空に近い状態にあると見られたことが禍乱の誘因であった」  朝鮮動乱勃発の「真相」については、もとより私など窺知《きち》しえぬ。が、その点は小泉氏とても同様であり、いや、さらに進んではどの国の専門歴史家、外交家といえども、その真相の究明は、まだここ十年や二十年はまたなければならぬ問題であろう。だが、それにしてもあの六月二十五日の突如たる軍事行動が、周到なる準備の上においてなされたものであることは、いかにソ連側の反対宣伝があるにせよ、疑いを容れぬ事実であろう。(この発端について、平壌放送は二十三日以来南鮮側からの間断ない挑戦があったということをしきりに放送し、その一部は日本の新聞にも出たが、これはそのままには受取れぬ。つまり、問題はどちらが先に発砲したかというようなことではなく、少なくともどう割引しても、二十五日のあの大規模行動が、とうてい二十三日以後の準備だとは、愚者でない限り信じられぬからである。)だがしかし、それが果してどの程度「ソ連の指令」に出たものであるかという問題は、私としてどちらへ断定する客観的材料も持たぬ。ただ北鮮の侵攻が「南鮮の不用意に近い真空状態」によって誘発されたものであるとは、小泉氏のようにそう簡単には断定しえられぬ客観的材料がある。  第一に、なるほど、六月二十五日の軍事行動はたしかに突然であったとしても、朝鮮における内乱のほとんど必然的可能性は、すでに遠い以前から、いいかえれば、いわゆる三十八度線が決定し、李承晩政権が成立したほとんど直後から、識者たちにとっては十分予想されたことであった。簡単に日本語で読めるものだけでも、例のマーク・ゲイン「ニッポン日記」下巻、ガンサー「マッカーサーの謎」があり、最近では張赫宙君の小説「嗚呼朝鮮」もある。(ここで南北朝鮮成立の経緯を詳しく述べるのは、私など専門外のものとして遠慮するが、少なくとも今日の朝鮮を考える日本人は、一応当時の事情を知った上でなければ論じられぬはずだと思う。)いいかえれば、いつかは来るべきものが来たにすぎなかったのだ。  第二に、「南鮮の不用意なる真空に近い状態」という、この種の言い方は、多くの場合、南鮮があたかも日本のように無軍備、無防備、ひたすら平和に専念していたかのように理解され、またそう理解させることを暗に志向しているようにさえ思われるが、事実は必ずしもそうでないはずである。ソ連側の材料は、すべて宣伝と片づけられてお仕舞だから挙げぬが、アメリカ側からの材料に限って見ても、動乱勃発の直前、李総統が「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙の記者に、「われわれはアメリカさえ許せば、数日にして平壌を落して見せる。ただアメリカが制するからしないのだ」と豪語したことは、ガンサーも上記の著に引用している一節であり、この事実はさらに勃発直後七月八日の「ネーション」誌にも、 「国務省は、二、三週間前、李が北鮮を侵攻したいと提議したが、計画はアメリカ側によって拒否されたという報告を確認している」The Department of State has confirmed the report that Rhee proposed several weeks ago, to invade the North and that the project was vetoed by U. S.(筆者ウィラード・シェルトン)とあること、また下ってマッカーサー公聴会において上院議員バードが、「当時(注—勃発当時)朝鮮軍事使節団長ロバーツ将軍は言った、『南鮮には十分の軍装備を与えていない。なぜならばアメリカとしては、彼らが北鮮攻撃に出ることを怖れたからである』」(原文略)という証言などによっても裏書されよう。  いうまでもないが、動乱勃発の直前五月三十日の南鮮総選挙において、李政府与党は完全な敗北を喫し、次いで朝鮮統一の熱望は、李総統を置き去りにして南北朝鮮から澎湃として湧き起っていた。しかもこの浮き上った李承晩を前にして、六月十九日——勃発一週間前である——外ならぬダレス氏が南鮮国会で、 「アメリカ国民は、諸君に対して物心両面の支持を与える。諸君は孤立でない。決して孤立ではないだろう」You are not alone ; you will never be alone という、きわめて含蓄に富んだ演説を試みているのである。  さらに「突然」だということにも、まだ多少の疑点は残っている。すでに周知のことだから、小泉氏も御承知と思うが、前記マッカーサー公聴会における上院議員マクマホンの質問に端を発し、昨年八月十六日付「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」紙が暴露した、いわゆる「大豆買占め問題」というのがある。簡単にいえば、動乱勃発の直前に、アメリカ在住の中国人名による五十一人の人物が、大規模な大豆買占めを行ない、動乱勃発とともに急激な値上りにより、たちまち三千万ドルを儲けたといわれる事件である。同年春以来の世界市場における大豆相場は、供給の順調化に伴い漸次下落傾向にあると予想されていたのだから、それだけに、これはきわめて異常な投機行為といわなければならぬ。しかもそれがテキメン当ったとなれば、むろんまだアメリカでも軽率な結論は下されておらぬにせよ、とにかく、ある一部筋の人間には、動乱勃発が予見されていたということも疑えば疑えぬこともない。そのことがつまり問題になったのである。  それはともかく、よし南北統一が全朝鮮人の熱望であったにもせよ、六月二十五日の北鮮の行動が武力、それも明らかに周到に用意されたとしか思えぬ軍事行動であったという点において、私はこれを支持することはできぬ。だが、それだからといって、小泉氏らがそう理解されることを欲していられるかに見える、南鮮が備えを怠り、平和の空論に熱中していた真空状態であったが故に、北鮮の侵攻を誘発したとの結論に到達することはとうていできぬ。少なくとも真空論は、いずれの結論を導き出すにせよ、朝鮮動乱とは切離して考えなければならぬ問題であり、これを真空危機説の裏付けとして援用するのは、明らかに一面のデータを故意に伏せるか、そうでなくとも無知から来るトリックでなくてなんであろう。  すでに許された枚数はつきた。一つ一つの点を私の信ずる限り説得的に述べようと思っても、あとまだ多くの問題を残したままで、すでにこれだけの誌面を使ってしまったのである。以上まだ肝心の、つまり、私が占領継続を選ぶかのごとき発言をしたことについても、なんら小泉氏の疑惑を解いていないし、さらに最も重大な朝鮮動乱抜きの真空論是非という問題にも、また中立不可能論にも、ついに一言として触れる余裕がなかった。占領継続論については非常な誤解があり、おそらくこれまで私の発表したものなど広くは読んでもらえず、ただ片言隻句を捕えての攻撃だと思うので、いま少し詳しく述べれば、よし同意はえられぬまでも、了解はしてもらえると信ずるし、真空論、中立論に至っては、これこそまさに将来への重大な賭であり、要するに小泉氏もいわれるごとく、「誰も今日絶対的に確実な平和擁護の方法があるといい得るものはない」とすれば、ただ「実効の公算」についての見解相違が、不幸にして氏と私たちとの間に対立を生んでいるのだと思う。それだけに、私としても信ずるところはあくまで述べる代りに、国民に対しては後々までも責任を持ちたいつもりなので、簡単にここで個条書風ですますことは、残念ながら差し控える。むしろそれは害あって益なきに終るだけであろう。ただ小泉氏に願っておきたいのは、決して問題を回避したのではない。次にどこかで機会さえあれば、よろこんで答えるつもりだから、その点だけを捉えての再反駁はしばらく容赦を願いたい。  ただ最後に大急ぎで付け加えておきたいことが二点ある。氏は最後に、「民衆の窮苦、未熟指導者層の驕慢が深刻にする社会的不満が今日の議会政治家によって顧みられぬとなれば、民心はやがて憲法と議会政治から離れて何等かの国粋的独裁政治への道路を道普請せぬとはいわれない」云々ということに言及しておられる。氏はわずか数行で、しかもそれを仮定法の形で言っておられるが、果してこれはそんな風な形で語られてよいものであろうか。私見によれば、この仮定はすでにいま現在直説法でこそ語られねばならぬ一事であり、このことは単に国粋的独裁政治への道普請どころか、安保条約、再軍備の背後に、氏の最も憎まれる共産主義独裁への道をひらくものではないのか。この点に関し、もっと詳細な氏の見解をぜひ待ちたいものである。  さらに今一つ、これら日本将来の運命に関する関心事が、氏および私をも含めて老人ばかりの論議に専らであり、否でも応でも次代を背負うべき若い世代の声が、思想未熟という理由かどうか、全然といいたいまでに反映されていないことについて、小泉氏の見解は果してどうなのであろうか。実は私は最近「神風特別攻撃隊」という一書を読んだ。本書全体について、またこの著者の心事については言いたいこともあるが、いまここでは控えるとして、私はその中に偶然次の一節を読んで瞠目した。  最初の特別攻撃隊に対する大西航空艦隊長官の訓示である。 「日本はまさに危機である。しかもこの危機を救い得るものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。勿論自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。(下略)」  この一節、大臣、大将、軍令部総長等々は、首相、外相、政党総裁、代議士、指導者——その他なんと置き換えてもよいであろう。問題は、あの太平洋戦争へと導いた日本の運命の過程において、これら「若い人々」は、なんの発言も許されなかった。軍部、政治家、指導者たちの声は一せいに、「君らはまだ思想未熟、万事は俺たちにまかせておけ」として、その便々たる腹をたたいたものであった。しかもその彼らが導いた祖国の危機に際しては、驚くべきことに、みずからその完全な無力さを告白しているのだ。煽動の欺瞞でなければ、おそるべき無責任である。なぜいま私がこのことを言うかといえば、いままた歴史はくりかえされようとしているからにほかならぬ。  今日吉田政府のやり方は、周知のように、露骨におれたちにまかせておけ、である。彼らと彼らを支持する老人たちは、果してふたたび危機至るの日、またしても無力を告白することはないとはっきり確約できるのか。果して「若い人々」とは、平時にあっては思想未熟、ただ危機にあってだけ、「純真にして気力に満ちた」危機を救いうる唯一の人間だなどとおだて上げられる、そのようにまで御都合主義の便利品なのであろうか。  いや、私は、ふたたび危機至るの日、と仮定法で言った。だが、事実は現在すでに静かなる危機なのである。特に傑れた教育家である小泉氏に、まずその平和論よりも前に、この問題に対する見解が切に伺いたいのである。 [#改ページ]   もはや�戦後�ではない——一九五六・二  昨年一九五五年、とりわけその下半期は、あれから十年、戦後十年といったような題目で、どこのジャーナリズムも話題でにぎわった。もちろんこれは当然の話である。敗戦十年目の八月十五日を迎えて、一応この一区切りの時期について、回顧やら反省のあったのは、必要でもあり、有意義のことでもあった。だが、さて新しく迎えた一九五六年というこの年は、改めて次の十年という一区切りに一歩を踏み出す年といえる。人間世界の動きというのは、案外十年といったところに、一応の中じきりのようなものはあるものである。  それで思い出すのは、第一次大戦後の動きである。一九一八年に終った第一次大戦の戦後世代に、もちろん上にもいった厳密な十年十年の区切りではないが、たしかに一九二〇年代と三〇年代とでは、大きくいって世代心理の変化がはっきり認められることは、多くの史家や評家もすでに認めているところである。たとえば一九二〇年代は、しばしば幻滅と不信の時期と呼ばれた。第一次大戦における日本の場合は、どちらかといえば火事場稼ぎでアブク銭をしこたま儲けた形だったので、こうした戦後心理は直接にはあまり響かなかったが、少くとも戦争の経験を直接になめた国々の社会では、戦勝国と戦敗国とにかかわらず、こんど日本でよくいわれたアプレ・ゲール世相と、ほとんど変らない価値基準や信念の崩壊を経験したものであった。  たとえば人間関係でいえば、前線も銃後もない、はじめて人類の体験した大規模戦争という事実が、社会的連帯意識を完全といってよいほど踏みにじってしまった。とりわけ戦争を、感じやすい青年期、乃至は壮年期の早い時期で経験した世代にはなはだしかった。誰もが誰もを信頼しない。頼りになるのは個人としての自分だけ。それこそこの世代の「関節が外れてしまった」のであった。そうした社会心理から生れるものは、当然虚無と頽廃、そして刹那刹那の上に踊る道化踊りの世相でしかなかった。  だが、ほぼ一九三〇年ごろから、徐々として信念回復の世代がはじまった。当時フランスの批評家バンジャマン・クレミューが、いちはやく「不安」に対して「再建」の名をもって呼んだ一時期のはじまりであった。それは主として前述「不安の世代」をつくり上げた人々よりも、いま一つ若い世代からの動きであった。彼等は、一度破滅の深淵に身を沈めることによって、そこからもう一度信念の不死鳥的復活、人と人との社会的連帯意識の回復をもとめたのだ。そしてあるものはコミュニズムへ、あるものは全体主義へと走った。今日から見れば、それらの人たちの多くがコミュニズムへの幻滅に終ったり(そのいくつかの記録が、一時日本でも読まれて話題になった「神々はつまずく」である)、また反対に誤ってファシズムの途に赴いたりしたとはいえ、それら全体主義への誘惑すらが、動機的にいえば信念の回復、価値再建への指向からであったといえる。  話があまり文学的になった。しかしもっと現象的にいっても、ほぼ一九三〇年という時期は、いろんな意味で第一次大戦後時代に一応中じきりを与えたと見ることができよう。戦後天井知らずのブームに酔っていたアメリカの景気が、一九二九年のガラで一挙に崩れ落ち、それにつづく深刻きわまる世界不況が、民主主義の危機を招き、信念回復、価値再建というそれ自体善なる意志も、結果としては逆にかえってファシズムの猛烈な攻勢を導き入れるようになったのも、ほぼこの時期を転回点としていた。革命後混乱期のソ連が、相次ぐ五カ年計画の成功によって、大きく再建期に入ったのもほぼこの時期からであり、ついでにいえば日本が運命的な戦争への途を歩み出したのもまた、一九三一年の満洲事変が大きくその契機をなしたといえる。  断わっておくが、私はなにも三〇年代をすべて肯定的な世代として語っているのではない。むしろ逆に、それはファシズム体制の完成に大きく席をゆずり、やがて宿命的に第二次大戦という劫罰《ごうばつ》を用意しなければならなかったという、まことに取り返しのつかぬ過誤の途を歩んだとさえいえる。しかし私の言いたかったのは、そうした明暗それぞれの結果にもかかわらず、とにかく戦後ほぼ十年というものは、疑いもなく一つの中じきりをなすものであったという事実なのである。そして思うにそのことは、たとえ歴史は決してそのままの繰り返しを演じるものでないとはいえ、ほぼ第二次大戦の戦後世代についても当てはまるであろうし、また事実意志的に言っても、そろそろこの辺で「戦後」十年にピリオドを打たなければならぬところに来ている、ということを意味するのではあるまいか。  考えてみると、ある意味で「戦後」という言葉は便利重宝なものであった。敗戦という衝撃によって起った急激な混乱現象も、たいてい「戦後」という万能鍵をもってさえいけば、責任を免れるとまではいかぬにしても、とにかくすべて一応便利な説明にはなった。たとえば戦後起ったいろいろの犯罪現象、頽廃現象なども、新聞雑誌を見ていた人なら先刻承知と思うが、すべて二言目にはアプレ、アプレであった。厳密に分析すれば、果して戦後混乱の生んだ特殊現象であるかどうか疑わしいようなものまで、ひどく簡単にアプレの一言で片づけられた。こういう言い方が果して妥当であるかどうかわからぬが、とにかく「戦後」という万能鍵に甘えかかっていたような気味が多分にあった。  だが、そろそろ私たちも、こうした「戦後」意識から脱け出して、ただに戦争を背後に振り返るだけでなく、少くとも来るべき十年(むろん十年という短い視野だけで充分なのではないが)への未来への見通しに腰を据えるべき時が来たのではあるまいか。  もちろん敗戦につづく戦後事態がことごとく消滅してしまったわけでもなく、またあの大きな敗戦の教訓を、あたかもそれがなかったかの如く忘れ去ってよいというのでもむろんない。現に敗戦の影響は、まだ日本の独立という根本事すらが、はなはだ拙い状態にあるという形で、厳然と跡をひいているし、ソ連、中国という二つの国とはまだ厳密にいえば戦争状態という関係で残っている。またそのほかのアジアの国々とも、決して戦争の跡始末は完全にすんでいないという有様であることは、周知の通りである。現在の日本の立場が、いわゆる半植民地的であるか、隷属的であるか、いまその厳密な論議をしている暇はないが、それにしても現に昨年十二月二十三日の「読売」紙は、国連本部からの特派員通信として、国連加盟から取り残された日本について、ある新聞記者の辛辣な批評、「日本がかりに入って、重要な表決の時など、キョロキョロ見廻したあとで手を挙げるような、そうした醜態をさらさないですんだだけ、日本のためにはよい時間の余裕だったかも知れない」との感想を伝えている。今の日本の国際的地位に、どうした心理か、ベタ満足している一部日本人階層は論外として、果してこの歯に衣着せぬジャーナリストの放言に対して、自信をもって抗議できる日本人が何人いるであろうか。  閑話休題、こうした事態の中にあって、「戦後」の終りが戦争自体の教訓を忘れることであってよいわけはもちろんないし、まして新しい十年への歩み出しが、単に郷愁的な旧日本復活への途などであってはたまらない。「戦後」の終りという私の意味は、もうそろそろこの辺で、安易な「戦後」への倚《よ》りかかりはやめなければいけない、たとえば敗戦の教訓への反応にしても、明暗ともに単なる感情的反応だけでは不充分であり、無意味でさえあるということである。  少くとも私は、もうそろそろ私たち敗戦の傷は、もっと沈潜した形で将来に生かされねばならない時であると思う。それについて以下、現在関心のある三、四の点についてだけ感想を述べてみたい。もとよりこの短文ですべてを網羅しつくせるとは思わぬが、幸いにして中心指向についてだけでも同感をえられるならば、あと具体的問題はみんなで一緒に考えてもらいたいし、その意味でもここではできるだけ私自身の思想的立場や政治的立場にこだわることは抑制し、できるならば反対の立場にある人たちにも一緒に考えてもらいたいのが念願である。  第一に思うことは、国と国との関係を考える上において、宿怨とか報復とかといった感情的考え方に押し流されぬこと、また国際間の動きをただ単純に正と邪、善玉と悪玉といった倫理的範囲だけで考えないような習慣をつけることが、一番必要なのではなかろうか。またさらにいえば、そうした考え方をむしろ助長させるような教育は厳に慎しまねばならぬのではなかろうか。もちろんいま当面の問題としてこのことを持ち出したのは、たとえば日ソ交渉の現状、日韓関係の緊張といえば、直ちに一部の日本人、中には相当の有識者までをも含めてだが、その発言、その発想に、明らかにその懸念を感じるからであるのはいうまでもない。  とりわけ問題は日ソ交渉に関してであろうが、私は日本人各人のソ連嫌い、ソ連好きといった感情的自由にまで立ち入ってどうこう言うつもりはむろんないし、またなんでも焦《あせ》って平和条約を急げというわけでもない。領土問題についても、主張すべきは主張するのに、もちろんなんの異存もないが、さればとて戦犯、抑留者をまず帰さなければ交際など真平御免蒙る、南千島が返らなければ平和条約など論外だという風には考えぬ。特に抑留者送還を取引にするのはたしかにおかしいが、条約締結とともに帰還も順調に行くというのなら、特にそれが屈辱であるとも思わぬ。ただ領土返還には、それが直ちにアメリカ軍事基地にならぬというだけの保障は、当然必要であろうが、それよりもまず大事なのは、日本人漁民が北洋で平和的に操業できるという協定こそ先決であろう。領土権についてはサンフランシスコ条約の際に、ひどくアッサリ出ていたのも、今になってみると奇妙だが、そうでなくとも沖縄、小笠原などの問題と睨み合せて気長に主張し、交渉しつづけてよいのではあるまいか。ここまで来ると外交の専門に深入りしすぎるが、そうでなくとも戦後十年以上も、たとえ熱い戦争ではなくとも、平和関係がいまだに回復されぬというのは、好悪を超えての不合理である。  もちろんこれ以上は外交交渉の当事者たちを信頼して、必要以上に素人が立入ることは遠慮するが、ただ巷間ときに伝えられる日ソ交渉成立への反対世論の理由に、いわゆるかの不可侵条約侵犯がガンをなしているという、このことだけはいま一度考え直す必要があるのではないか。そしてこれは素人市民としても発言しうる範囲内なのではなかろうか。  ただこのことは前にも一度「文藝春秋」(一九五二年三月号)に書いたので詳述は略すが、日本はひたすら不可侵条約を誠実に守っていたのに、ソ連は信義を破り突如として侵犯した。だから、そんな国との交際はもう真平だという論法であり、往々これは有識者にすら見られるのだが、これだけはどうもどうかと思う。  その時も書いたことだが、私はあの時期、不可侵条約がもはや厳として存在していたとは思わぬ。現に四月五日には条約不延長の通告がソ連側からあったのであり、そのことがすでに忠実厳守の意志なしとの表示だったことは、かつてのわがワシントン条約廃棄通告と同断であり、現にわが政府首脳部間でもソ連参戦の可能性を十分考えていたらしいことは、当時の枢密院議員深井英五氏の「枢密院重要議事録覚書」という第一次史料にもちゃんと出ているのだ。  ただそれにしても、たとえ不安定とはいえ、まだとにかく不可侵条約が存続していたことは事実であり、それにもかかわらず、しかも日本が原爆まで食い手を挙げかけている弱り目に乗じ、あえて侵攻を行ったことは、日本人として不快を感じるなといっても無理である。とりわけその侵攻により、満洲各地で現にその近親を殺され、また犯されたような多数日本人が(これだけは疑うことができぬ)、とうてい癒し難い心の傷を負っているのは当然である。  だが、それだからといって、その宿怨ともいうべきものを戦後十年以上の将来にまで持ち込み、好悪はともかく、さまざまな問題をめぐり平和裡に話し合う場をつくることにまで反撥するのは、果して理性的にいって賢明であろうか。感情と現実的国交とは自ら別であろう。ある意味では日本人以上にソ連が憎くてたまらぬかもしれぬアメリカですらが、現に国交をつづけているのだし、反対にアメリカの新中国不承認の方針が、アメリカ人多数の感情は満足させるかもしれぬが、国際間の動きの中で、いかにしばしば面倒を惹き起しているかは、ときどきの海外ニュースが伝えている通りである。  こうした場合、自家側だけが絶対に善玉で、相手側は絶対に悪玉、すべてを「打てよ、こらせよ」式の考え方では、国際的問題の場合など非常に危険なように思える。(私自身などは明治以来、たしかにその教育を受けて来たのだが。)上述中立条約侵犯のことにしてからが、たしかに不愉快なことは事実にしても、あれだけをつかまえて、日本は信義の国、ソ連は不信義の国と、決定的に烙印づける考え方はどうかと思う。日本側においても例の「関特演」の問題があり、しかもそれは中立条約締結の直後二、三カ月、いわばホヤホヤの時期であったことも考えておく必要があろう。  中谷宇吉郎氏は「文藝春秋」十二月号(一九五五年)の「憂うべき常識」の中で、どうした理由かこうした日本側の材料は、「出所がなく、……戦後に出たと思われる本から引出されている。どの程度まで本当か分らない」と、まことに事もなげに片づけておられるが、資料が戦後に出たのは当然のこと、敗戦までに出るはずもないが、ただ出た資料的根拠として、「独ソ戦争ノ推移帝国ノ為有利ニ進展セバ武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ云々」という決定は、昭和十六年七月二日の御前会議決定による「帝国国策要綱」に歴として出ている事実であり、さらにそれに先立つ五月五日の松岡、オットー会談要旨には、もっと露骨に、かつ平易に、「ドイツがソ連と衝突する場合、……日本は自然必然性を以てドイツ側についてソ連を攻撃するように追込まれるであろう。如何なる中立条約と雖もその事を変更しえない[#「如何なる中立条約と雖もその事を変更しえない」に傍点]」とさえあるのである。フォスターの放射性物質の論文や東条の発明演説については、あれほど原資料に基いた厳密な客観的分析をされる「頭の良い」中谷氏にも、やはり盲点はあるものかと、まことに興味深く思ったものである。  が、とにかく日本が誘惑にもたえ、ついに攻撃には出なかったという点で、少なくとも結果において信義を守ったとはいえよう。だが、それならば過去の日本が常に国際信義を守った国かといえば、自国のマイナスを言うのは心苦しいが、事実は必ずしもそうではない。真珠湾の奇襲については、いろいろと理由づけもあるようだが、とにかくまだ曲りなりにも平和関係が存続している間の奇襲であり、アメリカ国民が「欺し討」と受取った心理については充分に理由がある。さらに日露、日清の開戦にさかのぼっては、むしろ宣戦布告前の奇襲こそお家芸であった。いま考えると嘘のような話だが、私など小学生のとき、毎年陸海軍の記念日には軍人が来て、あの機先を制するのが日本の戦争上手のコツ[#「コツ」に傍点]だと聞かされて、正直にいって私なども内心大いに得意がっていたものである。また相手の弱味につけこむといえば、果てしなくつづいた日本の中国侵攻など、いつも決ってどんな機会に行われたであろうか。私は決して日本が常に邪だなどとはいわぬが、といって日本が常に正の国ばかりとはとうてい思えぬ。一言でいえば、日本もやはり他国並み、相当に欧米先進国の悪いお手本は真似して来た国だということである。  そこで私の言いたいのは、日本も一応各国並みなら、国際間の出来事について当面の感情はともかく、宿怨、報復といったようなシコリをつくることは、もうそろそろやめにしたいのである。もしアメリカが、欺し討をやった国などとは永久に国交を開かぬなどと言い出すとしたらどうなるか。一方では真珠湾を忘れず(サンフランシスコでのトルーマン演説)と言いながらも、なお平和関係は回復する(条約の内容には不満もあるが)というのでこそ、理性的な国際間の関係なのであり、さらにいえば、日本から受けた被害という点からすれば、ソ連侵攻で日本人が満洲で経験した、おそらくその幾十倍、幾百倍の暴状に曝されたはずの中国が、敗戦直後の国民政府から引きつづき、現在の新中国政権に到るまで、もしこれを深刻な宿怨の形でわれわれ日本人に向けて来るとしたら、どうなるのであろうか。正直に言って、中国及び難しと感じるのはこの点である。  敗戦後日なお浅い「戦後」においては、まだ感情の生々しく残っているのも無理ないといえる。だが、もう「戦後」でもないとすれば、国と国との間のことは、もっと理性的な立場から考えるようにしたい。それがまた大きな意味で賢明な計算でもあるのではあるまいか。  別に組織立てて書いているわけでないので、思いつくままの題目だけを並べることになるが、昨年夏ごろから、いわゆる新生活運動なるものが鳴物入りで呼びかけられ、結局は年末年始の虚礼自粛といったようなことでお茶を濁したというか、完全に尻すぼみの形になった。ただなにしろ五千万円という予算を握っているわけであり、さらに来年度は三億円という、金づまりで四苦八苦の人間が聞けば、驚いて卒倒してしまいそうな予算を狙っているらしいから、果していったい何に使われるのか、他人事ならず頭痛の種にもなるのだが、あの提唱については以来ずいぶんと批判が出た。もっとも、大抵はある意味で誰でもが言いそうな、いわゆる批判者の批判であり、個々の具体的内容はほとんど忘れてしまったが、ただその中に一つ、半年後の今になってもはっきり憶えている、いかにも正直な実感から出たと思われるのがあった。  それは昨夏の八月二十二日、首相官邸に各界の代表百何十名とやらを集め、はじめて呼掛けのあった日だが、発言者は世田谷青年協議会会長加藤日出男という若い人らしかった。趣味はほぼ次の通りである。「全出席者中『ただ一人の二十代の青年として』出席した私は、官邸の門をくぐって、まずズラリと並んだ外国製高級車の群に呆然とした。これではもはや『国産車を愛用しましょう』などという意見はとても出そうもないと思った、云々」というのである。この発言は、その後当の新生活運動協会が掲げた実践項目の中に、皮肉にも「国産車愛用」という一項が歴として出ているので、いよいよ面白くなるのだが、おそらくこの感想は、あの日出席のお偉方などの一切御承知ない盲点だったはずであり、ただ一介の二十代の青年だった加藤君にしてはじめてカチッと来た、そのものズバリの印象だったのに相違ない。  つまり、決してこれは外国高級車是非というだけの問題ではないのである。おそらく加藤君といえども、事務の能率をあげる上で自動車の効用に気づいていないはずはない。なんでも節約してテクったり、満員電車の吊革にぶら下るだけが新生活運動であり、すべてをその線へ押し戻せという意味でのこの感想だったならば問題だが、おそらくそうではあるまいと思う。むしろ自分は外国高級車を乗りまわしながら、ケロリとして「国産車愛用」とのスローガンをかかげうる、その漫画的ともいうべき滑稽にすら気づかぬほどの、万事に関する旧世代の感覚的ズレを、さすがにこの青年の鋭敏な直感は、裸の王様ならぬ、ピタリと端的に嗅ぎつけたのであろう。  瑣事と言ってはいけない。象徴的な挿話だと思うのだ。新生活運動などと言葉は結構だが、それならばまず政府、政党のそれからはじめよ、などとシッペイ返しを食い、それで一言もなしといった現状など、すべて上述の盲点から出ているといってよい。事実新生活運動などというのは、若い世代が主導権をもっての運動で、はじめて実効が上るのであり、お年寄りのお偉方による指導などでできるはずのものでない。前述の首相官邸会合でいえば、そもそも百数十人の出席者の中に、二十代の青年はただ一人ということからしておかしいのだ。戦後日本の各地方では、別に上からの掛け声などなくとも、それこそ自発的に新生活運動を実行し、現に相当の成績をあげている実例も少なくないことは、ときに報告されている通りである。そうした場合、成果をあげているのは、ほとんどすべてと言ってもいいくらい、青壮年男女が主導役をつとめている運動であり、せいぜい老人層はよき協力を示しているというにすぎぬ。これでこそ本当なのである。  正直にいって、私などももう新生活運動の先に立つ資格などなしと思っている。ある意味での新生活運動は起らねばならぬと信じるだけに、こうした運動は常に青年層が主役にならねばウソである。青年だけが勇敢に因襲を断ち切る力をもっている。もちろん青年たちのそれがいつも常に無謬というわけではない。しかしそれは旧世代も批判していけばよいのだが、それにしても、老年層が困るほどのものでなければ意味がない。むろん現在の青年層と呼ばれるものも、十年二十年とたてば、必ず因襲の旧苔がつき、もはやそうした運動の担当者でありえなくなる時が来るのは必定。だが、その時はまた次の新しい世代が主役を交代すればよいのであり、それができなくて、いくら各界の代表者だかしらぬが、すでに宿命的に因襲の束縛を免れえぬ旧世代や旧官僚たちが、新生活運動の指導などと称しても、結果ははじめから知れている。  だが、青年の問題はなにも新生活運動だけに限られた問題でない。なんにしてもあの戦争への道徳的責任をそっちのけにして、旧世代人近年の蠢動ぶりには呆れるものがある。口では民主主義を言いながら、最近保守合同までの経過に見られたごとき政治取引のアイマイさなど、およそこれほど青年の心を懐疑に陥れ、失望させたものはなかったろうし、——まして合同後新内閣の椅子の振り当てぶり、——なにもジャーナリズムによる批評を待つまでもなく、せめて死出の思い出に大臣の味をなめさせてやるとでも言わんばかりの、あまりにも目に見えた椅子の割振りぶり、とりわけ文教担当の大臣というのに、過去は知らぬが、少なくとも現在もっとも精神の動脈硬化兆候を見せているような人物を配するなど、全く言語道断である。思想、主義はともかく、これでは教師も生徒も助からないであろう。  必ずしもこれは反保守党的立場からだけで言うのでない。世界各国、保守党といえども人物経済の脱皮が、ここ近年めざましく見られる中にあって、心から不思議に思うのは、よくも今度のような人事を、批評者はともかく、当の保守党自身の内部で、よく壮年層が黙って見ていたものだという感想である。これをしも党の統制というのならば、保守党の将来もまた何をか言わんやである。  同じことは、しばしば問題になる最近の就職事情についてもいえる。なるほど、毎年加わる生産者年齢人口、労働力人口の増加により、雇傭の困難は増大するばかり、まことに採用者側、経営者陣にとっては選り取り勝手の天国来かもしらぬ。だが、現実に雇傭の窮屈さと、それに伴う青年層に対する愚弄とは話が別である。  あえて私は愚弄という。本年度の採用試験に関して、たとえば二等の旅費を与えて、三等で来たものは、それだけで追い返したとか、身長若干以下のものは採用せぬとか等々といった、ちょっと真実とは思えぬほどのいろいろと話が伝えられた。正直にいうと、私はまたしてもジャーナリズムの面白おかしくの報道か、それにしてもまさかと思い、できるかぎり方々でたしかめてみた。だが、結果は不幸にしてほとんどウソでなかった。ただ呆れたの一語である。いかに使用者側にとり絶対有利の御時世とはいえ、こうした事情が採否の如何とは別に、どのような屈辱感と卑下とを青年たちの心に与えるか、経営者諸賢は一度でも考えたことがあるのであろうか。かつて軍需景気で人手不足などの場合、今度は同じ経営者や使用者側が、どんな卑屈な手段に訴えてまで人採りに奔命したか、いかに咽喉元すぎてとはいえ、少しくらいは思い出してもらいたいのだ。といって、あまり手放しで青年への評価が上りだすと(たとえばもう老人には国を救う力がない、たのむはただ青年の意気と力のみなどという事態になると)、またしても特攻隊式世相ということになり、これまた大いに警戒しなければならぬが、採否はともかく、青年を人格として、しかもいやでも次代を背負うべき人格としてくらいは尊重してもらいたいのだ。  近ごろ私などの年輩になり、うっかり青年の肩などもつと、それは青年の御機嫌とり、鼻息をうかがうものだとの批判が出る。なんと言われようと勝手だが、道理だからやはり言う。本当ならば匿名にでもしたいところだが、事実歴史的に見ても、常に興る社会とは、支配層からは見棄てられたごとき大衆と、そして今一つは青年層とに、希望と生甲斐とを吹き込むことに成功した社会なのである。  むろん「戦後」といえば、まず一番にいわゆるアプレ・ゲール風俗、頽廃と虚無とについても言わなければならなかったのであろう。だが、私は知りながら意識的に触れなかった。理由は簡単である。現象的には決して望ましいと思わぬが、同時にそう深刻にも考えぬからである。というのは、今日の頽廃虚無の世相も、もしその社会に生々とした生甲斐と理想とが躍動してさえくれば、明日にはたちまち鬱勃たる創造と建設とのエネルギーが湧き起ることだろうし、反対に理想と生甲斐とが失われれば、世相だけにいくら対症療法を施したところで、結果は自らにわかっている。世相などというのは、畢竟するに鳥来って影を落し、鳥飛んで影もまた去る底《てい》の社会そのものの鏡にすぎぬからである。  枚数も尽きかけたからあと一つだけ述べておくが、私たちはもうそろそろこの辺で、本当にかつての帝国の夢など捨てるべきではあるまいか。というと、ひどく自尊心にさわる向きもあるかもしれぬが、いい意味で小国になった厳しい事実の上に腰を据えるべきではないのか。  戦後よく三等国、四等国という言葉が口に上った。あれには多分に自棄的、またことさらにする自己卑下の響きがあったが、今度はそうでなく、もっと冷厳な客観的な意味で小国の現実を有意義に生かすべきであろう。一昨年、私は大宅壮一君と海外旅行をしたが、周知のように大宅君は、一等国に用事なしというので、すべて一、二日で通過してしまい、あとは三等国、四等国ばかり見て歩いていた。この方がはるかにこれからの日本の参考になるというのである。流石だと思った。  最近の国連加盟失敗に関し、上にも引いた「読売」紙の通信は、アジア、アフリカ・ブロックのために、日本は何もしようとすらしなかったではないかとの、彼等側からの批判も伝えていた。一つの通信だけで全貌を判断するわけにはいかぬが、少なくとも痛い点を衝かれたことは事実であろう。近来、とりわけ講和成立後ややもすると、ふたたび米英などと肩を並べたあの夢よ、今一度、といったような錯覚までチラチラするのではあるまいか。しかもそれが、今となっては多くの場合もはや実力でなく、虎ならぬアメリカの威をかる威光である事実には気づいてか気づかずにか、とにかくアジアの諸国などよりは、はるかにアメリカ並の列強にでも伍したかのような発言、発想がある。昔の後進諸国のことが話題になるとき殊に甚だしいが、もっともひどいのは対韓国関係の場合であろう。最近の賀川宛書簡に至るまで、たしかに李大統領の頑固さも問題だが、たとえばあの書簡の中でも一点だけには一言もなかった。韓国に対し再侵略の企図ありとまで言うにいたっては、よほど古い帝国主義者の夢は別として、今日大多数の日本人については妄想も好加減にしてほしいとさえ言いたいが、ただ依然として日本が軍事的に脅威であるという感想に対してだけは、たしかにそう思われても仕方のない根拠がこちらにもある。李ライン問題が沸騰するたびに出る声は、不幸にしてかつての征韓論をさえ思わせる口調だからである。いつかなどは国会の壇上から日本海海戦論までが出てみたり、つい先だっても軍事的には敗れるおそれなしというような大見得が、どうした頭の回転か、まさかアメリカの力の政策の猿真似でもあるまいが、責任ある人の口からすら飛び出すのである。上がこれだから、これも先日の反対デモの場合など、平和な話し合いをという一学生の発言は、たちまちにして怒号の中に葬られてしまった。こうした事実が李大統領の耳にも入らぬわけがないとすれば、威嚇と考えるのも当然であろう。 そもそも小国、三等国とはなんの謂か。考えてみればよくわからぬ。少なくとも過去の日本が誇示した一等国、大国とは、侵略的軍事力を背景とする基準以外の何物でもなかった。大砲と軍艦とプロペラ推進の航空機時代ならばしらず(それでも腹をふくらませすぎて、結局破れた童話の蛙だったが)、すでに実現の段階に入っている第二の産業革命時代にあって、昔の夢をくりかえす果して可能性があるとでもいうのであろうか。  別の基準から考えれば、小国、三等国、決して自尊心を傷つけるものではない。たとえば北欧三国など、軍事的にいえば決して一等国、大国とはいえないであろう。だが、その中で私たち日本人など考えも及ばぬ平和で高い生活が築き上げられていることは、戦後はじめて多くの日本人も知ったはずである。その意味でならば立派に一等国である。  おまけに軍事的には決して大国でも一等国でもない国々からの発言が、近年急に政治力を持ち出して来た。現にアジア、アフリカ、中南米などいわゆる小国の結集された意志が、軍事的にははるかに強大な一等国を、ときには大きく動かしていることも、最近とくに目につく兆候であろう。こんなことは十年前までほとんど想像もされなかった世界政治の変化だし、おそらく個々の政権や個々の革命は失敗し、つまずくこともあろうが、この澎湃たる盛上りをもはや昔に押し戻すことは、どんな軍事的恫喝をもってしても不可能であろう。というのは、民族として、国民として、彼等はもはや力だけでは圧倒し切れぬ理想に目ざめたからである。  小国そのものの意味が変ったのである。その意味で「戦後」を卒業する私たちは、本当に小国の新しい意味を認め、これを人類幸福の方向に向って生かす新たなる理想をつかむべきであろう。旧い迷夢よ、さらばである。 [#改ページ]   自衛隊に関する試行的提案——一九六〇・一二  最近(十一月八日号)の「週刊公論」に、臼井吉見君が「自衛隊員二十三万の屈辱感」という注目すべき自衛隊論を書いている。上は江崎防衛庁長官から、下は現場の自衛隊員、防大生にまで面接してのルポルタージュであるとともに、臼井君自身のきわめて傾聴に値する深憂が吐露されている。  念のために要旨をいえば、臼井君は屈辱感に近いまでの自衛隊幹部以下隊員にいたるまでの低姿勢ぶりを、一つ一つ具体的見聞について報告したあと、「天皇からさえ見はなされた二十三万の武装したサラリーマン集団の卑屈感が、何かのきっかけで、どす黒い屈辱感に変質し、いつ、どんなかたちで爆発するか。政府、とりわけ社会党は、この問題についてどの程度考えているのだろうか」と結論するのである。もちろんこの場合、臼井君の頭にいきいきとあったものは、かつて大正期の軍縮時代に当時の青年将校たちが経験した屈辱感から、一変して軍部擡頭の時代になり、「登、退庁に背広に着かえた過去の恨みを、一挙に晴らされた思いを、われわれは忘れることができない」という、あの一時代の悪夢であったに相違ない。もちろん当時と今日とでは、すべての条件が同じであるということはない。だが、臼井君のこの憂慮は、決して簡単に笑い去れるものでない。むしろいまから十分可能な問題としても考えておく必要があるはずだ。  ところで、この一文には、はからずも私自身が一カ所引合いに出されているのである。そこだけを引くとこうだ。 「なにかの折に、ぼくは中野好夫氏をからかったことがある。進歩派の再軍備反対の公式論は、味方であり、もっとも気の毒な犠牲者でもある純真な青年を、敵にまわすことに役立っているのではないか。明日からは敵だという、生意気で見当はずれのセリフこそ、間接的には、あなた方が教えこんだものではないか。制度と、言わばその犠牲者とを区別することすら知らず、犠牲者を嘲笑していれば、制度は消え去るとでも思いこんでいるのは、山形ばかりではあるまい、と。」  さて、臼井君は年来の畏友であるが、残念ながら、この臼井君にからかわれた[#「からかわれた」に傍点]一場面が、どう思い出してみても、私の記憶にはまったくないのである。あるいは臼井君得意の酔余の蛮声で私にそんなことをからんできたことがあったのかもしれない。だが、元来私という人間は、酔っぱらいの議論には、一切反駁どころか、笑って取り合わないことにしているので、したがって忘れることもテキメンだ。おそらくそんなことで、キレイに忘れているのかもしれぬが、もしこれが正気での議論であったならば、私はおそらく反駁どころか、むしろ大いに共鳴したはずである。いささか自己弁護めいて気がさすが、制度、機構というものと、その中にある臼井君のいわゆる犠牲者との間には、厳密な区別をつけて考えなければならないということは、おそらく臼井君などよりは、はるかに早い私の実感であるはずだからだ。  いささか傍道にそれるが、まず二、三そのことにふれておきたい。昭和二十一年春、占領直後のことである。日本軍が解散させられて、軍学校復員学徒の再出発のことが大きな問題になったことがある。彼らが一般諸学校に入学し直すことについて、GHQ当局は、新入学生の十分の一を越えてならないという指令を出し、文部省もまたこれに従った。おそらく理由は、軍隊教育の侵入を恐れたからであろう。だが、私には十分の一という制限線はなんとしても承服できなかった。旧日本軍の解散、そして旧軍国主義教育の撲滅には、もちろん全面的に賛成である。だが、まだそうした軍隊色に教育され切ってもいない前途ある若い人々が、不当に進路を狭められたことには、絶対に承服しかねた。私は進んで「軍学校復員学徒のこと」という短文を書いた。そして「最後に私はこの一文が連合国司令部の人の眼に触れることを希望する。誤った軍国主義教育を受けた青年群の存在は、おそらく貴方がたの深い憂いの源であるに相違ない。そのことはよくわかる。しかし彼等はまだ貴方がたの想像する以上にしなやかな精神力を失っていないことを信じてもらいたい。人間としての彼等の前途を塞いだり、地下へ潜らせたりすることは、おそらく貴方がたの希望でないのに相違ない。それにはたとえ彼等の多数が入りこんでこようとも、これを逆に正しい世界的国民に育て上げる自信ある教育が、この国に行なわれるよう、心からなる声援を与えてほしい」と結んだ。  下って三十一年のいわゆる砂川事件に、たまたま私は終始現場に居合せ、直後いくつかの文章も書かされたが、その時も書いた。「新聞その他にも伝えられたように、警官たちに対して、『人殺し! 税金泥棒!』という罵声は終始乱れ飛んだ。実際あの警棒や泥靴をくらい、また土地を奪われようとしている人たちが、そう叫びたくなる気持は同感というほかなかったし、私などでさえ危うくそう叫びたくなったくらいである。それにしても私には、なんとしても人殺し、税金泥棒を口にする気にはなれなかった。まだ紅顔の残っているような若い隊員たちに対して、とうてい上述のような罵声を浴せる気持にはなれなかった。むしろ逆に私には、将来いつかは必ずこの学生たちも若い警官たちも、同じ市民として同じ生活の喜びを楽しみ合える『一つの日本』が来るにちがいない、来させなければならぬという気持、そしてまたその可能性が心の奥に終始動いていたように思う。」  さらに、上述臼井君の一文は、明らかにこんどの浅沼暗殺犯人山口少年が、自衛隊員の子であるということに触発されたものと思える。事件の直後、自衛隊員である父が、なにかと自衛隊が革新政党などから攻撃を受け、ひどく肩身の狭い思いをするようになったのに反撥して、以来右翼的考え方に傾いてきた、という談話が出たときには、正直にいって私もハッとした。この談話に関連して、「自衛隊制度そのものへの批判が、ややもすれば隊員個人への白眼視に走りやすいことは、従来筆者なども深い危惧をもって、なんどか書いたことがあるが、もしこの父の談が事実とするならば、やはりついにここまで来たかの感が深い。浅沼氏暗殺の不祥事に関連して、その温床を徹底的に糾弾し、根絶を期するのは当然だが、個人山口少年の運命については、法の裁きとは別に、その原因に関し、親身になって探究してやるものが、革新勢力の中からも十分出ていいのではないか」と、ある新聞に時評を書いたのは、臼井君の一文などよりもはるかに早い十月十四日だった。  自己弁明めく文章は、われながらテレくさいからこれで切るが、制度とその中のいわゆる犠牲者とを混同してはならないということは、臼井君からからかわれるどころか、年来私の基本的信念だったし、いまもそうであることを明らかにしておきたいからである。  だが、もちろん本稿は、臼井君への反駁でもなければ答弁でもない。むしろ私が注文原稿でなく、この一文の筆を執った最大の理由は、臼井君も言外に意味しているとおり、いまや自衛隊の在り方そのものが、単純な公式論のそれではなく、もっと根本的に国民すべてが厳粛に考えてみなければならないときに来ていると思えるからであり、また臼井君の論点も、将来の憂慮を指摘することは適切すぎるほど適切だが、しかし考えてみると将来の犬糞的反撥をいうだけで、さてそれならば自衛隊そのものの在り方をどうしたらいいか、その点の積極的発言は見えないようなので、あえて私自身の受けるだろう批判はとにかく、年来ときにはふれてきた提案を、いま一度あらためて提出してみたいと思ったからである。  最初にまず私自身の基本的態度を述べておく。  私は現在においてもなお再軍備反対である。おそらくこれは、私が一生を終えるまでそうであろう。現在の私は神を信じえない人間であるが、これはある意味で宗教的信念に近いものとして、軍備というものに基本的に反対する。今日の国際的情勢の中で、無防備で平和を守るということは、おそらく幻想という批判は受けると思うが、なおそれにもかかわらず、剣をもって立つものは、剣によって亡ぶということは、永遠の真理であり、戦後日本の国民の大多数が、現在の日本国憲法を、一部の人たちのいうアメリカの押しつけという意味でなく、新しい光として承認した決意は、基本的に決して誤りでなかったと信じている。だが、もちろんこれはあくまで私個人の問題であることはいうまでもない。  つぎに、現在の自衛隊制度とその中の隊員、とりわけ若い人々との問題とを峻別して考えなければならないことは、くりかえし上に述べてきたとおりであるが、さればとて制度そのものの問題を、隊員個人の問題の中に埋没してしまうことは絶対に許さるべきでないと信じている。  第一にもっとも大きな問題は、なんといっても現在の自衛隊制度が、日本国憲法というものが厳として一方にある中において、きわめてアイマイに、詭弁的に、生れ、そして成長してきたという点にある。誕生は、いうまでもなく昭和二十五年朝鮮動乱にある。占領軍が国連軍主力として朝鮮戦線に出動した結果、国内治安の空白を埋めるために、マッカーサー指令によって生れたのが警察予備隊であった。その後サンフランシスコ条約によって占領[#「占領」に傍点]は終り、一応独立したということにはなったが、防衛問題は国民の自主的決定を待つまでもなく、同時に発動した安保条約の自衛力漸増の期待という条項に応じて、なしくずしに保安隊に発展した。ついで自衛隊に改編されたのは、いうまでもなくMSA援助協定がキッカケであった。その間「戦力なき軍隊」などという奇妙な幕間狂言もあったが、今日ではすでに臼井君が上述の文章でも印象づけられているように、「昔の三十倍の戦力という……強大な近代軍隊が厳在している」ことは、もはや何人も疑うことはできないであろう。  力関係といってしまえばそれまでだが、およそ国の自衛という重大問題が、国民の自主的決定によらず、いわばまったくの外的勢力の圧力の下に、ひたすらなしくずし[#「なしくずし」に傍点]と詭弁とによって推し進めてこられたことほど、戦後日本の政治を不明朗、非合理にしたものはない。しかも国の基本法あっての自衛力でなく、逆にこうした問題の多い自衛隊を合理づけるために、憲法の詭弁的解釈や、またその改定問題がきわめて疑わしいやり方で一時進められたことは、最大の不幸、最大の悲劇であった。  およそこうした自衛力のあり方というものは、かりに再軍備賛成、反対論の是非はしばらく措《お》くも、国としてあるべきはずの形態ではない。明らかに占領軍の要請によって誕生し、それがそのままあまりにもアメリカ従属的に成長してきたという事実は、強いて類例を求めれば、旧日本帝国のカイライ国家としてつくられた満洲国のいわゆる満洲国軍の性格でもあろうか。これでは自衛隊幹部にさえ誇りなき卑屈感が生れるのもある程度やむをえないが、このような不幸な自衛力をつくり出した責任は誰か。明らかにそれは戦後日本の政府であり、自衛隊幹部すらその犠牲者でしかない。  そこで私は提案したいのである。そろそろこの辺で過去の悪因縁と悪しき連鎖反応は断ち切る必要がある(といっても、中立主義は幻想という現政府、与党には、とうてい耳に入るべき言葉ではないことはわかっているが、直接これは国民諸君に問いかけたい)。いわば過去の悪因縁を断ち切った上で、あらためて自衛力の問題は、全国民の自主的意志決定をなすべきである。私自身は上述もしたとおり、将来の世界の変化にかんがみて、必ずしも無防備自衛を幻想でないと信じている。だが、国民全体からみれば、現在の国際情勢の中でそれだけでは不安という気持もよくわかる。してみれば、やはりこの問題は、最後的には外的勢力の要請や、一部政党、一部支配階級などの決定によるのではなく、全国民の自主的決定にまたねばならぬ。それも代議士選挙というような、複雑な争点のからまる決定では十分でない。日本国憲法の規定では、国民投票という形式は憲法改正のことか、せいぜい地方公共体の特別法だけに限られているようであるが、少なくともこの問題は、それに近い純粋な争点をめぐっての意志表示で決定されなければならぬ。  この場合、再軍備絶対反対はさておき、すでにある人の提案した真の意味での国連軍駐留などということも一応まともに考えなければならぬ。だが、それにもかかわらずなお国民多数が、真の意味における自主的自衛力は持たなければならぬという決定を出すならば、私自身は個人の信念にかかわらず、それを容認することはやむをえないと信じている。  だが、それにはまず前提条件として、いかなる軍事ブロックにも加わらないという意味での中立主義の「幻想」に向かって踏み出さなければならぬ。けだしこうした意味での自主的自衛力は、一つの軍事ブロックに属して、他の軍事ブロックを仮想敵とするものでなく、いかなる陣営、体制からの独立侵害に対しても、断乎として自ら衛《まも》るものでなければならないからである。  かりにこうした国民意志の決定がなされるとすれば、そこにはじめて自衛の誇りは、なにも天皇陛下をまつまでもなく、毅然として生れるであろうし、またそれが一部買弁勢力の利益を守る要具化するおそれもあるまい。あくまでも国民の軍隊である。もちろんそのおそれが皆無だとは言わない。だからこそ、この国民の自衛力たる性格と、それがあくまでもときの政権とは独立したという本質の規定も、厳密すぎるほど厳密に憲法上に明示されなければならないであろう。そしてこの意味に限られた憲法改正ならば、革新勢力といえども容認するほかないのではないか。  こうした提案は、おそらく私個人としては変節という厳しい批判を受けなければならないであろう。だが、私個人への批判はとにかくとして、現在のままの自衛隊がつづくかぎり、上述臼井君の深憂は決して杞憂でないという可能性は十分にあるし、さればとて現在の如き自衛隊のあり方のかぎり、その抜本的変容は絶対に不可能だと信ずるからである。  やはり臼井君の一文に、つぎのような注目すべき一節がある。ある若い農家出身の隊員の話である。「郷里の養鶏場に雇われていたが、夜は十一時か、十二時に寝て、朝は四時に起きなければならず、衣食住は与えられていたものの、一カ月千五百円しかもらえなかった。自衛隊は起床六時、夕刻は五時になれば、入浴なり、外出なり自由で、食事は申し分なく、被服も十分、そのうえ月に七千円も俸給がもらえ、将来を保証されている。ニワトリを飼っていたときのことを考えると夢みたいだ」というのである。  これは少しも耳新しいことではない。現に私の知るものにも、戦後復員、ある商社に入って真面目に働いたが、会社の経営がまずくて倒産、失業者として街頭にほうり出された。いろいろ再就職に骨折ってみたが徒労、結局一、二年ののち最後に自衛隊に入った。入った後の感想は、上記若い隊員の通りである。  数年前、私は必要があって、県別自衛隊志願者のリストを見せてもらったことがある。三年間ほどのものだったが、トップ十県ほどはズラリと九州、東北の各県が並んでいた。なにを意味しているか、説明するまでもなかろう。旧日本帝国の軍人志願にも、たしかにこの意味は大いにあったが、現在の自衛隊にあっては、それがほとんど常識になってしまっているところに大きな問題があろう。また最近の好景気では志願者が激減し、自衛隊当局でも、除隊後の有利な就職条件を確保することによって、勧誘の手段にしている、ともある。これでは卑屈になるのは当然であるが、その責任を自衛隊そのものに帰することは誤っている。このような日蔭の自衛隊をつくり出しておき、その上にただアグラをかいて、呑気に自由陣営の防衛だの、日米協力だのとゴタクを並べている政治家たちにこそ最大の責任はある。  自衛隊の綱紀の乱れ、士気の低下などということもしばしば問題になる。私はなにも軍隊精神の讃美者ではないが、しかしかりにもそれが自衛力とあれば、好ましいことでないことにはまちがいない。一部旧軍人には、天皇陛下の大義がなくなったからだめだというものもある。だが、これは断じて間違っていると思う。そもそも天皇という偶像によってのみ士気を維持しえたというのが、旧軍隊の時代錯誤だったのである。かりにも真の意味における自衛という以上、彼らを鼓舞するものは、まずなによりも彼らの属する国の理想、幻、そしてまた真に国民大衆のための国づくり、また犯させてはならない、衛るに値する社会の存在でなければならない。遠くはフランス革命時の市民兵から、近くは新中国をおこした共産軍、さてはバチスタ政権をくつがえしたキューバの民兵である。なにが彼らをして、はるかに強大な旧政権や外国軍隊に抗して、その闘いを闘い抜かせたか。おそらくただ抽象的なイデオロギーではなかったろう。真に広汎な国民大衆とともにある新しい国づくりの幻であったに相違ない。  もし現在の自衛隊の実情に遺憾な点が指摘されるとすれば、それはむしろ当然の結果だとさえ私は思っている。すべての人間は、一部利害に目のくれた支配階級はしらず、かりにも外的勢力の手先になるような自衛力のあり方に、心からの誇りなど生れるはずはないのである。いかに美しい言葉をつらねて糊塗しようとも、彼らは実感をもって知っている。また一般国民の民度をきわめて低く押しつめておいて、その意味でだけ就職の魅力を感じさせるような、そうした軍隊のあり方に、どうして誇りが生れようか。国民は、なにかパン以上のものが与えられなければならないのだ。  これ以上もう一市民の私が詳説する必要はあるまい。最後にもう一度試行提案を要約するならば、この際われわれ国民は、もう一度真剣に自衛の問題を考え直さなければならない段階に来ているのではないか。現行平和憲法の下で、いつのまにかなしくずしの強大な近代的軍隊ができ上ってしまっている。しかもそれは、占領時にそのままつながる安保条約が生み落した畸型児であり、重大な矛盾がすでに内部に醸成されている。このままこれをよしとするものは、おそらく自民党とそれにつらなる財閥以外にあるまい。過去の悪因縁は断ち切らねばならぬ。少なくともその方向に向かって大きく踏み出さなければならぬ。  断ち切ったあとの自衛問題については、私はいまでも無軍備平和論を空論ではないと信じている。だが、それは私個人の問題である。果して全国民大衆はなにを選ぶか。それは国民自身の決定にまたねばならぬ。が、少なくとも現在のままの自衛力のあり方では、真の自衛力そのものにすらなりえないことは、あまりにも明瞭である。  かりに——かりに、である——もしそれで国民の自主的決定が、自主的自衛力保持という線に現われるならば、私もそれに従おう。但し、それはいかなる軍事ブロックにもつながらない、まして満洲国軍的なものではないこと、そしてまた国民の貧困が自衛力の繁栄をつくるというようなものでないこと、国民の生活こそ第一義であり、そうした生き甲斐のある国づくり、その成果である衛るに値する社会を自衛するという、真の使命感に誇りをもつ国民の軍隊であるということが、絶対の条件であろう。  もちろんその実現が簡単容易であろうなどとは思わない。現政府、与党や、独占資本にこれを求めることは、比丘尼にマラ出せというに等しいであろうし、またそうした中立志向に対して、強大な外的勢力の圧力のかかることも見えすいていよう。キューバやラオスの中立志向が、いま現にどのような経済圧迫を受けているかに見ても明らかであろう。日米安保体制下における日本が、それによって経済の伸長、生活水準の向上の恩沢を受けていることは、一応そのとおりである。だが、それが一面いかに危険な軍事的意義とつながるものであることかは、これまたキューバやラオスの実例に見ても明らかである。  国民はつねに富以上のあるものを与えられなければならぬ。富の中における退廃ということも十分ありうるのだ。いやでもつねに何十万の若い青年を含む自衛隊の現状と伝えられるものも、おそまきながら十分このことを考えなければならない段階に来ていることを示している。たしかに公式論だけでは処理しえないところまで来ているのだ。私自身変節したつもりはないが、むしろ国民全体の問題として、この試行提案も一応忌憚ない批判を受けることができたら幸いである。 [#改ページ]   羽仁五郎さんにうかがう——一九六四・二  羽仁さん。本誌(「思想」)一月号に寄せられた「思想の言葉」を拝見しました。正直にいって驚きもし、また多少ガッカリもしました。もちろん「言葉」全体の論旨に関してそう申すのではありません。あなたは学者、思想家といわれるものの責務について、激しく詰め寄っておられますが、その趣旨に関しては一言もありませんどころか、私なども深く自省の資にしたいと思います。  が、私の驚きもし、ガッカリしたと申しますのは、ただその前半の一節である特定の人——といっても、これは読んだほどのものになら、きわめて明瞭なことですから、もっと具体的にいいますが、やはり同じ本誌十一月号の「思想の言葉」で務台理作氏が、いわば自己告白的に「私は戦争に対して、現在持っているようなきびしい憎悪を、あの太平洋戦争の進行の中で持つことができなかった。はじめられた戦争の巨大な波の中へいたしかたなく巻き込まれていった。私はむしろ戦後、現地や抑留生活の異常な報告に接して、しだいに戦争がいかに渦中の人間性をゆがめていくかを感じとるようになった。迂遠といえば迂遠きわまるわけだがいたしかたない」と述べられたのを、あなたが激しく論難しておられるその部分に関してであります。  あなたは上に引いた務台氏の数行を取り上げて、「思想家とか学者とかいえた義理か」、「はじめて知ったなどと、いいかげんなことをいうな」、「是非善悪の批判もできないで、学者とか思想家とかいっていられるのか」と、それはほとんど悪罵にもちかい言葉を並べて詰め寄っておられます。  一般的にいえば、あなたの論旨はまったくその通りだと思います。かりにも学者、思想家といわれる以上、あなたのいわれる通り、「無学のひとびと」並みの免責符はゆるされないはずです。「学問が無学といっしょにまきこまれたのでは、どこに学問の意味があるのだ」といわれるのもその通りであり、その意味で務台さんの告白が、学者、思想家としての背任、決して自慢になる話でないことはいうまでもありません。  だが、それは務台さんも率直に反省しておられればこそ、あの告白になったのではないでしょうか。ただ「いたしかたない」と結ばれた言葉の端が、あるいはあなたのなにかにカチンときたのかもしれませんし、また多少私も気にならぬでもありませんが、そうした言葉の末の詮索をしばらくおいて、務台さんの真意を文脈の前後から判断すれば、私は決して「いたしかたない」という言葉でそれを是認しておられるのでも、自己弁護をしておられるのでもないと信じます。むしろ自身が無力であり、迂遠であったことに対する自省の歎きが、ああした一語になったのではないかとも思えます。  なるほど、羽仁さん、あなたからすれば、戦中での務台さんのあり方は、はがゆいまでに不満であるかもしれません。だが、務台さんは、むしろ率直に、あるいは実際以上の言葉をもって、それを認めておられるのではないでしょうか。というのは、たしかに務台さんに、あなたを満足させるような抵抗や戦争認識はなかったかもしれません。が、さればとて「まきこまれた」と告白される務台さんに、特に侵略戦争のお先棒になるような御用思想家的役割をつとめられたような事実も、不敏ながら聞き及んでおりません。  してみると、羽仁さん、あなたが特に問題にされるのは「迂遠」であったという事実にあるようです。たしかに「迂遠」は自慢になりません。むしろ学者としては恥ずべきことかもしれませんが、ただ悲しい事実として、「迂遠」な人間もありうるということを認めていただきたいのです。務台さんが「迂遠」ならば、はっきり申して、私などはもっと「迂遠」な人間です。あなたの論理にしたがえば、「迂遠」な学者、「迂遠」な人間は、その現在と将来にもかかわらず、永久に救われないとおっしゃるのでしょうか。  私など遠くからの判断で、もし誤りなければの話ですが、たしかに務台さんが深く戦争を憎み、平和の理論と行動に強い関心を傾けられるようになったのは、戦後、それも務台さんの教え子であった菅季治氏自殺事件などのあったころからではなかったかと思います。迂遠といえば迂遠でしょう。だが、もっと大事なことは、その後の務台さんの生き方にあるのではないか、と私は思います。そしてその点では、その後平和理論の探究、あるいは進んで実践の面において、あるいはあなたにはまだ不満な点もあるのかもしれませんが、とにかく学者、思想家のあり方として、務台さんは、少なくとも私など恥かしいくらい一貫した行動をつづけてきておられると信じます。  それだけに私などは、あの務台さんの告白を、言葉の端の不満はあれ、むしろもっと素直に、率直に受け入れたいのです。「迂遠」であったという告白のためだけに、果してあなたからあの悪罵にちかい言葉を浴びなければならない、なんの理由があるのでしょうか。どうも私は、残念ながら、あなたの務台批判の中に、なにかパリサイ的な狭さを感じないわけにいかないことを申し上げなければなりません。そして事実そうしたパリサイ的な論難が、そうでなければ十分前進に向かってお互い手を取り合っていけるはずの平和運動の展開と結集とを、いくど内側から破ってきたかもしれない苦杯を経験しているように思うのです。  戦争中は「日本の侵略戦争に協力し」ながら、戦後「アンネの家族と手をとって涙した」というある女流作家(その名もわかっています)の茶番劇を、あなたも同じ文の中で指弾しておられます。いかに過去が無批判に流されてはならないといえ、この女流作家の無良心的痴呆と務台氏の告白とが、どうして同列に論難されなければならないのでしょうか。私にはわかりません。貴意をえたいと思います。  なお念のためにいっておきますが、これは編集部からの求めによって書いたものでもありませんし、また事前に務台氏になんの連絡をとったこともありません。私ひとりの責任で書いておりますし、責任もまた私ひとりが負うものです。 [#改ページ]   マーク・トウェインの戦争批判——一九六八・九  アメリカの作家マーク・トウェイン、もっとも晩年の作に「不思議な少年」The Mysteri-ous Stranger というのがある。  紹介するまでもあるまいが、マーク・トウェインといえば、まだ辺境が消失しなかった前の、あの闊達無比、もっともいい意味での開拓精神に文学的表現をあたえたといってもよいアメリカ国民文学の最大創造者の一人ということになっている。「アメリカ文学におけるリンカーン」と評した人さえある。この評価に一応まちがいはない。ミズーリの貧しい開拓者の子に生まれ、あとは独立自活、ほとんどあらゆる人生実経験に直接ぶつかって、作家への途を拓り開いていった。代表作は、周知のように、長篇「トム・ソーヤー」、「ハクルベリ・フィン」等々である。うっかりすると子供の読みものと取りちがえるような形で普及化されたが、どうして児童読物どころではない。とりわけ後者にいたっては、主人公の浮浪児ハックの冒険を通して、旧文明の欺瞞や愚劣さを痛烈に暴露し、人間性の独立、自由を歌い上げ、自然讃美を強調した開拓精神の産物である。  短篇小説作家としても一家を成し、新風を開いた。簡単にユーモア作家とかたづけられる一面も、たしかにないわけではないが、これまたどうしてそれだけではない。諷刺作家としても見のがすことはできぬ。「赤外套外遊記」や「アーサー王宮廷におけるコネティカット・ヤンキー」では、囚われない自由無碍の開拓者精神から見た西欧旧文明の因襲や停滞が見事に槍玉に上げられている、等々——  もっともこの一文はマーク・トウェイン論をやるのが目的ではない。上記「不思議な少年」の、そのまた一節を紹介してみたいというだけの話なのだが、ただこのトウェイン、かつてはむしろ愉快なユーモア作家とまで考えられていたトウェインが、晩年は実に病的とさえいえるほどの人間不信、人間呪詛のペシミストとなっていたのである。その典型的な作品として挙げられるのが、この「不思議な少年」と、それに対応する対話体の「人間とは何か?」等々である。これらに表われている彼の人間観は、人間の道徳性、自由意志などは、頭から否定し去っている。「人間はただ自動機械にすぎない、ただそれだけの話」だとある。それくらいならまだいいが、「飢えた犬を拾って養ってやれば、まさか犬は諸君に咬みつくまい。」ところが、人間はそれをやる。「これが人間と犬との最大のちがいだ」とくると、これはなんとも手きびしい。さらに、「神は人間を創りたもうたが、これはなんの有用な役にも立っていない。……というのは、人間の歴史というもの、いつの時代、いつの時期、いや、いかなる事情下においてみても、山ほど、いや、海ほどあがる歴然たる証拠は、およそ一切の被造物の中にあって、もっとも唾棄すべき存在は人間だということばかりである。一切の生物の中にあって、人間こそは悪意、邪心をもっている唯一の——絶対唯一の生物である」というにいたっては、まことに身も蓋もないが、ざっとまずそういった調子であった。  さてこの「不思議な少年」は、トウェイン死後数年の一九一六年に発表された。上に一斑を紹介したような彼の悲観厭世論、人間性否定を、対話体で論述した「人間とは何か?」に対応するように、これはまたおよそ幻想に溢れた一篇のロマンスにまとめたのが、「不思議な少年」である。  中世末期のオーストリアの小村を舞台に、忽然として見知らぬ少年が現われる。サタンの化身だということになっている。はからずも村の少年たちと親しく交わっているうちに、彼は次々と村に大騒ぎを巻き起こす。それらの事件を通して、作者の人間不信、人間呪詛を、この場合はきわめて具象的に訴えていこうという趣向である。そして、最後にサタン少年は、「神もなければ、宇宙もない。人類もなければ、この地上の生活もない。天国もない、地獄もない。みんな夢——それも奇怪きわまる馬鹿げた夢ばかりなんだ。存在するのはただ君ひとりだけ、しかも、その君というのも、ただ一片の思惟[#「思惟」に傍点]、根なし草のようにはかない思惟[#「思惟」に傍点]、空しい永遠の中を永劫にさまよい歩く流浪の思惟[#「思惟」に傍点]にすぎないんだよ」という一言だけを残して、そのまま永久に消えてしまったという話。  これも「不思議な少年」そのものを解説するのが目的ではないから、これ以上作品論をやるのは省略するが、ただこんな一文を書いてみる気になったのは、その後半の二、三章で、サタン少年の口を通した痛烈な戦争批判、そしてキリスト教文明への糾弾が盛りこまれているからである。半世紀も前に書かれたものだが、たとえば泥沼のようなベトナム戦争が現にキリスト教国アメリカによって戦われているとき、いま読んでみても、なかなかに考えさせられるものがあるはずだからである。  以下、できるだけ無用な注釈は抜きにして、もっぱら本文本位に紹介していきたい。  まず戦争原因論ともいうべきものがある。だが、それを述べる前に、まずトウェインの戦争本質論みたいなものを紹介しておく。意地悪げな笑いをうかべてサタン少年が言うのである。 「人類ってやつは百万年もの間、ずいぶん繁殖をつづけてきた。だが、よくもまあこう単調に馬鹿げたことばかりくりかえしたもんだねえ——しかも、なんのためなんだ。いったい(戦争によって)誰が儲けるというんだね? ほんのひと握りの国王、そして貴族どもだけなんだよ。しかも、その国王、貴族どもというのはなんだ? 君たちを軽蔑し、君たちがさわりでもしようものなら、汚いものにでもさわられたように思ってるんだ」という。これは十六世紀の話ということになっているから、国王、貴族などという大時代な存在が出るが、いまならさしずめ財閥と、そしてその御用保守政党とさしかえれば、けっこう現在にも生きているはずだ。また、これもサタンの言葉によると、戦争というのは、「あるときは王家の人々の私欲のために、またあるときは弱小国を亡ぼしてしまうために、それは戦われるのであり、かりにもなにかきれいな目的で、侵略者が起こした戦争などというのは、人類史のかぎり、まず絶対にない」という。春秋に義戦なしとはとっくの昔に孔子様の言葉だが、これも王家などという古めかしい言葉を、多少さしかえれば、内村鑑三の「日露戦争によって私は一層深く戦争の非を悟りました……日露戦争もまた其名は東洋平和のためでありました。……戦争は飽き足らざる野獣であります」という告白や、これはまた意外にも故吉田茂の「近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行なわれたことは顕著な事実であります……正当防衛権を認めるということそれ自身が有害であると思うのであります」などにも、そのまま通じるのではあるまいか。  さて、それではどんな風にして戦争は起こるかについてのサタン、つまり、トウェインの戦争原因論をうかがってみよう。彼はいう。 「未開人にしろ文明人にしろ、大多数の人間ってものは、腹の底は案外やさしい。人を苦しめることなんて、ほとんどできやしないんだ。だが、それが攻撃侵略的で、まったく情け知らずの少数者の前に出ると、そういう自分を出し切る勇気がないんだな。……戦争を煽るやつに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて一人としていなかった。ぼくは百万年後だって見通せるが、この原則に外れるなんてことは、まずあるまいね。あっても、せいぜいが五、六人ってところかな。いつも決って声の大きなひと握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに宗教家どもは、はじめのうちこそ用心深く反対をいう。国民の大多数も、鈍い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして、心から腹を立てて叫ぶのだ。『不正な戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない』ってね。するとまた例のひと握りの連中が、いっそう声をはり上げてわめき立てる。これも少数だが、もちろん戦争反対の立派な人たちはね、言論や文章で反対理由を論じるだろうさ。そして、はじめのうちは、それらに耳を傾けるものもいれば、拍手を送るものもいる。だが、それもとうてい長くはつづかない。なにしろ煽動屋のほうが、はるかに声が大きいんだから。やがては聴くものもいなくなり、人気も落ちてしまう。すると今度はまことに奇妙なことがはじまる。まず戦争反対論者たちは石をもて演壇を追われる。そして、凶暴になった群集の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。……そう、教会までも含めてそうなのだが、いっせいに戦争、戦争と叫び出す。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて襲いかかるわけだ。まもなく、こうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが安価な嘘をでっち上げるだけさ。まず被侵略国についての悪宣伝をやる。国民は国民で、うしろめたさがあるせいか、それらの気休めにこれらの嘘をよろこんで迎えるのだ。こうして、そのうちにはまるで正義の戦争ででもあるかのように信じこんでしまい、この奇怪な自己欺瞞の中でぐっすり安眠を神に感謝することになるわけだな」  つまり、こうして、つい先だってまでは侵略的挑戦として反対を受けていたものが、あれよあれよというまに正義の戦争ということになって、本格的な戦争がはじまるというわけだが、これもどうやら半世紀前の話とはかぎらないようである。わたしたち、満洲事変から太平洋戦争突入までの十年間を体験してきたものにとっては、このサタンの冷笑は一々身にしみて思いあたる。教会ならぬ、マスコミまでを含めて、まさにこの通りであった。近ごろマスコミの街頭録音などで、もはや戦争体験を知らぬ若い戦後世代の諸君が、いとも気軽に、やはり無防備では安心ならぬ、防衛の軍備は必要だと思います、などと答えているのを聞くが、その防衛軍備だったはずのものが、実際にはどのように用いられたか、そして、その犠牲だけを背負わされたのは、国民のどのような人たちであったか、少しくらいは歴史的に勉強してみたことがあるのであろうか。引用したサタンの言葉は見事にそれに答えてくれているように思う。  さらにもっと痛烈なのは、西欧キリスト教文明の糾弾である。第八章の終り近くに、サタンが少年たちに対して、旧約聖書にはじまって、人間歴史の中における殺人、流血場面の幻を次々と示して見せる一節がある。最初はまずカインの弟アベル殺し、くだってはヘブライ人の戦争、エジプト人、ギリシャ人の戦争場面。とりわけローマ人のカルタゴ人皆殺しの残虐場面は白眉であった。次はキリスト教文明下のヨーロッパ、だが、これも戦争、殺戮の連続ばかりである。「あとに残されたものは、つねに飢饉と死と荒廃であった」とサタンはいう。そして、一方ではその間における殺人兵器、軍隊組織のたえまない発達を、目のあたりに見せる。「キリスト教徒は鉄砲や火薬まで使い出した。いまから数世紀もすれば、彼らはその大量殺人兵器をさらにさらに恐るべきものにすることによって、もしキリスト教文明というものさえ起こらなければ、戦争は最後まで小規模なケチな形でのこったろうにと歎かせるにちがいない」というのだ。  注意してほしい。サタンは、「いまから数世紀[#「数世紀」に傍点]もすれば」大量殺人《ゼノサイド》新兵器の発達は慄然たるものがあるはずだと言った。だが、ここでは千里眼のサタンすら、完全に見通しを誤っていたのである。この言葉が書かれてわずか半世紀足らずにして、原爆が生れ、水爆が生れ、しかもその二発までは実際に使用された。しかも、その発明者、使用者は、キリスト教文明の指導者、そして作者マーク・トウェインの祖国アメリカだったのである。  さらにサタンは、冷たい笑いをうかべながら言う。「とにかく、たいした進歩だよね。たった五、六千年間に五つも六つもの高度文明が起こって、世界を驚かせたかと思うと、たちまち衰えて消えていった。だが、その中にあって、大量殺人のうまい方法を発明したというのは、現在のこの文明だけだからね。もちろん人類最大の野心は人間を殺すことであり、現に人類の歴史はまず殺人をもってはじまってるわけじゃないか。だけど、その意味でもっとも誇るに足る勝利を記録したのは、キリスト教文明だけだってことだね。もう二、三世紀もすれば(注—これも完全なサタンの計算ちがいである)、もっとも有能な殺し屋というのは、キリスト教徒だけってことになるんじゃないかな。そうなれば、異教徒たちは、みんなキリスト教徒に弟子入りするに決ってる——それも宗教を教わるためじゃなくて、ただ人殺し機械をもらうためにね。トルコ人もシナ人も、宣教師や改宗者を殺すために、そうした兵器を買いこむことになるさ」と。  これなども、最後はまだ人間の残忍性に対する評価がずいぶん甘いとさえいえる。トルコ人、シナ人は挙げても、日本人とまでは言っていないのも甘い。また「買いこむ」どころか、みずからこの大量殺人兵器を真似し、つくり出すことに狂奔する実態までは見通しできなかったのであろうか。「異教徒たちは、みんなキリスト教徒に弟子入りするであろう」という。佐藤以下自民党右派も、さすがにいくども咽喉元までは出かかる自前の日本核武装までは、まだやっと抑えているようだが、本音はたいてい決っている。だとすれば、これなどまさに「異教徒の弟子入り」に相違ない。  これ以上の注釈はもはや必要あるまい。これまであまり日本では知られていない作品であり、また、こんな作品の最後の部分に、こんな痛烈な戦争批判やキリスト教文明の糾弾のあることなど、知った読者は少ないのではないかと思ったので紹介してみた。キリスト教国の大統領ジョンソンや国防省筋の軍人なども、果して自国のこの作品をどんな顔をして読んでいるのだろうか。ちょっとわたしには興味がある。 [#改ページ]   アポロとコロンブス——一九六九・七  まるで世界中がひっくりかえりでもしたかのような狂騒の中で、果してこんな閑文字が適当だかどうか、われながら多分に疑問なのだが、とにかく——。  もちろん、わたしとても、人類はじめての月面着陸ということの意義を、大きく評価する点でやぶさかなものではない。すでにあの十二年前(一九五七年)、スプートニク1号の打上げが、はじめて地球引力の厚いカベを破ったとき、ある意味で今日の成果に至る道は大きく予見できたともいえる。だが、それにしても、人類の足が、地球以外の天体の大地を、はじめてしっかり踏んだということの意義は、いくら強調しても強調し足りないにちがいない。  それについて、ある人は、かつてコロンブスの新大陸発見の意義にも比すべきではないか、といった。きわめて限られた意味でなら、別に異議を唱えるほどの気もないが、ただ新大陸の発見、発見と大きく言挙《ことあ》げするのは、ずっと後のことであり、四百七十七年前(一四九二年)の十月十二日、彼コロンブスは実にひっそりと人知れず、サン・サルバドルの海浜にその足跡を印していたのであり、発見そのことすらが、いわば思わず「蹴つまずいた」かのような結果だったのである。  が、それはともかく、人類能力の限界をついに他の天体にまで拡大したというこの偉業だが、それではそのことを成しとげた人間とは、いったい何者なのであろうか。  というのは、まことに奇妙な話だが、その知力の限界、能力の開発を、ほとんど無限ともいえるこの段階まで推し進めた人間も、実は他面、人間存在の尊厳さということからいえば、逆に転落の一路をたどってきた歴史だともいえるからである。  たとえば、原始の人間は、多少の考え方の相違はあれ、とにかく、神を除いては、立派に宇宙の中心的存在であった。早い話が、たとえば旧約聖書によれば、それは特に「神に肖《に》せて創られ」一切被造物の支配を託される聖別の王座を約束されることになっていた。地球は宇宙の中心であり、その上にあって人間は、いわば最高の誇りをあたえられていた。  ところが、まず地動説の確立によって、地球はたちまち太陽をめぐる、単なる一惑星にしかすぎぬという、コペルニクス的転回の衝撃を受けた。だが、それでもまだその一惑星のかぎりでは、とにかく他の被造物一切とは断絶した、最高存在としての権威だけはのこされていた。だが、第二のショックは生物進化説であったはずだ。いまや人間は、神から特に聖別されたものでもなんでもなく、単にアミーバ的単細胞生物から一路連続的につづく進化系列の、ただ先頭、最先端に立っているというだけの存在にしかすぎなくなった。  だが、それでもである、いかに領土は狭められ、権威は厳しく制限されたにせよ、まだ自我という小王国だけは残されて、そこでは輝かしい理性が君臨する主権者であるはずであった。だが、最後のその誇りにまで、いまや致命的打撃をあたえたのは、近年の深層心理学、条件反射説等々の出現であった。ここに至って、理性の小王国すらもあえなくついえ去ったといえる。精神分析学の意味するところからいえば、個我はもはや一つの理性によって支配される統一体ではない。完全に「分裂した家(ハウス・ディヴァイデッド)」にすぎぬという。わたしたちの認識も、行動も、しばしば無意識という、どうしようもない暗黒の力によって決定されるということになった。条件反射にしてもそうである。人間の意識、意志については、まだ未開拓の部分を多分に残しているようであるが、これまた人間存在の本質を、あまり栄光ならぬ決定論下に置こうとしているかに見える。  もはやわたしたちは、みずからの主人ですらないのである。総じて近年の心理学、生理学などの新発展は、人間の正体をより明らかにはしたが、より幸福にしたとはいえぬし、また、より深めたかはしらぬが、より美しくしたとはいえないようである。  まだある。近代天文学の発達は、ほとんど想像力を絶する広大さにまで宇宙空間を拡大し、地球の属する太陽系などは、いわゆる銀河系宇宙の微塵にしかすぎなくなり、膨張する銀河系外の星雲世界にまで広がってしまった。その中にあって、人間存在などは——かつて天文学者ジーンズだったか、この広大きわまる宇宙の、その塵埃の一片にしかすぎぬ人間のために、人間中心の世界が創造されたなどとは、とうてい考えられぬ。もしそうだとすれば、およそこれほど巨大なムダはないとして、人間中心の宗教観念をわらっていたのを思い出す。  そんなわけで、人間存在の尊厳性からいえば、完全に屈辱のこれは歴史であった。だが、それにもかかわらず、月着陸にいたる奇跡にも似た成果を、次々に達成してきたのもまた、この卑小きわまる人間であったのだ。古い話にまではさかのぼらぬが、あの人間がついに太陽をとらえた——原子核エネルギーの解放に成功したとき、最近の大奇跡がまず起った。地球引力の厚いカベも、ついに人類英知の探究をはばみ切れるものではなかったのである。極大世界への方向にも、極微世界への方向にも、人類英知のおよぶところは、ほとんどとどまるところを知らぬかに見える。みずからの手で栄光、尊厳の王座をつきくずしたその同じ人間英知が、逆にこの偉大な奇跡をも成しとげてきたのだ。おそらく最後の奇跡であろう生命の人為的合成ということも、もはや決して遠い夢ではないかもしれぬ。だが、ただそれが果して手放しでよろこんでいいものか、もちろんそれは別問題である。  かつて(明治三十六年五月)十八歳の青年藤村操は、「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす……万有の真相は唯一言にして悉《つく》す、曰く『不可解』」と遺書して、華厳巌頭から身を投じて死んだ。だが、人間はいまや着々として、まさにこの小をもって、この大をはからんとしている。しかも不可解どころか、これまた着々として、秘密のベールをはがし、これを征服、人類意志のコントロール下に置こうとしているかに見える。偉大と称すべきか、すばらしいというべきか。だが同時にまた藤村のいう「不可解」はまったく別の新しい意味で、いよいよ深くのこされようとしているかにも思える。  月世界到達ということにはじまる人類の宇宙征服が、今後どのような形で人類幸福のために生かされるか、それはまだ将来の大問題であるはずだ。だが、人間本性のおそらく変らぬかぎり、過去におけるすべての発明、発見の運命がそうであったように、幸福のためにも利用されるかわりに、同時に不幸のためにも悪用される可能性は十分にある。  伝えられる数字によれば、アポロ計画八年越しの総経費は、円換算にして八兆六千億円あまりとある。ところが、ベトナム戦争の戦費は、六九年度一年間だけでも、九兆五千億円近いというのである。こうした、どう見ても愚かしいムダをやるのも、相変らずこの偉大な[#「偉大な」に傍点]人間であるとすれば、そうこの壮挙の成功だけを見て、希望の虹をかける気にもあまりなれぬ。要するに、この不可解なるもの、不可知なるもの、それが人間ということなのであろうか。 [#改ページ]   解説[#「解説」はゴシック体] 尻馬に乗って [#地付き]安野光雅  小田島雄志と会ったとき、たまたま中野好夫を読みかえしていたころだったので、その本についての感動をもらしたところ「あたりまえだよ、あれは僕の師匠なんだから」と、さりげなく言われた。ちょっと考えてみればわかることなのに、相手が悪かった。私は商売がまったく違うこともあって、英文学者などというものを格別意識しないで生きてこられたのに、あのときくらい人を羨ましく思ったことはない。彼は気がつかなかっただろうが、はては小田島雄志の風貌までが、中野好夫に似ているように思えはじめ、心中口惜しく思ったことであった。  わたしは、同時代を生きているのに、幸にして、中野好夫を直接見たこともなければ声を聞いたこともない。なんどか写真で見たことのある顔を思いだすことはできるが、私には勝手に作り上げた中野好夫の偶像があるので、そのほうがいいと思い、敢えて写真を探そうとはしないでいる。 「幸にして」と言ったのは、負け惜しみではない。わたしが、何かの間違いで、直接彼の(恩師ではないから、わざと彼と呼んでみるのだが)薫陶をうけるようなことがあったら、今のように絵描きとして、自由に暮らしてはいられなかったかも知れないし、また、解説などと、怒鳴りつけられそうな役廻りはしなかったであろう。  ところで、勝手に製造した偶像は、頭が禿げて黒光りがし、汗かきと見えていつも顔がてかっている。眼光はするどく、それでいてよく笑う、豪快といえば豪快、つまり言動が軽率なまでに率直であるため、しばしば人から誤解され、あるいは煙たがられ、しかもそれを屁とも思わない。人相見などという迷信は大嫌いな私としたことが、見たこともない人になんという失礼な偶像を与えたものであろう、と反省はするが、この妄言当死にはモデルがある。「自分が死んだら、墓を建てることを断ることができないから、そのときは次善の策として、おまえさんが道端の適当な石くれに、同行二人ここに眠る、という字を書いてくれ」と言って亡くなった、Iさんである。Iさんは、なになに主義者というほど限定されたものではないが、無神論者のくせに、弾圧されるものには、それがたとえ新興宗教であっても声援しかねない人間だった。また思想的には遠く及ばないが、わたしの親父も禿げているという点がIさんに似ていて、そして先天的な無神論者であったから、わたしはIさんの中に、父の幻影を見ていた。  私の父とIさんを結びその線を延長していくと、手前勝手ではあるが、中野好夫の偶像につきあたるのである。いま生きておられたり、またわたしが一度でも声を聞いたことがあったら、こんなことは書かないにきまっているのだから、これを読む人の中に中野好夫の弟子なり強烈な読者がおられても、どうかこの妄言をとがめないでいただきたい。  中野好夫(以下、N)の文章は、わたしにとって、美しい感動に酔わされるものであった。断っておくがそのアジテーションに酔うのではない、そうだとしたらNの最も忌み嫌う読まれかたであろう。つまり評論である前に、わたしは文学の持つ興奮を感じるのである。大げさにいえば内容を問わないのである(これは難しいいいかただが、もしNがわたしと反対の思想であっても、Nを肯定するかもしれないというほどの意味)。その文章は明晰で、率直で、歯切れがよく、どれをよんでも、ちょうど台風の過ぎた朝のような爽快な読後感があった。  明晰であることは、思考の道程、その歩幅が読む者と同じであるという錯覚をおこさせるに充分である。つまりそっくり同じ道を、ほとんど影をふむようにして歩いているという自負心にかられる。その学識はともかく、死生観ならばわたしもそう考えていたと思える部分があるのだが、そんなところが二、三箇所でもあると、その他の部分についても「わたしもかねがねそう考えていた」と思ってしまう。なんとも不遜な言い方だがしかたがない。  このように軽薄に「わたしもそうだ」といいはじめることを軽蔑して、わたしの田舎では「尻馬に乗る」と言う。結果的にわたしが尻馬に乗ったように見えることもあるだろうが、「俺も生きたや仁吉のように」というはやり歌の、あの仁吉をNに変えて歌う気分でさえある。好漢、中野好夫の尻馬に乗ることができるならば、軽蔑もまた光栄に価するのである。  書名は「悪人礼賛」とした。これはNの文章からとったものである。ちょっと危険だが、しかし言い得ていると思う。この本を読んで同じ感想を持たれる方があることを信じている。いや、この思いをこそ、伝えたいためにしゃしゃりでた編集であった。  内容を、二つにわけた。本来ならその専門の、英文学に関する著作、とりわけスウィフトの思いもかけぬ話などがなければ首尾一貫しないのだが、これは私には無理である。できれば、『中野好夫集』全十一巻(筑摩書房)を読んでいただきたい。 1 悪人礼賛  これは、Nの人生観、死生観が述べられたものである。一口に言って「死んだら灰は海にまいてくれ」というあの、無理な願いがどんなに普通の考え方であるかということが説かれている。神や仏や、強いて言えば現代医学にとりすがって一刻一秒でも長生きしたいと、聞き分けもなく願ってやまぬ人間の、ある意味での不幸を睥睨しているのである。死ぬことは誰も同じで、学識教養を必要とすることではないから、この本は、あやしげな宗教の教本よりはるかに気高いものとして読める。そして、いいたくはないが、文庫本一冊の代価で、悟りを得ることができるとしたら、大したものではないか。  もしこの本の「死について」「私の信条」の尻馬に乗ることができるならば、例えば戒名に高い金を払うような、あるいは延命装置をつけ、ロボットに介護されて、入牢にも似た老後を送ることの不可思議をすこしは直視することができるはずである。  これらの文章は、四十年も前に書かれたものが多く、二十年前というのが三編あるだけである。これを書いているいま、世の中では、将来一人が六人の老人を養わねばならなくなる、という人口統計からの推論がたてられている。いまの若者が老人になった時のはなしであるが、この推論を聞かされると、老人が邪魔者になると言うような口ぶりにしかきこえてこない。このさい自分の死生観を確立させるためには、神や仏に頼っているのでは間に合わないであろう。なぜなら、神官も神父も僧侶もみんな老人になってしまって、彼等だって死ななければならないし、さりとて自分よりも若い人による御託宣で満足するわけにもいくまいではないか。  あるいは、現代医学の有難さにも問題がないわけではない、生体間肝臓移植手術の成功例が各地で報告されつつあるのは、さて置くとしても、犯罪の被害者の脳死を判定して臓器移植をした例がついこの間あり、いま論議をよんでいる最中である。被害者からの移植がなりたつのなら、加害者が死刑であった場合は無論なりたつのだろうな、と念を押しておきたくなる。  また、オゾン層の破壊や、人工受精の問題など、現代文明がもたらす難問も限りなく横たわっている。  統計からの推論といい、この脳死判定といい、わが中野好夫がもし生きていたら、何と言うだろうなと切に思う。わたしには、Nの痛烈な批判をもってしても「かなうものではない」と失笑しているNの顔が見えるような気がしてならぬのだが、この本を読まれたかたの感想はいかがなものであろう。 2 自由主義者の哄笑  これらは、まだ敗戦という言葉が、終戦という用語にとって変わる前の時代にはじまり、民主主義、単独講和、全面講和、自由主義、自衛隊など、現代史そのものの激しい変貌のおりおりに語られた、率直にして節度のある痛快な評論で、いま読みかえして見ると、生きた歴史を目の前にする観がある。 「歴史に学ぶ」という章はそのまま、わたしが中野好夫に学ぶところでもある。中にはそそっかしい者がいて、Nを赤よばわりした者があるということだが、とんでもない。たとえば「自衛隊に関する試行的提案」を読んでいただきたい。自衛隊に関する理解は左右のだれよりも人間的であることが知られるであろう。このようなNの切なる発言には、赤と白とを問わず、為政者はかなりたじろいだはずである。  また「自由主義者の哄笑」の哄笑の文字ほど、天下に響くものもない、もし聞く耳を持つものがあれば、Nに首相の役を果してもらいたいといいはじめるだろうが、Nはまさにそのとき、椅子からずり落ちて哄笑するはずである。  いま、これを書いているのは、以上の文章より二十〜三十年後の、一九九〇年十月である。さきに天安門事件があったかと思うと、ソ連の共産党は衰退して各地に民族独立運動が起こっている。ベルリンの壁は壊され、東西ドイツは突然の如くして統合された。南北朝鮮もそれぞれ大統領と主席が劇的に会合して、その統一が夢ではなくなり、同時に日本の要人が正式に北朝鮮を訪問するという戦後はじめての機運となり、又、北京ではアジア大会が開かれているまっ最中で、世界史は平和に向かって、かつて無い動きを見せている時である。しかし局限的には、イラクがクエートに侵攻し、人質をとって戦闘準備にはいったため、国連が(米ソの共同歩調)イラクの制裁を決議し、世界の目は中東に集まっている。  このとき、日本はどのように対処すべきか、自衛隊派遣の賛否を含める難問に直面するという、まさにその瞬間である。  われわれはどう考えればいいか、わたしが一番意見を聞きたい中野好夫はこの世にいない。どうか「若い人々」はこの本から、「歴史に学」んでほしい。また、中野好夫の生き方に学んでほしい。若くない人でも、これを読めば血圧はさがり血行はよくなり、天下を憂う青年の気質が蘇えるはずである。私も血圧を下げたいし、自由主義者でありたい。だが哄笑はせず、ただ微笑しているだけにしておこう。   一九九〇年十月三日 [#1字下げ]東西ドイツ統一の日に 中野好夫(なかの・よしお) 一九〇三年、愛媛県に生まれる。東京大学英文科卒業、一九四八年から五三年まで東京大学教授。文筆活動のかたわら雑誌『平和』編集長を勤めるなど、平和運動家としても著名。シェイクスピア、スウィフト、ディケンズ、モームなどのほかギボン『ローマ帝国衰亡史』の訳業がある。著書に『人は獣に及ばず』『文学の常識』『アラビアのロレンス』『蘆花徳富健次郎』ほか多数。『中野好夫集全一一巻』がある。 安野光雅(あんの・みつまさ) 一九二六年、島根県に生まれる。画家。『ABCの本』で最も美しい50冊の賞、『ふしぎなえ』『旅の絵本』などでケイト・グリナウェイ賞、国際アンデルセン賞などを受賞。ほかに紫綬褒章など。 本作品は一九九〇年一二月、ちくま文庫の一冊として刊行された。